心
日照時間がだいぶ短くなってきた。明るい時間が瞬く間に終わって時の流れがより一層早く感じる。美乃梨はいつもの定期検診を受けて、病気がとても進行していると診断を受けた。
「最近の美乃梨さんよく食べるようになったね。なにかあったの?」
「死ぬまでずっと、大好きな人たちと笑って過ごしたいんです。最近何も食べなかったせいでどんどん衰弱して、そんな私を見てお母さんとお父さんがむりやり笑顔を作るんです。私は2人にそんな顔をさせたいわけじゃなかった。心の底から3人で笑いあいたかった。バイト先の人たちとも、最後までたくさん笑ってさよならしたいんです。」
「そっか。美乃梨さん、樹木化の最後の姿は人それぞれなんだけど、今までこの病気にかかった方はみんな綺麗な花を咲かせるんだ。梅の花、あんずの花、桜の花、いろいろあるけど美乃梨さんはどんな綺麗な花を咲かせるのかな。きっと誰の目にも止まるような美しい花を咲かせると思う。だから美乃梨さんは樹木化して死ぬんじゃなくて、ずっとこの世界に咲き続ける。美乃梨さんにとっての思い出の場所に生き続けるんだよ。」
医者はいつも以上に柔らかい声で語りかけた。女性にとって綺麗であることは、一生の夢だ。先生の言葉が美乃梨の心を少しだけ安らかにさせた。
美乃梨の身体はどんどん茶色く変色していく。何も食べなかった期間があるから完全に樹木になる日は当初よりは伸びたけれど、相変わらず急速に症状は進んでいる。学校には行けないし、卒業式も出られない。
でも、入院してから楽しいことはたくさんある。凛音は何度も何度もお見舞いに来てくれるし、お店が定休日の日は明花音さんもリンゴを持ってお見舞いに来てくれる。「お見舞いと言ったらリンゴだよね!」って。大人なのに無邪気にそんなことを言う明花音さんにいつも元気を貰っている。
医者に外出許可を貰って3人で行くお散歩も、ちょっと高級な焼き肉も、季節外れのバーベキューも、何もかもが楽しい日々だった。
もうすぐで卒業を迎える美乃梨の身体はほとんど樹木化していた。手足は枝のようにざらざら、顔のハリも無くなり触るとゴツゴツしている。鏡を見るのも億劫でここ最近は鏡はもちろん窓も、液晶が暗くなったスマホの画面も見ていない。自分が映るようなものは全部手放した。
そろそろ根を張る場所決めないとな。
もう外に出られる姿ではない美乃梨は今までの思い出だけを頼りに、根を張る場所を決めなければいけなかった。
私が完全にこの姿でいられなくなったら、凛音は私に会いに来てくれるのかな。
美乃梨は窓の外を見た。病室の窓はいつも看護師さんが開けてくれている。窓に映る美乃梨の姿を見ないように、毎日変わりゆく景色を窓越しじゃなく直接美乃梨の目で見られるように。
今日の空は灰色で、分厚い雲は今にも世界を濡らしそうに街を覆っている。目を閉じて凛音との思い出の公園に美乃梨がひとりで立っている風景を想像していると、外で雨が地面に打ち付ける音が聞こえた。雨音は瞬く間に大きくなっていく。何もかも壊してしまいそうな勢いで降る雨は、美乃梨がいる病室の窓から侵入し、床を濡らしていく。
「美乃梨ちゃん、雨強くなってきたから窓閉めるね。台風が来てるのかな。」
雨の音を聞いて優美が病室にやってきた。優美が窓を閉めるとき、病室に侵入してきた雨の最後の一滴が美乃梨の頬に当たった。
「外に出たい。」
窓を閉める優美の後ろから美乃梨の声が聞こえた。豪雨の中外に出たいと言い出した美乃梨に、優美は唖然とする。
「さすがに許可はできないよ。豪雨だし絶対に先生の許可が下りない。」
「お願い、今外に出たいの。お願い…お願い…。」
