「……寝ぬぞ」

「……寝たぞ」

「……寝たのか」

「……寝てぬのか」

「……」

「…………」

「………………」

 気まずい沈黙の後、もう良いわッ――と、ぴしゃりと打ち据える声が響く。周りはどりろりとした無明で、どこを向いても、一点の光さえない。その中で、苛々とした声だけが響く。

「精螻蛄の言葉遊びなぞ、している場合ではないわ。そろそろ、話をしても良い頃であろ」

 ふっと息を吐く音がして、両掌で包み込めるほどの可愛らしい炎が、虚空にふわふわと浮かび上がる。その火は傍らに立っている、一人の道士が胸元まで擡げた掌に乗っていた。

 その男が道士と分かるのは、道袍を纏い、冠巾を被り、長い髭を蓄えているからである。皺だらけの顔に、鷹の如き鋭さを帯びる双眸

手には三韓の巻物を持っている。

「ぬしらも、もう少し火に近ゥ寄れィ。姿が見えん。暗闇の中、形なき声と話すのは不気味で仕方がない」

 先に苛々と声を荒げたのと、同じ声色だ。それに答えるように、何を今更……とぼやく声が響く。道士のそれも相当だが、それとは比べ物にならぬほど恐ろしく皺枯れ、禽獣の唸り声のようであった。

 ざりざりと、何かが動く気配。青白い火の中に、新しく二つの影が現れる。道士の眼差しは、掌上の鬼火から、その二つの影に移り、じっと注がれる。

 どちらも、まったく異様な姿をしていた。

 一つは唐獅子狛犬に似た姿をした獣である。道士の呼びかけに、溜息交じりに答えたのは、きっとこの獣なのだろう。瞳の色、爪牙――いずれも鈍い金泥に塗り潰されている。その金に、道士の掌上の鬼火がゆらゆらと揺れているのが映っていた。体をみっしり覆う毛は白く、頭の後ろと尾先だけ黒に染まっている。

 もうひとりは、その獣に輪をかけて異様な姿形をしていた。道士であれ唐獅子であれ、ふたりは人や獣として完成した形を持っている。だが、こいつだけは違っていた。頭は牛である。足は人である。それだけである。牛の頭の下から、人の足がにょっきり生えている。その一本足を、器用に捻じ曲げて胡坐を掻いて、寛いでいる。余りものをてきとうにくっ付けただけの何とも残念な姿をしていた。

 この三つの他にまだ、誰かが潜んでいる気配はない。彼らはこのくらがりの中で、何をしているのだろう。

 ――そもそも、ここはどこなのだろう。

 と、不意に唐獅子姿の獣が、柘榴が爆ぜるように、その口を開いた。鬼火に煌めく牙。ぺちゃぺちゃ舌を滴る音を立て、言葉を紡ぐ。

「さて――と。これで安心したわ。あの男、なかなか眠らんもんだから、いたく難儀した」

「少し前に庚申待のことを村人から聞いて、我らが腹の中にいることにも気付いたらしい。すっかり怖気づいて、かといって誰に頼ることもできず、独りで庚申待をしたのだろう。無駄なことだ。こんなぐうたらが一人で夜更かしなど、できるはずがない」

 獣に平然と言葉を返す道士。髭を撫でながら、もうひとり残念な姿をしている異形にも声をかける。

「おい、何をしているのだ。珍しく黙っているから、何をしているのかと思えば……鼻を穿るなら、貴様の塒である尻に帰ってからにしろ。そこなら糞ばかりだから、貴様の鼻糞一つ増えたところで煩いはない。ここは彭常子の塒ぞ。今宵は大切な用があって、ここに皆を集めたのだ。時間を無駄にしている場合ではない。疾く疾く、本題に移ろうぞ」

 この三つ――いずれも、三尸の虫のようだ。

 三尸虫という名だからといって、姿形まで虫と同じというわけではない。彼ら三形は、『太上除三尸九虫保生経』に書かれている三尸の虫の姿形とそっくりなのであった。道士の姿をした彭候子と呼ばれる虫は上尸といい、人の頭の中に棲む。眼を悪くさせたり、皴を刻んだり、髪を白くしたりと嫌がらせをする。

