28 恣姫


 ――人間界において自ら手を下すつもりなど毛頭なかった。


 人間界には勧興のために訪れるのだ、どうして力を行使する必要があるという。

 障害があるのなら、それもまた一興、契約した人間がどのように悶えるのか見物というだけ。

 ニュギスと契約するなどという法外な栄誉を得られるのだ、小間使いにされることを感謝してこき使われて欲しい。

 もしもそれで契約者が死したのならさっさと帰るだけ。ニュギスが戦うだなんて、そんな面倒なことはしたくない。


 それでは魔界あちらと同じではないか。


 破格の魔力、特別の顕能、なにより至上の父を持つ――公爵たるニュギスは魔界において敵なし。

 我が力に平服する弱者、父の威光にへりくだる強者。どいつもこいつもつまらない。

 悪魔は顕能を除けばその力を爵位によって完璧に断絶、明確化されている。そのため下位が上位に逆らうことなどできはしない。無意味だ。

 一度できあがった階級社会は堅牢で、のちに顕能という位階を超え得る概念が発見されて以後も価値観として残り続けている。


 それは少女が生まれる遥か以前より不変に定着している世界のルールであった。


 それゆえに退屈し、それゆえに城に閉じ込められていた。

 父の許しがなくば外出さえままならない籠の鳥。どこにも行けず、誰にも会えず、幽閉されていた。


 しかしそれは決して愛されていなかったからではない。

 むしろ逆で、愛しているからこそそうせざるをえなかった。

 ニュギスには秘さねばならない秘密があった。

 彼女自身だってそのことは理解し納得している。


 言い訳のように、欲するものはなんでも与えられた。

 贖罪のように、家族だけはずっと傍にいてくれた。

 その罪悪感と愛情を否定なんかしない。ニュギスだって家族を愛していたから。


 けれどそれは満たされた退屈、幸福な地獄でしかなかった。


 不自由さえ納得できればこれ以上の天国はなかったのだろう。

 だがそのたったひとつが致命的で、ニュギスには容認できなかった。魂を縛られる不自由こそが彼女の最も嫌うものであったから。

 心底飽き飽きしたのだ、この魔界せかいに。


 だからこそ人間界に夢を描き、こうして少々の無理を押して召喚に応じたのだ。


 門を潜る寸前――父に顕能を使わないことを約束して。

 


    ◇



「お父さま、お父さま……ごめんなさい、ニュギスはお父さまとの約束を破ります」


 あぁそして今、ニュギスは父との約束を破る。

 それは父の命令に逆らったことなどないいい子ちゃんなニュギスにとって大冒険だ。

 不安もあった。恐怖もあった。罪悪感も燻っている。

 だがそれ以上に清々しい。やってやったと反骨心が燃え上がる。


 これもまた、あのおかしな契約者から得たものなのか。

 だとすれば随分と悪い影響だなと、ひとりで笑ってしまった。


「さて、人間界においてのわたくしの初陣となりますわね。それに相応しい装いに仕立て直さねばなりませんの」


 瞬くようにニュギスの全身が発光し――光がほどけた時にはその姿が変わっている。

 いつもの白銀のドレスではなく、その正反対にあたる漆黒の威容。

 白い肌を黒の軍服で覆い、かっちりと嵌ったように隙なく着こむ。重圧感と威圧感を衣としたような禍々しさは常の彼女とはまるで異なる。

 軍帽を頭に乗せ、軍刀なんかを地に突き刺し、ニュギスは実に凶悪に笑っている。


「どうですの、恰好いいでしょう?」


 とりあえず衣装チェンジに際して阿沙賀に見せびらかす。

 ふふんと自慢げに胸を張って、自らの美貌を引き立てる衣装を褒めろとせがむ。


 阿沙賀はよくわからずに首を捻る。


「なんだそのカッコ」

「戦闘衣装でしてよ。わたくし、形から入るタイプでして。格好いいでしょう?」

「そーかよ」

「格好いいか聞いていますの!」

「あーはいはいカッコいい、カッコいい」


 もはや気の抜けた阿沙賀は地面に尻をついて座っていた。

 ニュギスの背中越し、破壊の巨人をまるで映画でも観るように危機感なく眺めている。

 隣の遠凪は割とまだハラハラしているようだが、阿沙賀に肩を掴まれて無理やり座らされる。


「……」


 これまでずっと観客として浮いていたニュギスが、こうして阿沙賀に見つめられているというのはなんともこそばゆい。

 だがその分、気が入る。

 ここで恥ずかしい不様は見せられないと奮い立つ。


 ふと、ニュギスは学園校舎に向けて誰にともなく……いや七柱の悪魔たちに宣する。


「この試胆会という儀式によって貴方がたは我が契約者様との縁故を結んだようですが……しかし弁えておきなさいな、彼と契約を交わしているのはこのわたくし! 

