2.星月夜とラピスラズリ

 終業式はあっという間だった。通知表は可もなく不可もなく平凡、強いて言うなら英語と理科ができていて、逆に古典が少し悪かったくらい。ちらりと横を見れば、天城さんはいつもと違ってやや眉を顰めて通知表を凝視していた。彼女のことを僕はよく知らないが、成績はあまり良くなかったのかもしれない。それ以外は大した事もなく、ただ夏休み中の生活についてのテンプレートを先生は音読して、一学期の終了を告げた。


 それから三日後、天体観測の日。約束の時間は七時半。僕は緊張故か二時間も早く学校に着いて、望遠鏡の点検やらおにぎりやおやつの買い出しやら準備を進めた。しかしそれも四十分ほどで終わらせてしまって、結局一時間以上時間を持て余してしまった。

 仕方がないので、スマホでFMラジオをかける。丁度夕方のニュースをやっていて、女性アナウンサーの声がノイズと共に流れ出した。


『……次のニュースです。世界各地に出没している”ミステリーサークル”が、今日未明、◯◯県××市の海岸付近で新たに発見されました。直径およそ二十メートルの巨大な円で――』


 ここまで聞いて僕は周波数を変えた。最近はこの”ミステリーサークル”に関する話ばかりで、まともなニュースは後回しにされる。


 一ヶ月前、アメリカ、イギリス、インドの三ヶ国に巨大な円が現れた。それも畑や草原などの広い場所ではなく、街の中に。石などが並んで円形になっているのではなく、何かで焼き付けて痕を付けたようにして出来たという解析がされ、過去に現れたミステリーサークルとは決定的に違う点がいくつかあったと専門家は話す。目撃者はおらず、前日には無かったことからオカルトマニアは大騒ぎし、陰謀論者は世界の滅亡を嬉々として語った。その後も十数日おきに様々な場所で"それ"は確認され、国際会議にまでに至ったのがつい一昨日。


 これがどこかの地域に一つだけ現れたとかだったら、地方テレビで紹介、良くてミステリー番組に使用される程度で済んで、徐々に人々の記憶から消えていったのだろう。しかし、日本だけではなく世界各地で確認され、それも一晩で何ヵ所にも現れているのだから、人々の興味と好奇心を煽るようにメディアは報道する。全くもって阿呆らしい。


 いつの間にかスマホからは、曲名も歌手の名前も知らないバラードが流れていた。



「お待たせ!あっついねえ、今日も」


 約束の時間の数分前に、天城さんが到着した。日が沈み始めているとはいえ蒸し暑さが残っているようで、彼女は額に張り付いた前髪を気にして、何度か櫛で整えた。


「あの、お腹空くかなって思って用意したんですけど、食べませんか?」

「いいの? ありがとー! 私も何か持ってくればよかったなあ」


 屋上に広げたレジャーシートの上に二人で座る。天城さんはしゃけを選んで、早速おにぎりを頬張った。僕は梅干しにして、同じように頬張って空を見上げた。徐々に濃紺に染まる空に、星が現れ始める。僕らだけの特等席だ。梅干しはいつもよりも酸っぱかった。


 暫くしておにぎりを食べ終わった僕は少し行儀悪く寝転んで、視界を星空でいっぱいに満たした。すると隣で天城さんも同じように寝転がって、呟いた。


「私、この空好きだな。美術の時間に見た絵画にちょっと似てる気がする」

「それって、ゴッホのやつですか?」

「そうそれ! 私ね、青色が好きなの」


 楽しそうに話す彼女の瞳に、星が写って見えた。目の色も相まって、まるで星を閉じ込めたアクアリウムのようだった。


「岸辺君は? 何色が好き?」


 天城さんはそう尋ねた。僕は悩んで、目を閉じて考えてみる。自分は何色が好きだったっけ。服は白黒が多い。赤や黄色は派手すぎて自分では買わない色だ。じゃあモノクロカラーが好きか、と云えばそうでもない。白黒灰色は、何故かは解らないが少し息苦しい。


