第四惑星スーアより

キヌヱ

1.朝顔とラムネ瓶


「ねえ岸辺君、しゅーまつって空いてる?」


 まだ朝だというのに、既に蒸し暑い教室。先程点けたばかりのクーラーは本領発揮できておらず、カーテンの隙間から差し込む光が机に反射しては僕の網膜を焼き、額から流れ出る汗は鼻筋を伝って口の中へと入り込む。しかし、その眩しさも、その塩辛さも感じない程の、驚き。今の僕の顔は、きっと間抜け面に違いない。


 天城星羅。可愛らしい容姿と明るく素直な性格が魅力の、所謂陽キャと呼ばれる内の一人。フランスだかどこだったかは覚えていないがクオーターだそうで、日本人にはあまり馴染みの無い青い目は、ラムネ瓶の色とよく似ている。


 対して僕は、学校内で友人と呼べる存在があまりいない、集団に適応できないはぐれ者。未だにクラスメイトの顔と名前が一致しないし、先程も話しかけられるまで隣の彼女の存在に気づかない程に、他人への関心が持てない人間だ。


 そんな彼女が、こんな僕に話しかけてきた。たったそれだけでここまで大袈裟な表現をする必要は無いのかもしれないが、朝早い二人きりの教室で、普段話したことのない人から急に声を掛けられたら、驚いて身構えてしまうのも仕方ないだろう。


「えっ、と、週末って、夏休み入ってすぐの?」


 あまりにも思考が追い付かず、また使わなすぎて会話を忘れてしまった口のせいもあり、僕は思わずぎこちない返しをしてしまう。ただ、彼女は大して気にならなかったのか、隣の席から頬杖をついて話を続けてくる。


「そ、二十三と二十四日ね。一緒にさ、海行かない?」


 その言葉を聞いて、ますます訳が分からなくなってしまった。可愛い同級生に夏休みの遊びのお誘いを貰った嬉しさよりも、どうして僕を誘うのかという疑問が先に出てくる時点で、僕は女性との付き合い方が下手くそだった。


「……なんで僕と?」

「だって岸辺君って天文部でしょ? てか、この学校の天文部って岸辺君しかいないじゃん」


 至極当たり前であるかのように、彼女は突拍子もないことを言い放つ。いや、もっと訳が分からない。海と天文部なんて特に関係性は無い。それなら天文学ではなく地学や海洋学だろう。困惑が顔に出ていたのか、彼女は少し焦って「ここ、ここめっちゃ大事だから!」と、ちょっとだけ似ている数学の先生の物真似をした。


「天文部と海が何か関係あるんですか?」

「うん、私にとってはね」


 青い瞳が、僕の顔を真っ直ぐに射抜く。この人は、誰かと話すときや前に出て発表するとき、いつも堂々と前を向く。誠実で純粋な眼差しが、きっと周りを惹き付けるのだろう。僕は思わず目を逸らした。引き込まれそうだったから。まるでブラックホールだ。黒ではないけれど。


「だからお願い。私と一緒に来てくれない?」


 パンッ、と軽い音と共に、手を合わせて頭を下げる彼女。ドッドッと大太鼓のような重い響きが僕の中で鳴っている。どう答えるべきなのか分からない。今まで誰かに遊びに誘われたことなんて、ほとんど無かったのだ。

断るべきかと考えた。でも、断りたくはなかった。遊びに誘われたことも、隣の席の子に自分の名前と部活を覚えてて貰えたことも、嬉しかったから。


 彼女はいつの間にか顔を上げていて、俯いてなかなか答えを出さない僕を心配そうに見ていた。深呼吸して、答えを脳内で復唱して、僕は彼女と漸く目を合わせた。


「僕、あんまり泳げないですけど、それでもよければ」

「ほんと?無理に行く必要は無いんだよ?」

「いや、その、ちょっと楽しそうかなって思って、全然嫌とかじゃなくて」

「……そっか、ありがとうね。じゃ、二十三と二十四、どっちで行こうか」


 そう問われたとき、あることを思い出した。そうだ、二十三日の夜は天体観測のために屋上の立ち入りの許可を貰ったのだった。都会とも田舎とも言えない中途半端な町の高台に建てられたこの学校は、周囲に住宅が少なく星が見えやすい。しかもそこそこ値が張る立派な天体望遠鏡もある。


 折角なら彼女を誘おうか、なんて考えは邪だろうか。

 お願いします神様、もうちょっとだけ勇気をお貸しください。

 普段は無宗教の癖に、こういうときだけ神頼みをするのは日本人の悪い癖なのかもしれない、ということは頭の片隅に押しやりながら、僕は再度口を開いた。


「えっと、実は二十三日の夜、学校の屋上で星座を観ようって思ってて、良ければ――」


 一緒にどうですか、までは尻すぼみになって途切れてしまった。緊張で胸がもう張り裂けそうだった。いつの間にか逸れていた視界を再び彼女に戻して、でもやっぱり顔は合わせられなくて、胸元の臙脂色のリボンを眺めていた。


僕を誘ったのは天文部だからで、別に僕と遊びたい訳じゃないんじゃないか。それに、もしかしたら天体観測に興味が無いかもしれない、ということを今更になって思う。しかしそれは杞憂だったようだ。


「うん、行きたい! じゃあ海は二十四日ね。集合時間とかはあとで連絡するよ」


 彼女は笑顔で承諾してくれた。ありがとうございます、神様。


 その後のことは正直よく覚えていない。確かここで会話は途切れてしまって、他のクラスメイトが教室に入ってきて、いつもの朝へと戻ったのだったと思う。ふと窓から一階の花壇を覗き込めば、水やりしたばかりの朝顔の花が、緑に混じって点々と咲いていた。

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