一
庚申の夜は、しんしんと更けてゆく。
村に点々と灯る火で、今宵、村は黒に塗り潰されることなく起きていた。灯火は畦道に沿うように左右の端に行儀良く並び、夜風にゆらり揺らいでは、その道を行く者を、先の寺の本堂へと招いている。
いつもならこの時分に聞こえてくるはずの蛙や虫の声、それがなく、ひっそりと静まり返っているのは、この灯火の群れを恐れてのためかも知れなかった。
長い階段を駆け登った先、寺の本堂、村で最も立派で広い場所。そこから、たくさんの人の笑いさざめく声が聞こえてくる。一方、田圃と田圃の狭間に点在する家々には、人の気配がなかった。寺の本堂から聞こえてくる賑やかしい声は、死んだように押し黙る村の外れまで届いてくる。この小さな山村に住む人の全てが、寺に集っているようだった。
村の全体を見渡せる高台から見下ろせば、畦道に並ぶ灯火の群れと、高台と同じくらい背の高い丘に建つ本堂から、漏れ出る光とが目に映える。そして、それとはまた別にもう一つ、仄かに朱の光が浮かび上がるところがあった。村人が集う本堂と、真逆の外れ――ちょうど山を少しばかり登ったところに一軒、ぽつねんと建っている小屋からである。
光が灯っているのだから、中には人がいて然りである。だが、一たびでも風が吹けば、あっという間に倒れてしまいそうなほど粗末……というより悲惨で、まともな暮らしなど、とても営めそうではない。藁葺の屋根は剝げ散らかり、満足に立っている柱は一本もないという情けなさ。枠から外れた戸は、そこに閉てかけているというだけ、外からでも中の様子が、ありありと窺える。小屋の見かけも酷ければ、中の様子も相当に酷い。
灰の散らかった囲炉裏、朱の光は、そこに灯っているらしかった。それを前にして男が一人、腕を組んで、どっかりと座っている。虱を飛ばす蓬髪、あちこちを破いた着物と、すっかり擦り切れた袴。襤褸の袖から覗いた腕は丸太のように太く、針のような鋭い毛に覆われている。顔は岩の如くごつごつとして、下半分の殆どをやはり鋭い毛に覆われていた。
眉間に寄る皺は渓谷のよう。瞳が零れ落ちそうなほど見開かれた目は真っ赤に染まって、眼前に踊る炎を、ひたすらに見つめている。背中から、じわりじわりと立ち昇る気配には、殺気すら混じり、それが凝縮して形を持ったかの如き大段平が、蓆に突き立っている。
その姿、装い、何よりも表情……真っ当な人間ではないことは一目瞭然である。
松坂長叛――それが、この男の名前である。
この村でも評判の――否、その悪評はこの村のみに留まらず、遠く江戸の地にまで轟き渡っているという希代の大泥棒である。人の迷惑をかけるためだけに生まれてきたような男で、欲しいものがあれば、それがたとえ、誰のものであっても、どんなに下らないものであっても問答無用で奪ってしまう。泥棒と呼ばれているが、己の慾を満たすためならば、無頼漢にでも破門戸にでも、人でなしにでも鬼にでも何でもなった。もしそれを咎め立てする者あらば、自慢の丸太のような腕を振るい、大人しくさせてしまう。松坂長叛がこの村に来てから三年の月日が流れ、その三年間、村人たちは一通りならぬ迷惑を被ってきた。小さな村では、長叛に立ち向かえる豪傑などおらず、歯止めの利かぬ長叛の横暴は、ますます酷くなる一方であった。
世に怖いものなしの松坂長叛。だが今宵、小屋の中に一人座す彼は、どこか落ち付かなさげに見えた。彼の背には、唯我独尊と下手な字で刻んだ木切れが、ぶら下がっている。三年前に村にやってきた時に見つけ、無理に住みついた小屋、その中でこの木切れだけは、松坂長叛が持ってきたもののようであった。
唯我独尊の字を背負う長叛の額には、玉のような汗が浮かんでいる。大きく膨らんだ穴、堅く一文字に結ばれた口、しとどに濡れた髭、ぎょろぎょろと動く瞳……蛇に睨まれた蝦蟇さながらの不細工さだ。ぷんと鼻を突くのは蛙の生臭さではなく、酒臭さ。髭を濡らし、ぽたぽた滴っているのは濁り酒らしかった。
だが、ゼイゼイ荒い息を吐いているのは、酒気のためだけではないようだった。酒毒のため赤くなってはいるが、目の色は変わらない。その表情は、焦っているようでもあり、苛々しているようでもあり、何を堪えているようでもあった。こめかめに蜘蛛が巣を張るように、青筋が浮き出ている。
