管理人

 歯磨きを済ませたリィンは、寝癖やら何やら身だしなみを整えて、身支度を済ませる。

 道袍をカジュアルにあつらえ直した上着を被り、腰には仕事道具を納めたポーチ、そして桃木を削ってこしらえた木剣をく。


「先に出てるからね!」

 相も変わらず寝坊を決め込む同居人に無駄と知りつつ声を掛けて、リィンは部屋を後にした。


 九龍街の内部は、外観から察せられる以上に入り組んでいる。前後左右のみならず、上下構造もデタラメな立体迷路なものだから、壁に左手を付いていれば必ず目的地にたどり着くというものでもない。

 リィンは頭の中の地図を頼りに、目的地へたどり着く。これくらい朝飯前──実際にはもう済ませてしまったが──でなれけば、管理人は務まらない。


 そう、リィンはこの九龍街の管理人の一人なのだ。街の外に住む人間から、魔窟まくつと称しておそれられている九龍街の事。そんじょそこいらに建つアパートの管理業務とは、わけが違う──


「あれ? マーマレードさん?」

 管理人業務の事務所にしている部屋の前に、見慣れた老婦人が困り顔で立っているのに気付いて、リィンは気さくに声を掛けた。

「ああ、良かった。リィンちゃん」

 老婦人──マーマレードさんは、困り顔をパッと明るいものにして振り返った。


「どうしたの、こんな朝早くに」

「ええ、ごめんなさいねえ。急ぎの用事というわけでもないんだけど」

 年を取るとどうにも朝が早くてねえと、マーマレードさん。


「実はねえ、昨日カボチャをたくさんいただいたものだから、ジャムにしようと思ってねえ」

「ジャム!?」

 マーマレードさんのジャムと言えば、リィンが管理人として管轄かんかつしている地区の隠された名物だ。中でも珍しいカボチャのジャムは、リィンの好物である。


「そうなんだけどねえ、早速今朝から仕込もうと思ったら、ほら」

 そう言ってマーマレードさんは、手にしていた布包みを解いてみせる。すると中から出てきたのは、包丁だった──ただし、刃の欠けた。

「このとおり、刃こぼれしちゃってねえ」

 これじゃあ、硬いカボチャには刃が通らない。


「じゃあ、マサさんのとこに持ってかないと」

 マサさんは、この辺りでは腕一番とされる鍛治師である。

「そう思ったんだけど、鍛冶場まで行く道が通れなくなっちゃてたのよお」

 なるほど、それはどおりでリィンの管理人事務所まで足を運ぶわけだ。

「あそこの通路は、この間キレイにしたはずだけどなあ。もう瘴気しょうきが溜まってたの?」

 瘴気。そう、その浄化こそ、九龍街管理人たるリィンの主な務めである。


「そうなの。ごめんなさいなんだけど、手が空いた時で良いから、お願いできないかしら」

「うん、任せて。ついでに、包丁も届けてあげる」

「あらそう? ごめんなさいねえ。お礼に、リィンちゃんに一番出来の良いジャムをあげるわね」

「ほんと? えへへ、じゃあ期待してるね」

 にやけ顔で布に包んだ包丁を受け取って、自室へと戻るマーマレードさんを見送るリィン。


「さて」

 どうしようと、リィンは考えあぐねる。

 同居人──兼、同僚を待つべきかどうか。万全を期すなら待つべきだが、寝坊に遅刻の常習犯を待っていたら日が暮れるとは言い過ぎにしても、日が高くなるのは目に見えている。

 ジャムの完成を心待ちにする身としては、早く動くに越した事はない。


「まあ、一人でも大丈夫だよね」

 能天気に楽観主義が服を着ているような性格の持ち主は、意気揚々とくだんの路地へと足を向けた。

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