「青とか緑、かなあ、多分」


 結局消去法で、一番近い答えを出した。しかし、これが一番しっくり来たような気がした。


「多分なんだ。青と緑だったら、地球の色だね」

「そういえば確かに。僕、地球は結構好きです」

「奇遇だね、私も」


 水の惑星、地球。表面の七割を海が占め、数多くの生物が生息する、いわば宇宙のオアシス。無機質な色よりも水や草木の自然の色の方が、僕には丁度いいのかもしれない。 


「岸辺君はさ、何で天文部に入ったの? 将来の夢は宇宙飛行士だったり?」


 また天城さんからの質問。鏡がないから分からないが、僕の顔は少し曇ったのだと思う。無意識に眉間が動いた感触があった。


 ふと、小さい頃の記憶が甦る。親に買ってもらった天体図鑑をただひたすらに眺めて、宇宙への旅を何度も何度も夢見たこと。小学校で、将来の夢は宇宙飛行士になりたいと書いたこと。図書室に置いてあったオカルトの本を正直に信じて、宇宙人との交信を試したこともあった。


『きしべみなと、七才!地球っていう惑星に住んでいます!しょうらいの夢は宇宙飛行士になることです!えっと、宇宙飛行士になったら、いつか宇宙人さんの星に行ってみたいです!』


 案の定、宇宙人からの返信はなかったが。


「小さい頃はそうでした。今は……どうなんだろう。現実味が無いといいますか、ほぼ諦めてます。でも星を観るのは好きだから、宇宙について研究する仕事には就きたい、かも」

「宇宙が好きだから天文部に?」

「そういうことになりますね」


 昔は無邪気で、何でも出来るような気がしていた。でも年を重ねて大人びていくうちに、夢を見れなくなっていった。宇宙飛行士になるには天文や科学についての勉強、英語のコミュニケーション能力を身に付ける、無重力空間に適応するための運動能力を備えるなど、多くの努力と素質が必要になる。


 人間というのは愚かなもので、遠回りよりも近道の方を好む。コツコツ積み続ける小さな努力よりも、一つの大きな奇跡に手を伸ばす。小さい頃の夢を無事に叶えて成功している人など、一握りだ。


 そういえば、昔の絵の具は石を砕いて作られていたのだとか。特に、ウルトラマリンの原料になるラピスラズリは「金より高価」だと言われていたが、その美しさに魅入られて多くの画家たちから人気があり、破産する画家もいたほどだそうだ。


 地中深くに埋まっていた綺麗な石は、絵画の中とはいえ空に行くことができたのに、地表の石ころの僕は、手を伸ばせば届くかもしれない空へ、憧れを抱きつつも自ら諦めている。仕方ないじゃないか、僕は名も無きただの石なのだから、と言い訳をして。


「将来の夢を、諦めるの? 宇宙飛行士になったらやりたいことがあったんじゃないの?」


 心底不思議そうに問われたその質問が、僕の胸元に深く刺さった。一瞬呼吸が乱れる感覚がして苦しくなる。思わず、自分の口から出た言葉なのかと思うほどぶっきらぼうに言い放ってしまった。


「そりゃあ昔は宇宙を旅してみたい、とか宇宙人を探したい、とかありましたけど、今の技術じゃそんなの無理だし、そもそも宇宙人なんていな――」

「いるよ、宇宙人」

「……えっ?」


 ゆっくりと上半身を起こして、天城さんははっきりと告げた。背中を向けて話す彼女の表情は僕からは見えなくて、その言葉が冗談なのか、はたまた本気なのか分からなかった。ただ、その一言はやけに真剣な声色で放たれたものだから、僕も慌てて起き上がった。


「それってどういう、」

「明日、明日全部話すから」


 遮られた言葉は、それ以上続くことはなかった。こちらを振り向いた彼女の顔は、星明かりしかない暗闇では判別しづらかったが、心なしか哀愁を感じるような気がした。



「それじゃあ、また明日ね」

「ま、また明日」


 天体観測を終えた僕らは、最寄り駅のホームで別れを告げた。緊張と高揚、疑惑、そして不安。僕の心情は自分でもよく分からないほどぐちゃぐちゃで、適当に混ぜ合わせた絵の具のようだった。じっとりと湿った夜風が僕の頬を撫でる。普段なら暑苦しいはずのこの風が、今は心地良かった。

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