 唐獅子の如き獣の姿をしているのが中尸といい、彭常子とも呼ばれる。腸の中に棲み、五臓を悪くし、悪夢を見せ、大食を強いる。

そして最後の残念な姿の異形が下尸といい、命児子という。下腹に棲み、精を減らして、酷い時には命まで奪う。誰よりも情けない姿をしているのに、誰よりも恐ろしい嫌がらせをしてくるのだから油断できない。

 彼らが三尸の虫ならば、この暗闇は宿主である松阪長叛の体の中――彭候子が、ここは彭常子の塒だといったことを考えると、どうやら長叛の腹の中らしい。彼らは天帝に悪事を報告する、その事前の打ち合わせのため、長叛の腹の中に集まって、色々なことを談義する心算であるらしかった。

 彭候子に叱責されて、命児子は足を鼻から引き抜き、それを頭の上に持っていきながら、面目ない――と答えた。恐ろしく器用な足だが、それを頭の上に持っていっているために、命児子の体は、ばったりと後ろに倒れ、毬の如くごろごろ転がっていて、謝るべき彭候子の方を向いてはいなかった。

 深く溜息を吐く彭候子。姿が残念ならば、頭も同じくらい残念なようだ。だがそれは、腕っ節だけ無駄にある松坂長叛も同じこと。宿主が宿主なら、三尸もろくなものにはならないらしい。

彭常子が牙をガチャガチャ鳴らして言った。

「まあまあ、彭常子。命児子のことは放っておこう。それより、あまり声を荒げない方が良いぞ。腹の皮を透かし見てみろ。天窓から精螻蛄が、嬉しげに覗いておるわ」

 彭候子と命児子は同時に顔を上げた。その目が猫のそれの如く、きゅっと細くなる。寸時を経て、ああ……と頷く彭候子。瞳に敵意がかぎろい、髭に埋もれた唇が、三日月状にヒン曲がる。

「ふん……相も変らぬ醜い姿よな。この大泥棒を喰らおうとしておるのか。それとも……狙っておるのは、こ奴の罪業か」

「後者であろうよ。精螻蛄は守庚申をせずに馬鹿顔をして寝ている人間にしか害を与えることができん。見張りついでに、わしらの話を盗み聞きして先に天帝に奏上し、手柄を独り占めしようという魂胆さ。精螻蛄の目も、人の体を透かし見る。わしらがこうして腹に集まったのを見れば、何をしているかと興味を抱くも尤もだ」

 そう言って彭常子も見上げた。三尸の虫の目には今、長叛の腹の皮を通り過ぎて、小屋の屋根の節穴から覗き見ている物の怪の姿が映っている。骨ばった体は紫がかった黒。顔の左右に白毛が生えている。手足には鋭い爪、彭常子に似た獣顔だ。異様に大きい双眸は、提灯の如く爛々と光っては、家の中を舐めるように見回していた。これが、精螻蛄である。

 彭候子は頭上を睨めながら、巻物の一つを、くるくると広げた。巻物は宙に浮かび上がり、ふわふわと漂っている。その先に筆で何やら書きつけながら、彭候子は言葉を紡いだ。

「それならば、なおさら急がねばな。ただでさえ、儂らは後回しにされてばかりなのだ。今まで庚申日が来るたびに天に昇ったというのに、一度も天帝にお目見えできず、帰ってきただろう」

「そう! それよ! わしらだけ扱いが酷いとは思わんか。ロクに話も聞いてもらえず、けんもほろろに追い返されてばかりだ。彭候子、彭常子、どうしてなのだ! わしらは、虐められておるのだろうか」

 喚く命児子。ふざけたような真似ばかりしていても、一応話は聞いているらしい。

 彭常子は肩を竦め、彭候子双眸に苛立ちを滲ませた。黙れ牛――と目を剥いて、

「それくらい、言わずとも己で考えろ。我らが宿主は、天下の嫌われ者。浮世のみならず、天の上でも鼻抓まれておるのだ。仕出かしてきた悪行は数知れず。それらを一々、儂らの口から聞くのが天帝は面倒臭くて堪らんのだ。だから後回しにして、儂らの話を聞かなくて済むようにしているのさ」

