鵺の母
@RITSUHIBI
一
風もないのに、ざわざわと竹が鳴る。水面には漣が立ち、山犬は怯えたように一声鳴いた。
伊予国の赤蔵ヶ池は、人里離れた山奥に水を湛えており、昼間でも薄暗い。夜ともなれば、一寸先も分からず、狐に鼻を抓まれても分からぬほどだ。池の水は黒々と不穏に渦巻き、傍による者を呑み込もうと待ち構えているようでもある。
丑三つはとうに過ぎたという時分、ところが、赤蔵ヶ池の畔には一筋の灯が立っていた。そして灯から二間ほど池に入ったところで、何者かが水行しているのである。
月が雲から逃れて、山並みを明るく照らす。池の只中にいるのは、一人の老婆であった。
白髪が月光を受けて銀に輝いている。背は低く、顔は老醜のためすっかりひしゃげて猿のようであったが、背筋をぴんと伸ばした佇まいや、その顔に宿る意志の強さなどは、どこか気品を湛えていた。山暮らしの民とは聊か異なる気配である。老婆は深々と頭を垂れて池の水に向かって何やら唱えている。体は熱を失って戦慄き、顔はほとんど土気色であった。
やがて老婆は水から上がり、そのまま着ている物を取り換えようともせず、池の端にある小さな祠の前に跪いた。そうして一心不乱に何事やら唱え始めた。時を経るにつれて声に毒々しさと苦々しさが加わり、はっきり呪詛とわかる文句を並び立て始める。数珠を押しもむ手は断末魔に踊る蟲の如くねじくれ動き回り、背中は明らかに寒さではない何かのため、がたがたと震えていた。老婆の呪詛の言葉は畔を超えて池の水に浸り、まるで墨が溶け行くように、黒い陰を残しつつ水の中に入ってゆく。
風もないのに、再度竹が揺れた。老婆は呪詛を止め、まっすぐ前を見た。雲が月を隠し、老婆の顔も陰に隠れる。ただ、その双眸に宿る瞋恚の焔だけが煌々と輝いていた。
老婆はぎしぎしと首を擡げて、天頂を睨む。そうして言った。
――おのれ、清盛――。
そうしてがっくりと項垂れる。そのまま命絶えたかの如く、いつまでも動かなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます