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女は河野親孝の庶兄、寺町宗綱の娘として、京の都に生を受けた。美しく成長した女は、源満仲に嫁ぎ、やがて珠のような男の子を生んだ。頼政――後に武勇と和歌、両方の道の達者と謳われることになる、大器の子であった。
母となって、女は我が子を至上の宝と可愛がった。やがて家督を譲られた頼政は、鳥羽院に仕え、六位蔵人、従五位下と出世した。鳥羽院の寵姫であった美福門院や、院近臣の藤原家成と親しくなるなど、その前途は順調であった。
しかし、母は決して満足しなかった。頼政よりもずっと後に生まれているにも拘わらず、頼政を追い越して出世し、仁平三年の今、一門の棟梁にまで登り詰めた男がいたからである。
名を、平清盛という。
清盛は安芸守に任じられて以降、瀬戸内海の制覇権を手にして莫大な利益を上げ、その勢力は西国にまで拡大していた。京の都は、清盛を棟梁とする平家に傾倒しつつあり、そこで生きる頼政と母は、幾度となく肩身の狭い思いをせねばならなかった。
我が子の出世と幸せのみを只管に願ってきた母にとって、都での暮らしは地獄でしかない。遂に耐えられず、故郷への隠棲を決めたのであった。
しかし息子の立身出世を願う母の想いは、京にいた頃よりも深く、激しく燃え盛っていた。頼政の大願成就を祈願し、赤蔵の社に足しげく通った。池の傍に生えている竹で作った矢を息子に送り、池での水行を重ね、近隣の社への祈願も怠らず、祈願をかけた社の数は四十以上にもなった。他のことは一切忘れ、自分の寝食すら削りに削って、ただただ一心に願いをこめたのである。
ところが、日数を経るうちに、母の祈りは次第に、邪な方へと傾くようになった。
それは願を掛け出してから間もない頃、京から届いた文のせいでもあった。頼政からの文だった。そこには、平家がいよいよ勢い付き、源氏の輩が脇へ追いやられていること、また自分が仕え、また頼りに模していた鳥羽法皇の体調が思わしくなく、前途が非常に懸念されることが長々と書き連ねてあった。
母は文を握りしめ、血の涙を流して慟哭した。自分がどれほど息子を想っても、どれほど願を掛けても、世の中はどうしても平家に傾く。息子の出世は望めない。京で華々しく暮らせるはずだった息子は――永遠の日陰者となる。
息子への哀しみが政敵への恨みに変わった。息子のための祈りが、平家没落を願う呪詛となった。心はより苛烈となり、爪も髪も切らず、身を清めるのは赤蔵ヶ池での水行一つとなった。山から、世にもおぞましい呪詛が朗々と響いてきて、それを聞いたものは呪われると麓の村では囁かれた。
もはや自分が先に死ぬか、清盛を先に殺せるかのどちらかであった。老い先短い身体が、隠棲してからの酷使によって既に限界を迎えていた。それでも老婆は辞めなかった。怨念の焔は消えやらず、目から迸るほどだった。麓の村から、ごく稀に山入りする者があったが、今では誰も来ない。一度老婆に行き遭った者が、その恐ろしい姿に魂消て、村に逃げ帰ったからである。
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