「だが――だが、そんなことをしていると、長叛の寿命はいつまでも縮まらないだろう。長叛だけが世に永らえて、小さな悪事をした平凡な者たちから先に罰されてゆく……のは、何とも不公平に思えてならないのだが」

 それが世の理よ……と溜息するのは彭常子。

「だからこそ、世に悪党が栄えるのだ。だがまァ……仕方無きことかも知れぬよ。天帝は仕事柄、万人の悪事を耳にせねばならぬ。人の悪事を聞くということは、そ奴の心の闇を覗き見るに等しいのだ。楽しい経験ではない。その闇が濃ければ濃いほどな。悪いと知りながらも、ついつい耳を塞いでしまう気持ち……天帝も、苦労が絶えぬということだろうよ」

 獣の癖に、最も冷静な様子の彭常子。それが彭候子は気に食わないらしい。ふんと鼻を鳴らし、居丈高な態度と物言いで、

「それくらいで良かろ。さっさと話を進めるぞ。この六十日間で儂は考えた。天帝が取り合ってくれないのは、長叛の悪事が多すぎて、長い間腰を据えて聞くのが辛いからではないか――とな。話に聞けば、天帝、どうやら、腰痛らしいぞ。雲の上から下界を眺め過ぎたのだな」

「それは気の毒にな。わしも最近、腰が痛い」

「命児子――放っといても良いのだが、敢えて訊いても良いか。お前の腰はどこにある」

 彭候子に冷たく問われて、命児氏はきょとんとした顔。足を捩じって頭の上に置き、指で額に渦を掻きながら、頻りに考えている。こいつは駄目だ――と、顔を見合わせて嘆息する彭候子と彭常子。命児子に突き合っていると、時間がいくつあっても足りない。

「それで彭候子、ぬしは何を考えたのだ」

 事前の打ち合わせさ――と、彭候子は胸を張った。

「長く聞くに堪えぬのなら、簡略にすれば良い。この六十日で長叛が仕出かした悪行を、一つ一つ吟味していって、全てを要約するなり割愛するなりして、分かり易く説明するのだ。そうすれば天帝は、長叛がどれほどの悪党で、それを野放しにしておくことが、どれほど危険なことかというのも分かってくれる。恐らく寿命を縮めるどころではない。儂らも晴れて、自由の身だ」

 なるほど――と、前足を打つ彭常子。なるほど――と、足で頭を叩く命児子。彭候子は聊か得意げに続ける。

「だが――悪事の吟味など、儂一人でしても余計な間違いや誇張を生むだけだ。三人寄れば文殊の知恵……という諺が、人世にはある。故こうして談義しようと、そう思ったわけさ」

「庚申談義か。それは面白い」

 舌なめずりして、金泥の瞳を輝かせる彭常子。命児子も感心したように、足をぺたぺた踏み鳴らしている。

 早速始めようか――彭候子はそう言って、宙に浮かせた巻物に視線を走らせた。宿主の頭の中に巣食う上尸のみが持つこの巻物は、宿主の記憶や心と、そのまま繋がっている。宿主が見たものや聞いたことは、全てここに書き連ねられるのである。書き留めるのだから、たとえ宿主がそのことを忘れてしまっても、ここにだけは全てが残されている。閻魔王の持つ閻魔帳と同じ、絶対に間違いのない、完全な記録である。

 ひらひら漂う巻物は、どこに果てがあるか知れない。そこの全てに、長叛の仕出かした悪事が一々書き連ねてある景を想像すると、身の毛がよだつ思いがする。それを愉しげに眺める彭候子。アッと声を上げ、伸びてゆく巻物の真ん中あたりに屈みこむ。

「これだ、これだ。前の庚申日の翌日に早速、悪さをしおった。ここから三町先の村に住む、独り暮らしの婆の人参を盗みおったな。婆は泣いて止めたのだが、聞き入れやしなかった。下らない悪行ではあるが、まあ良かろ。婆に同情して、天帝も、長叛の悪事に耳を傾ける気になってくれるやも知れぬ。まずこれから報告するとしよう」

