第39話 間一髪

 その時、ノマの腕が力強く引っ張られた。無理矢理立たされる。


「お前ら、何してやがる! 逃げるぞッ!」


 必死の形相のライアンが、ノマとリリアの体を引っ張っていた。

 我に返ったノマはようやく自分の力で走り始める。頬に垂れる汗を拭うと、真っ赤だった。返り血だ。


「あいつが食ってる間に逃げ切れるか!?」

「む、無理です! ケルベロスの足の速さは人の二倍ですっ!」


 リリアが叫ぶ。そうか、あれがケルベロス。

 あのヤマザルはケルベロスから逃げていたのだろう。ヤツの牙はおぞましいほどに尖っていた。力だって凄い。人間がひとちぎりだった。あんなの人間が相手に出来るわけがない。

 そこでようやくノマは思い出した。


「あっ、狼煙! 狼煙を上げないと!」


 狼煙を上げてエッダたちが来れば、ノマたちは助かるかもしれない。それまで逃げ切れるかはわからないが。

 リリアが鞄から狼煙用の長い筒を取り出した。


「おいおいおいおい! 来やがるぞ!」


 後ろを振り返ると、食事を終えたケルベロスがこちらに向かって足を踏み出していた。


「あっ」


 リリアの手から長い筒が落ちた。この状況で拾っている暇などはない。


「す、すみません!」

「いい! 僕のもあるから!」


 一人ずつに配られていてよかった。走りながらノマも筒を取り出す。が、気付いてしまった。狼煙を上げるには火が必要だ。走りながらでは火をつけることが出来ない。


「ライアン! どこか隠れられる場所は!?」


 ノマより数メートル先を走っていたライアンに尋ねる。


「木の裏しかねぇな!」

「わかった! リリアとライアンはそのまま走って! 隠れられそうな木があったら隠れて!」

「ノマ!? 何を!?」


 ちょっとでも、時間を稼がないと。


 ノマはクワを肩から下ろして立ち止まる。そして近くに生えていた木の幹へ、横から力いっぱいクワを振った。

 幹を二回切ったところで、木が横に傾き始めた。モルドゥの武器は凄い威力だ。

 そのまま木が倒れる。土埃が辺りにもうもうと舞った。

 土埃を煙幕代わりにして、ノマは近くの木の裏に隠れる。

 どうやらリリアとライアンも上手く隠れたようだ。一息ついて、幹の裏からケルベロスの様子をうかがう。


 ヤツは走るのを止め、鼻を動かしていた。

 しまった。ケルベロスは犬のような姿をした魔物だ。もしかして犬同様に鼻も効くのでは。

 不安は的中した。ケルベロスは迷いなくノマが隠れている方向へ歩いてくる。

 慌ててノマは筒に火を付けようとした。だが、筒についた着火剤に火がつかない。小雨で周囲が湿気ているせいだ。


「クッソ、なんで雨なんだよ」


 思わずライアンのような汚い言葉で呟いてしまう。

 そうしている間にも、ケルベロスとの間が縮まってゆく。


 ケルベロスは、太い腕を使って木をなぎ倒した。バキィ、メキッ、という音の後、倒れた木の側にはノマの服が落ちていた。


 ──上手くいった。


 ケルベロスから離れた木の裏で、ノマは安堵した。


 ノマは鼻のいいケルベロスを惑わすため、上半身の服だけをあの場に置いて、違う木に移動したのだ。

 だがこれは何度も使える手ではない。


 僅かに安心したのもつかの間、ヤツは方向を変えて別の木に迫っていた。

 木の淵から薄桃色の髪が見えている。

 大変だ。あそこにはリリアがいる。

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