美乃梨の声帯は既にほとんど壊れて、しわがれた老婆よりも弱弱しい声だった。正直、一発で聞き取ろうと思うとこれ以上ないくらい耳を澄まさないといけないので毎日この声を聴く優美はだいぶストレスを感じていた。
「今美乃梨ちゃんがどんな状況か、美乃梨ちゃんが一番わかってるよね?そんな状態で外に出たら倒れるなんてことじゃ済まないかもしれないんだよ?だからせめて今日は大人しくしてて!」
そう言って優美は病室を出て行った。病室に残された美乃梨は静かに泣いた。腕はもう自分の意志で動かせないくらい硬くなっているのでもう涙を拭うことすらできない。ひとりでは何もできない自分に腹が立つ。
美乃梨は静かに目を閉じた。何も考えないように。
「私、美乃梨ちゃんに酷いこと言っちゃった。」
病院の休憩室で優美はため息を漏らした。
「どうしたの?」優美と同期で仲がいい看護師が心配して聞いてきた。
「美乃梨ちゃんが外に出たいって言うから、今はダメって、大人しくしててってきつく当たっちゃった。」
「そっかぁ。でも優美の判断は間違ってないと思うよ?」
「うん、でもよく考えたら美乃梨ちゃんから何かしたいって言われるの初めてなんだよね。今までわがまま言わずに頑張ってきたのに私がイライラしてるからって怒鳴ってしまった。ひどい看護師だよね。患者さんのメンタルも支えないといけないのに。」
優美は後悔で胸が苦しくて、無意識に早口で喋っていた。
「後悔できるなら優美は立派な看護師だよ。美乃梨ちゃんが寝ちゃう前に行ってきな。もし先生が来たら私がなんとか足止めしておくから。」
優美は同期の看護師に申し訳なさを感じつつ、美乃梨のことを放っておくことができなかった。
「ありがとう。行ってくる。」
優美は美乃梨の病室に向かった。病室は静かで、窓を打ち付ける雨の音だけが攻撃的に聞こえた。
「美乃梨ちゃん起きてる?」
美乃梨の声は聞こえない。顔を除くと樹木になる女の子とは思えないくらい綺麗な寝顔をしている。この華奢な寝顔も、長いまつげですら守れないと思うと息ができなくなる。
優美はベッドの横に丸椅子を持ってきて座った。
「さっきは怒鳴ってごめんね。美乃梨ちゃんの方がつらいはずなのに強く当たって。行こう、外。」
美乃梨は静かに目を開けた。
「起きてたの?」
「うん。寝たふりしてた。」美乃梨は蚊の鳴くような声で言って、意地悪をする少女のような顔をした。
「行こう。」優美はもう一度言った。
優美と美乃梨は病院の入り口に立っている。
「一瞬だけでも病気の悪化に影響するかもしれないけど本当に出るのね?。」
美乃梨は躊躇いなく、力強く頷いた。そして病院の自動ドアが開き、優美と美乃梨は外に出た。雨は激しく強く美乃梨と優美を叩く。美乃梨の身体が雨を吸収していく。
優美が美乃梨の顔をそっと覗くと、美乃梨は豪雨の中で激しく泣いていた。雨に隠れてたくさん泣いていた。
虚しさなのか恐怖なのか寂しさなのか、この涙の意味は美乃梨自身も分からない。叫びたいのに叫べないことも辛かった。
優美は化粧が崩れるのも気にせず、雨と涙で乱れる美乃梨を抱きしめた。優美にできることはもう美乃梨の傍にいることしかなかったから。
遠くから人の話し声が聞こえた。病院の前の大通りで若者が数人騒ぎながら近付いてくる。優美と美乃梨がいる場所は、大通りから丸見えの場所だ。このままだと美乃梨の姿が見られると思ったので、優美は美乃梨に声をかけて病室に戻ることにした。
声をかけたとき、ついに美乃梨の耳は聞こえなくなっていた。
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