 異議なし――というように、頷く彭常子。彭候子は懐から帳面を出して、筆でさらさらと書きつけ始める。と、それを遮るかの如く、手……ではなく、足を上げたのは命児子だ。彭候子の筆が、ひたりと止まって、彼は面倒臭そうに、じろりと命児子に一瞥をくれた。

「何だ命児子。まだ邪魔し足りないのか」

 彭常子も不思議そうに命児子を見る。ふたりの視線を一身に集めて、命児子は牛の顔に皺を寄せ、反芻のためもぐもぐしている頬を、恥ずかしそうに染めた。

「いや、邪魔をしたいとは思っていない。が……」

「何だ。はっきり言え」

「なあ彭候子――天帝に奏上する事柄には、欠片の偽りもあってはならぬのだろう」

「言うまでもないことだ。そんなことをしてみろ。天帝の怒りを受けて、我らの方が消されるぞ」

それならな――と、命児子は足の指で頭の先を掻く。ごろごろと左右に転がる体。

「お前の言う罪は、罪にならぬかも知れぬ」

 へっ……と間抜けた声を上げる彭候子。

「命児子、言ってみろ。どういうことだ」

「待て彭常子――こんな間抜けの言うことに耳を貸す必要は……」

 そういうわけにはいかん、と彭常子は牙を剥いて唸った。金泥の瞳に燃え上がる厳しい輝き、彭候子はごくりと生唾を飲み込んで、素直に引き下がる。

「頭に上尸、腹に中尸、足に下尸。それぞれ見えるものは違っておる。彭常子――上尸のぬしの判断が絶対で、我らの意見を無視するというのなら、ここに我らがいる意味はない。ぬしが一人で何もかも取り纏めて、天に昇り、天帝に奏上すれば良いだけの話。三尸の虫で協力するならば、命児子の意見とて蔑にするわけにはいかんのだ」

 やはり獣のくせに、言うことは一々最もである。彭候子は唇を噛み締め、彭常子の言う通りだ、と呟いた。

「いや、今のは儂が間違っていた。命児子、教えてくれ。お前がさっきの話を、長叛の罪には当たらぬという、その理由は何なのだ」

 改めて問われ、命児子はむず痒そうに足の指先で頭を掻いた。そうして言うことには、

「その婆ァ――十日ほど前に寿命が尽きて、死んでいるのだがな。先日、その婆ァの中に棲んでいた下尸が、わしのところに来たのだ」

「自由になったことを、自慢しにでも来たか」

「いんや、さんざん文句を言われた。貴様らの宿主が、余計なことをしなければ――とな」

 全くわけが分からぬという表情で、顔を見合わせる彭候子と彭常子。ここは取り合えず、命児子の話を大人しく聞いているしかない。

「それで、余計なこととは何だ」

「そ奴の言うことにはな、わしらの宿主――長叛が庚申日の翌日に盗んだ人参はな、その時には、すっかり腐っていたらしいのだ。で、その婆ァに棲んでいた下尸は、それを使って、婆ァを死なせようと企んでいたらしい」

 ホウ――と、梟のような甲高い声をあげて、興がる彭常子。彭候子も合点がいったという顔をすると、胸の前に腕を組み、頻りに髭を撫でつけていた。彭候子が面白そうに言う。

「つまりその婆は、腐った人参を食って死ぬ宿命にあった。だが長叛がそれを盗んだので、婆は命永らえ、婆の中にいた三尸も、自由になる時がずっと遅れたというわけだ。それは良い気味だ」

 良い気味で済まされるものではないぞ――と、彭候子が鼻を鳴らす。

「腐った人参を食った我らの宿主が、こうしてぴんぴんしているのも妙な話ではないか。あ奴、ほんとうに腐った人参を食ったのか。悪戯で誰かに食わせて、それが理由で誰か、一人くらい死んでやしまいか」

 彭常子と彭候子が、揃って首を横に振る。

「残念ながら、長叛が食いよった。むろん、腹は下したぞ。丸三日、床に伏せっておった。儂も中尸として、この機を逃してはならぬと、色々試みたのだが……あ奴の諦めの悪さは、薮蚊よりもたちが悪い。三日目の便で、何もかも全て吐き出した後は、けろりとしていた」