 ニュギス・ヌタ・メアベリヒ――恣姫シキニュギスただひとりですの!」


 それは明白な牽制行為。

 彼は自分のものだから手を出すのは許さないという宣言だ。


「それをしかと胸に刻んだ上、わたくしの勇壮にして優美なる戦いをご観覧くださいませ。契約者様に相応しいのはこのわたくしだけだと理解するために」


 なにやってんだという阿沙賀の目線を受けながら、ニュギスは向き直る。

 前方には暴れる巨人。

 巨大で強大。空間を圧縮することでなにもかもを消失させる顕能をもった侯爵フュルスト。明らかにニュギスより年季の入った先達。


 だが不様だ。

 

 そして不運――ニュギスを前にその不様を晒したということは、粉砕されるが道理である。


「名乗りを許しましょう、そこな下郎」


「ぉおおおおぉぉおおおぉおおおおぉぉぉぉおおおおおおおおおおおぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお――!!」


 ニュギスの誰何すいかに、デオドキアは答えない。

 忘我の怒りに夢中で淑女の柔らかな声など聞こえていない。

 嘆息してしまう。


「名も名乗れないような獣如き、わたくしを相手どるなど不相応……仕方ありませんの」


 今日だけは淑女然としたいつものニュギスではなく。

 悪い子、だから。


「乱暴にいきましょう」


 ぱちん、と。

 ニュギスが指を鳴らす。


 それだけ。


「ぐぅおっぉぉおお――!?」


 それだけでデオドキアの巨体が揺らいだ。


 それは単なる魔力行使。

 練り上げた魔力を固め、飛ばし、ぶちこんだだけ。

 それだけの初歩の初歩の魔力使用。

 そこに込められた魔力量が桁外れであったという以外に特筆すべきところのない児戯である。


 その急な攻撃に、その発生源に、デオドキアは慌てて正気の視点を定める。

 ようやっとニュギスという敵対者を――見た。


 にっこりと、淑女は誰をも魅了する笑みを浮かべた。


「さてこちらに気づきましたわね? では名乗りなさい猛獣。わたくし、獣狩りは好みませんの」

「誰だ貴様は!」

「――名乗れと言っている」

「っ」


 際立って大きな声ではない。 

 だが、背筋が凍るほどに鋭くおぞましい怜悧な言霊。

 デオドキアからすれば手のひらよりも小さい少女に過ぎないニュギスに、たじろいだ。

 そして吐き捨てるように。


「……収握シュウアクのデオドキア」

「そうですか。わたくしは誇り高き七大魔王が一柱ベイロンの眷属にして六姉妹の末妹、六十六の臣下を束ねる公爵ヘルツォーク、ニュギス・ヌタ・メアベリヒ――恣姫シキニュギスと申しますの」

「なっ! 公爵ヘルツォーク……? メアベリヒ!? ――魔王の娘だと!?」 


 魔王という頂を知らぬ者はないであろう。

 だが魔王個人としての名においては、誰もが知るというわけでもない。

 世情に疎い、というか興味の薄そうな七不思議七悪魔どもからは言及がなかったのも驚かないし。

 また、こうして強く反応する者がいてもやはり意外はない。


「馬鹿な、なぜそんな者が人間界に――!」

「あぁいえ、もう口を開く必要はありませんの。大きな口で喚かれてはうるさくてかないませんもの」

「きっ、さ……まァ!」


 あまりにもどうでもよさそうに言うニュギスに、デオドキアは門一郎への怒りも含めて再燃しはじめる。

 取るに足らない。わずかとて価値を認めていない。視界にすら入っていない。

 そういう徹底的な無関心が言葉の端々からダイレクトに伝わってくるのだ。


 事実、ニュギスはデオドキアに興味の欠片もなかった。ただ不粋な輩に相応の報いをと淡々と考え、そして行動するのみ。


「貴方はどうでもいいのですけれど……は、とても素晴らしいですのね」

「なに?」


 なにを言っている。

 この女はなにを見ている。指さしている。


 なにか恐ろしいことが巻き起こる。そんな予感に背を押され、デオドキアは自らの顕能を全力で執行する。


「潰れて消え去れ、羽虫がぁ――!!」

「欲しい。欲しいですの……どうかわたくしにくださいませんか?」


 そして。


「――ありがとうございます」


 ニュギスを中心に半径二十メートルにも及ぶ瞬間圧縮の攻撃。

 刹那でどんなものも原型留めず圧し潰す。空間そのものを閉じているのだ、硬度など無関係に消失の結果だけが残る。


 ……そのはずが。


「なっ、なぜだ……?」


 