何がそんなに、彼を苦しめているのだろう。熊のようにごつい体躯と図太い胆を持つこの男が病魔に苦しめられるというのも妙である。
と、出し抜けに吹き抜ける、穏やかな風。長叛の顔を優しく擽る。その心地良さに気が緩んだか、長叛は大きな口を開けて、大きな欠伸を一つした。囲炉裏の灰を全て吸い込んでしまいかねない勢いだった。
長叛は眠気を堪えていたらしい。ならば、すぐに眠ってしまえば良いのだ。夜は昏々と更けてゆく。眠りを阻むものはどこにもない。
それは長叛だけに限ったことではなかった。村の者たちも、今宵は寺の本堂に集まって、賑やかしく騒いでいる。まるで祭り騒ぎだが、どこか様子が可笑しい。
欠伸を響かせ、ふと意識が途切れたらしい。長叛の目が糸のように細くなった。そのまま、前のめりになって、がっくり頭を垂れて……と、その寸前に目を見開き、首をぎしぎし軋ませて頭を上げる。両の手が伸び、頬を叩くかと思いきや、口を押さえこみ、危ないところだった……と、くぐもった呟きを漏らした。
庚申の日、長叛は決まってこうなのである。
暦の上で六十日に一度、必ず訪れる庚申の日……それは人々にとって、恐れるべき日であると同時に、楽しみ騒ぐべき日でもあった。この日、夜が来ても誰も眠ってはならない。眠らずに夜を明かして、自分の中にいる虫が、体の外に飛び出そうとするのを防ぐのである。これを、庚申待という。
人の体の中には生まれつき、頭と腹と足とにそれぞれ、三尸と呼ばれる、不気味な姿をした虫がいる。唐土から伝わって、広まった話である。
この三尸の虫は、意地悪な薮蚊、毒々しい蠅、勝手に人の体に上がり込む回虫などと、迷惑、嫌われようの度合いは五十歩百歩だが、その質は少し違っている。彼らは、いわば、人の見張り役なのである。
三尸の虫は、住み付いた先の人間のことを、生まれた時からずっと知っている。その人間がしたことを、全て見ている。それがどんな下らないことであっても、どんな詰まらないことであっても関係ない。三尸の虫はそれをしっかり見定めて、逐一記録しているのだ。それが、この世を総べる天帝から与えられた、三尸の役目なのだ。
たとえ誰も見ていなくても三尸の虫だけは、それを知っている。そして庚申の日の真夜中、三尸は眠っている人の体から飛び出て、天に昇り、棲家としている人間の悪事を洗い浚い天帝に奏上する。天帝はその悪事の度合いに応じて、人間に罰を与える。その罰の中で、特に重いのが寿命の短縮である。三尸の虫は、一刻も早く、自らが住んでいる人――宿主に死んでもらいたくて堪らない。宿主が死ねば、三尸の虫は仏壇に捧げられた供物を、自由に食うことができるのだ。だからどんな小さな悪事でも、三尸の虫はしっかりと覚えていて、駄目は元々でそれを天帝に伝えるのである。
この厄介な三尸の虫の話を、唐土から伝え聞いた人々は慌てた。この世のどこに、生涯一度も悪いことをしていない人などいよう。放っておけば、三尸の虫は六十日ごとに体を出て天に昇り、酷ければ寿命を縮めてゆく。この憎い虫を、決して天に帰らせてはならぬ……人々は知恵を絞り、結果として生み出された唯一の術が、庚申待であった。三尸虫を体の中に閉じ込める方法である。
容易いことであった。寝ている間に、虫が出て行って困るというなら、出させなければ――眠らなければ良いのだ。三尸虫が、外に飛び出す隙を作らなければ良いのだ。
人々は庚申の日になると、寺の本堂などに集まって、酒盛りなどして面白おかしく夜を明かすようになった。〝庚申〟の日は、六十日に一度だけ。その日を寝ないで〝待〟っていれば、次の六十日後まで健やかに過ごせるわけである。
その庚申待の慣わしから唯一、外れているのが、この松坂長叛であった。天下無法の大悪党が、庚申の日だけ、村の皆と仲良く手を取り合って酒盛り三昧……などできるはずがない。腕にものを言わせて、無理やり一緒にいることもできようが、それはそれで、村の者たちからの視線が辛い。偉ぶった悪党のくせに、三尸の虫などという、いるかどうかも分からぬモノに怯えている……など囁かれては、末代までの恥である。