 惜しいことを――と、彭候子は苦虫を噛み潰したような顔で呟いた。今度は彭常子が、首を傾げて問いかける。

「長叛は――知っていたのじゃろうか」

「人参が腐っていたことをか。知っていて、婆に食わせぬよう、自らが食ったというのか。そんな聖人君子の心、奴にあるわけがない。ただ貧乏籤を引いた、それだけのことじゃ」

 だが――と、苛々と頭を振りながら、彭候子は手に持つ帳面の、新しく書いた文字の上に手を翳し、さっと払う真似をした。そこに書き連ねた字が、手の動きと微風に合わせて、煙の如く消え失せる。

「長叛の心がどうであれ、傍から見れば奴がしたのは、悪事紛いの人助けだ。人ひとりの命を救ったのだからな。そんなこと、天帝に知らせるわけにはいかん。――次に行くぞ」

 溜息を吐いて、彭候子は巻物に目を戻す。

「次はこれだ。刃傷沙汰だな。婆の一件から五日ほど後のこと、村の外れで、二人の男を殴り飛ばした。どうだ、これなら大丈夫だろ。言い逃れのできぬ、立派な罪ではないか――と、何だ命児子。また何かあるのか」

 ぴんと上がった足を、忌々しげに睨んで、彭候子は吐き捨てた。彭常子に窘められた手前、そうそう邪慳にも扱えない。とにかく、話してみろと気短に言う。彭常子は興味深けに、命児子の馬の口をじいっと眺めていた。

「それもどうだか分からんのだ。というのも、長叛がその乱暴を働いた日の翌日、この村に住む女の中にいる下尸が、わしを訪ねてきた――というよりも、殴り込んで来た。そりゃもう、凄まじい剣幕だったぞ」

「分からん、どうしてそう、下尸は好き放題に出歩いているのだ」

「出歩きたくて、出歩いているのではないさ。昼寝などしていると、便などと一緒に体外に吐き出されてしまうことがあるのだ」

「……まァ良い。命児子、続きを話してくれ」

 憮然として声も出ない彭候子に代わって、問いかける彭常子。命児子は頷き、言った。

「掴み殺されそうになるのを慌てて逃げながら、わしはその下尸に、何があったか問うた。わしを追っかけながら、そ奴は言った。何と余計なことをしてくれたンだ――とな」

 余計なこと――と、声を揃える上下の尸虫。まあこういうわけなのだ――と、命児子は、鼻をひくひくさせる。

「その下尸が棲んでいる女なのだがな、長叛が手を出さなければ、その次の日に殺されるはずだったのだ。殴り倒したという、二人の男に辱められてな。そうなるよう女と二人の男の中に棲んでいる三尸が仕組んだらしい」

「――へ」

「その女、ある問屋の一人娘でな。それは可愛らしい顔をした、花も恥じらう乙女なのだ。で、二人をけしかけて問屋を襲わせ、その娘を攫って、どこかの山奥で辱めた後に、殺して貰おうという魂胆だったらしいのだ。そうすれば、娘は死ぬし、二人の男も捕らえられれば死罪は免れん。男の中の三尸も解放され、一石二鳥だというわけだ」

「で、それが長叛のせいで失敗したというわけなのか。奴が前の日に二人を殴って……」

 そういうことだ、と命児子は頷いた。呻き声を上げる彭候子。忙しく巻物に屈みこみ、

「な、な、ならばこれはどうだ。十日ほど前、近所の犬を手慰み物に嬲り殺したとあるが」

「それは儂が反対しよう。長叛が殺した犬、この村きっての凶暴な犬でな。何人もが噛まれて、難儀していた。それを退治して村を救ったのだから、罪にはなるまい」

 狗の姿をしているから、そのようなことには詳しいのだろうか。封常子が首を横に振る。

「そ、それならばこれはどうだ。十日ほど前、近所の子どもの玩具を取り上げたぞ。それも理由なく、だ。どうだ、これなら行けるか」

「いや、それも駄目だ。その玩具、その子どもが、別の子どもから取り上げたものでな。あの男、取り上げた玩具を、持ち主に返してやったらしい。子どもは怯えたそうだがな」

「そんな――そんな正道の心を、奴が持っているとはとても思えん」

「正道などではないさ。人の心のありようは、彭候子、上尸のぬしが、誰よりも知っているはずだ。詰まらぬ悪事をする者が気にいらぬ、それだけの話だ。奴は、この村に悪人は、俺ひとりだけで良いと考えておるのだろう」

