三
満願の三十三日の夜であった。老婆はもう殆ど無意識で池に足を運び、水行をしていた。
疲労も飢えも痛みも、もう感じなかった。魂を半分彼岸に持っていかれてしまっている感覚だった。もはや、何のためにこれをしているのさえ、判然としなかった。
月が老婆を静かに見下ろしている。老婆はがくりと頭を垂れた。
そのまま、ずるずると体は崩れ落ちて、池に沈んでいく。寸時を待たず、老婆は池に飲み込まれた。老婆が消えた後には、漣一つ立たなかった。
それから、どれくらいの時が過ぎただろう。
老婆は、ふと目を見開いた。
初めに見えたのは、穏やかに凪ぐ赤蔵ヶ池の水面である。
右腕や右足、右わき腹に土の感触があった。どうやら池の畔に体を横たえていたようだ。
顔を顰めて起き上がる。何故こんなことになったのか、最前の記憶がない。自分がここにいる目的は分かっていても、どこまで遂行していたかは思い出せなかった。水行は終わったのか。祠へ願は掛けたのか。まだ済んでいないならば――すぐに終わらせなければならぬ。
立ち上がろうとして、ぐらりとよろめく。酷く体が重い。どうしたのだと、霞む目を瞬かせて、自分の体を見た。
その瞬間――。
老婆はギャッと叫んで飛び上がった。
逃げようとしたが、身体は同じところをぐるぐる回るだけだった。
地面に掌をつけているはずの自分の両手――それが、ごわごわとした毛に覆われていた。
初めは蛭のような、気味の悪い蟲に覆われているのだと思った。しかしそうではなかった。毛むくじゃらのこの両手は、間違いなく自分のものなのだ。
これはいったいどうしたことだろう――。老婆は恐る恐る、池に近づいた。腰が抜けたのか、いつまで待っても立ち上がることができない。犬かなんぞのように、四つ足で歩くしかなかった。
水面に顔を映す。老婆は目と口を、眦と唇が避けるまで開いた。
悲鳴は声にならなかった。聞こえたのは、キョキョキョっという、鳥鳴く声だけだった。
映っていたのは、自分の顔ではなかった。猿のような、醜い、異形の顔であった。
身体が勝手に躍動し、ふわりと舞いあがる。そのまま着地するかと思いきや、いつまでも宙に浮いたままだ。見ると、狸のそれのような手足の周りを、薄い靄のようなものが覆っている。まるで小さな黒雲のようだ。老婆はふわっりふわりと体を浮かせたまま、池の中央にやってきた。
自分の姿が、余すところなく全て見えた。
猿のような顔。
虎模様の付いた体。
手足は狸のそれのような剛毛に覆われている。
そして、尻尾がついていた。尻尾は生きた蛇で、水鏡に向かってしきりに牙を剥いている。
――化け物だ。
異形は空を仰いだ。そして、キョキョキョと咆哮した。それは不吉な鵺鳥の声に似ていた。
――何故、何故じゃァッ。
鳴きながら母は叫んだ。虚空に浮かびながら、我が身を掻きむしり、引き裂き、そうしてまた吠えた。
――こんな姿にしてくれと、誰が頼んだッ。
――願ったのは我が子の出世、そして清盛の死。それが何故--
――何故、このような化物になったァッ……。
山中の鳥が怯えて逃げ去った。山犬も虫も走り去って、異形の母のみがそこにいた。
異形は叫び続けた。燐光を眦から垂れ流し、黒雲の如き毒気を吐き散らして喚いた。赤蔵ヶ池の水面を、異形の咆哮が何度も何度も波打った。
おぞましい叫び声は、いつまでも響き続けるかと思われた。しかしやがて異形は叫ぶのをやめ、がっくりと頭を垂れた。そうして四本の足で宙を歩き、畔まで戻ってきたところで、地面にその身を横たえた。
首を擡げて、天頂を仰ぐ。キョキョキョと、低く呟いた。それは鵺の声でしかなかったが、こう言った心算だった。
――死のう。
異形となり果てた今、もうできることは何もない。このようなあさましい姿、息子は愚か、世人の誰にも見せられない。このままこの山深くで、自ら命を絶つより他ない。
ぎらぎらと赤く輝く目からは、とめどもなく燐光が流れ出た。母はただひたすらに、己の不運を呪った。二度と永劫逢うことなく消えゆかねばならぬ、その残酷なさだめを呪った。息子のために何一つしてやれぬ、その不甲斐なさを呪った。
その時である。
異形は、涙に曇る目を見開いた。すっと起き上がり、月を仰いだ。
――そう……か、そういうことか。
異形は己のさだめを知った。雨上がりの空の如く、すべてのものが明瞭に見えた。
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