事実、悪党ならばそれくらいの迷信、笑い飛ばすくらいの気概があって良さそうなものだ。長叛も、それはもちろん分かっている。だが、長叛は、人を人とも思わぬ悪党である一方、そうした目に見えぬモノに対しては、情けないほど小心になる男であった。庚申の日を、長叛ほど恐れている者はいない。何が恐ろしいって、長叛が庚申待のことを知ったのは、つい最近のことであり、長叛にとって今宵が、最初の庚申待に当たることであった。今の今まで、何にも知らず、六十日に一度の起きていなければならない日も、大口開けて高鼾。三尸の虫はその都度、体から飛び出て、天に昇っていったに相違ない。己が仕出かしてきたことの数々、それが、いかに酷いかは他ならぬ長叛が一番よく知っている。天帝が激怒し、即座に命を奪わないのが、不思議なくらいだ。命を奪わぬまでも、かなりの年数、寿命は削り取られてしまっているだろう。今にもそれが尽きてしまうのでは、という恐怖。長叛は堪らなくなる。が、どれほど悔いても、すり減った寿命が返ってくることはないし、三尸の虫が怖いからといって善人になるのは、さすがに大泥棒の誇りが許さない。となると、できることは一つ、これ以上、三尸虫を外に出さぬよう、孤高の庚申待をすることだけだ。
長叛は小屋に籠り、韋駄天のような団栗眼を見開いて、庚申の夜が明けゆくのを、無明地獄の苦しみもかくやと思いつつ待っていた。今宵のため、長叛は様々な支度を整えていた。傍らに突き立てた段平は護身用でもなければ、体から飛び出した三尸虫を斬るための刃でもない。眠りそうになったら、すかさず足でも突いて、難を逃れるのである。彼の眼下には、陶器の破片が、尖ったところを上にして並べられている。前に突っ伏してしまえば、その破片で傷だらけになる。ほんとうにまずいと思ったら、囲炉裏の燃え灰を顔に吹きかけてやろうと、覚悟も決めていた。そうやって、とにかく体を痛めつけておけば、眠る心配はない……長叛なりに、考えたことであった。悪党故に、庚申待に参加できないという境遇さえ抜けば、涙ぐましいほどの努力と、創意工夫である。これだけしておけば大丈夫だと、長叛も多寡を括っていた。
――が、最後の最後で誤っていたことに、哀れ長叛は、欠片ほども気付いていない。
村の者たちが言っていたことを、長叛は、愚直に守り過ぎたのだ。庚申日は、酒を持ち寄り、楽しく夜を明かす。大勢だからこそ、できることである。独りで家に籠って、酒を飲んで、いったい何が楽しいだろう。騒ぐと言ったって、独りで騒げばただの馬鹿である。
むっつりと押し黙り、酒を呷りつつ、あたたかい囲炉裏の火を眺める……それで睡魔が来ない方が、どうかしている。
日が昇るのが先か、長叛が根負けするのが先か……火を見るよりも明らかだった。秋の夜長――まだ、根の刻になったばかりである。
ぴくぴく動いていた瞼が、ついにすとんと落ちた。途端に長叛の体は後ろにぶっ倒れた。前には陶器の破片。だが後ろには何もない。後頭を畳でぶつければ、その痛みで目覚めるだろうと思っていたのである。だが、酒毒が誘う眠気は、そんな程度で覚めるものではなかった。
全ての努力と支度が水泡に帰し、この庚申日も、長叛は眠りに落ちてしまった。大きく開かれた口、喉をごろごろ鳴らして響き渡る大鼾。起きていた方が、ずっと静かである。
耳を塞ぎたくなるほど喧しい寝息が、小屋を飛び出し、夜闇にわんわんと谺する。と、それを待っていたかのように、小屋の周りの叢ががやがやと揺れ、その只中から、何やら細い影法師が、音もなく屋根に跳び上がったのを、長叛の鼾で起こされた草葉の虫たちは見ていた。
巨大な蝦蟇のような姿だ。霽月にぎらりと輝く体は、死の色、紫色にてらてらと輝いている。その先には酸漿の如く真っ赤に燃え上がる双眸――食われることを恐れて、虫たちは歌うことを忘れて身を縮めていた。後には、死の色を帯びた蝦蟇が、ずるずると体を引きずる音ばかりが響いている。
長叛は、そんなことも知らずに眠り続けている。もし長叛の隣に誰か控えていたら――何よりも先んじて、叩き起こさねばならないのだが――耳を澄ませば、長叛の鼾の音に混じって、何やら三つほど、違った声色の囁き声がするのに、気が付いたはずである。唸るような、囀るような、唸るような、不気味な声……それは、他ならぬ、昏々と眠り続ける松坂長叛の腹の中から聞こえてくるのだ。
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