「な、ならば――これなら行けるか。三日前、村のある家から日乾ししていた着物を盗んだ。これは立派な泥棒ではないか」

「すまんな彭候子――その家の主の下尸が、わしのところに殴りこんできた。その着物の中に蜂が隠れていた。それで死ぬはずの者が、命を救われておる。盗んだことは盗んだが……罪には当たるまい」

「それなら――それなら、これはどうだ! あの、腐った人参を作っていた婆のところへ、人参の礼だと言って、畑を耕しに行っている。婆は戦々恐々として、震え慄いていたという話だぞ」

 彭常子と命児子は顔を見合わせて、溜息を吐いた。彭常子が、慰めるように優しく言う。

「彭候子……躍起になる気持ちは分からんでもないが、少し落ち着いて考えてみろ。婆を怖がらせたことは怖がらせたが……今の話の、どこが悪行だ」

 ググッ……と喉から音を絞り出し、黙ってしまう彭候子。顔が、青黒色に染まっている。彭常子も命児子も、そんな彭候子からは目を背けていた。彼の狼狽が、見るに堪えないのだろう。

 それから三尸の虫たちは、たっぷり一刻もかけて、庚申談義を続けた。この六十日間で長叛が為したと思われる悪事の数々について、額を寄せ、天帝に奏上すべきかどうか諤々と話し合ったのである。彭候子が、長叛の罪を一つ一つ読み上げて、彭常子と命児子が意見する。三尸が三尸とも狼狽を隠せなかったが、真剣に考えれば考えるほど、意見すればするほど、彭候子が読み上げる長叛の悪事には、どれも何かしらの邪魔や裏があって、一つとして胸を張って悪事と断言できるものがないのだった。中尸と下尸が、敢えてそのような弁護をしているわけでもないのだ。彼らとて、長叛を死なせたい気持ちは、彭候子と何ら、変わるところがない。それなのに、長叛の罪はいつまでも決まらず、気付けば一刻を過ごしていた。一刻かけて庚申談義をした――というよりも、談義に難渋して無辺世界を彷徨っているうちに、一刻を無駄に費やしたといった方が、適当かも知れない。

 草木も眠る丑三つの頃――長叛の中の三尸虫は、もはや物言う気力もなくなって、その場にばったりと伸びていた。彭候子だけは、なおも巻物の上に屈みこんで、何かないかと探っているが、一刻を経て六百に近い悪事を一々論った後に、どんな悪事が残っていよう。目を血走らせ、いきり立つだけ孫である。

「なァ……彭候子」

 べろりと舌を出した彭常子が、グッタリとした声で呼びかけた。ただでさえみすぼらしい毛並みが、水を被ったように、哀れなほど萎れている。双眸に宿る金泥も錆色だった。

「何じゃ、彭常子。儂はこの通り忙しいのだ」

 頭をガシガシやって、怒気と苛立ちを含んだ声を響かせる彭候子。ぎろりと彭常子を睨む、その瞳にも形相にも、人の皮が剥がれて、悪鬼羅刹の如き恐ろしさである。これが三尸の本性なのだろうか。しかし、同じ三尸虫であるはずの命児子が、彭候子の形相を見て、ヒッと怯えたように小さく悲鳴をあげている。

 彭常子は、彭候子の表情など、意に介さず言った。

「ここまで談義して、何も出てこなかったのだ。もしかすると――これが真理というやつなのかも知れんな」

「真理――あの男が、松坂長叛が、大悪党の大泥棒ではなかったと抜かすのか。そんな、馬鹿なことが――」

 ぎりぎり歯噛みする彭候子。彭常子は右の前足を掲げ、そうではないと、宥めるように言った。

「そんな夢物語を言うておるわけではないぞ。ただな、あの男のすることにも、それなりに理由があるのではと、そう思ったのだ。儂ら今の今まで、すっかり忘れておったが、あの男とて人間――それなりに、心というやつがある」

「……」

 まじまじと彭常子の顔を見つめる彭候子。彭常子は、たいそうな演説でもするかのように、軽く咳払いして、べろりと舌を覗かせ、唇を湿した。

「人というものは、我らが思っているほど、単純なものではないらしいな。色々なものと――人と、関わりを持って、その中で生きていく。一人では生きていけないのが人なのだ。悪行一つするにしたって、その裏には色々な人の思いがあるのだろう。長叛は確かに悪いことを何度もしてきた。だが長叛なりには、人のことを考えているのかも知れぬ。長叛のせいで不幸になった者の数もたくさんいようが、逆に、長叛の行いで命を助けられた人がいて、また少しだけ幸せになれた人がいる。それはもしかすると――我らのような蚊帳の外の者たちが、あれこれ言うべきものではないのかも知れぬ。……まあ、そう言ってしまえば、我ら三尸の役割そのものを否むことになってしまうのだがな」

封候子はフンとそっぽを向いたまま、何も答えない。命児子は神妙な顔で聞いている。彭常子の優しい言葉は、変わらず長叛の腹の中に響き渡った。

「何が善で何が悪か――談義してみて初めて分かったが、そんなに容易く決められるものではないのかも知れんな。殊に人の善悪は、それを取巻く多くの人々との関わりの中でこそ、浮かびあがってくるもののようだからの。いやはや……人というものは面倒で、情けなくて――面白いものよ」

 ごろごろと喉を鳴らす封常子。命児子も、つられて笑った。封候子はにこりともせず、視線を地に下ろしたまま、ぽつりと呟く。その手から筆がぽろりと落ちて、長叛の腹床に落ちる、かと思いきや、途中でふわりと勝手に舞い上がり、彭候子の服の袖の中に、飛び入った。その後を追って、帳面も懐に入る。巻物は、くるくると勝手に巻かれて行って、もうすぐ彭候子の掌中に収まろうとしている。身振りなどせずとも、彭候子が思うだけで、それらの道具は勝手に動くようなのであった。ならば彭候子も分かっているのだろう。この庚申談義が、間もなく終わりを告げることを。

 悔しそうに眉を顰め、彭候子は呟いた。

「ならば……儂らはいったいどうすれば良い。天帝に、何を伝えれば良いというのだ」

 彭候子の悲痛を、封常子も命児子も感じたのだろう。優しげな笑みを浮かべ――といっても獣の笑みだから、封候子には分かるはずもなかったが、むっくり立ち上がると、後ろ二本足で立ちあがり、座り込む彭候子の肩に、ぽんと前の足を置いた。

「ナニ、容易きことよ。全てをありのまま、報告すれば良い。悪いと思ったことも良いと思ったことも、何もかも隠さずに申し上げれば良いのだ。天帝とて、人の闇ばかり見ていては、気が落ちる。それよか、こんな愉快な悪行もあったのだと言って、笑わせてやれば良いではないか。そっちの方が、儂らののような、間抜けな三尸には御似合いだて」

 そう言って、封常子はげらげらと笑った。封候子も漸うに納得したのか、ふっと表情を和らげ、左様か……と呟く。その様子を見て、命児子は、どこから取り出したのか、汚れた布切れを足に抓まんで眼を拭っていた。 

 立ち上がり、投げ出した巻物をくるくると巻き直す封候子。封常子も立ち上がって、うんと伸びをした。そろそろか……と呟く命児子。足に抓んだ布を、ごくりと飲み込んで、ぴょこんと立ち上がる。封候子が口を開いた。

「庚申談義の甲斐もなかったが、まあ良いわ。考えてみれば命児子、主のような残念な者と意見を戦わせようとしたのが不味かったのだ。やれやれ……とんだ時間の無駄使いよのう」

 何ッ! と、頭から湯気を出して怒る命児子。それを封候子は、にやにやと笑いながら見つめている。封常子も、穏やかな顔だ。

 庚申の夜は、まだまだ更けてゆく。――。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る