 空間は凪いだまま微動だにせずなにものも傷つけずそのままだ。


 おかしい。

 絶対におかしい。

 デオドキアは確実に顕能を行使した。

 何千何万回と使い続けた自らの魂である、その発動をしくじることなどありえない。

 なのにどうして我が意に反して空間は凪いでいる?


 今この今だって発動しているつもりなのだ。

 何度も何度も、そのスイッチを押している。トリガーを引いている。

 どうしてそれが現実に影響しない。どうして――


「んー? 空間象徴の顕能はいささか扱いが難しいですの……」


 狼狽するデオドキアをしり目に、ニュギスはマイペースに手のひらを開いたり閉じたりしている。

 なにかの感覚を確かめるように。なにかの方法を探るように。

 ふと彼女の中でそのなにかが噛み合ったのか、あぁと得心入ったという風情で笑みを刻む。


「こう、ですの?」


 ぐにゃりと。


 ――空間が。

 ――歪んで。


 デオドキアの右の足首が抉れて消えた。


「な……っ!?」


 それはまさしくデオドキアの顕能『握り収めれば等しく塵ギュゲス・スフィクティラス』。

 だがおかしい。

 そんな位置に顕能を展開していない。

 なにより発動意志とのタイムラグがあった。

 これでは。これではまるで――



 まるで自分以外の誰かが行使したような……!



 足を失い、膝をつき。

 だがそんなダメージなどよりも不可解の大混乱に陥っているデオドキアは、ともかく異常の根源と思しき女を見下ろす。


 ニュギスは未だにすこししっくり来ていないようで、まだ見えないなにかを弄ぶ。


「もうちょっと上手くできそうな……ううん。やはり不慣れですと難しくってうまくいきませんの」

「まさか……」


 気づいてゾッとする。

 少女の周囲の空間が歪み、たわみ、綻んでいる。

 遠近感が狂っている。光が乱反射して躍っている。曼荼羅のように、万華鏡のように、定まることなく移ろい続けている。

 なのに中心の少女はまるで凪いで正常で、それが逆に不気味だった。


 明らかに空間の操作が行われている。

 

「まさか……!」


 そんなわけがない。ありえない。


 断言する。

 彼女は近寄ってもいない。手を伸ばしてすらいない。

 ただ欲しいと、その思いを吐露しただけだ。


 それだけで、それは彼女の手中に収まっている。

 まるではじめからそこにあったかのように。当然に終着する規定された数式のように。


「我の魔魂顕能レツァイゼンを、奪ったのだな――!?」


 それは強制的な存在の剥奪。

 欲しいと思えば手に入るワガママで冷徹なお姫様の道理――権利。

 そこに距離も力も愛着も関係ない。

 ただ彼女のお眼鏡にかなってしまえば否応ない。

 そして簒奪とは――


「あぁ、ようやく掴みましたの。こうですのね」


 ただ物を奪うだけにとどまらない。

 その術理を、その異能を、その操作権をももぎとって自らのものとする。

 このように。

 

 ――デオドキアの左脚の、膝から太ももにかけて消失した。


 デオドキア自身の顕能『握り収めれば等しく塵ギュゲス・スフィクティラス』によって。


「ぐぅぁぁあああああああああああああああああああああああぁぁぁああ――!?」


 激痛に絶叫する。

 立っていられず倒れ伏す。

 なにより喪失感が大きすぎて怒りよりも恐怖が膨れ上がる。



 欲しいものを手に入れる顕能――それがニュギスの魔魂顕能『欲儘エルゴ・ビバムス』という。



 彼女は強欲な盗人か? 卑しい簒奪者であるか?

 否である。

 彼女は無垢なお姫様。

 あやされ甘やかされるのがその生における前提事項。

 欲しいものが手に入るのなど当たり前。求めたものが手中に収まることに疑いすら持たない。


 そもからして奪ったなどと、そんな野蛮な行為でさえなく。

 もっと上品で柔らか、甘やか。


 奪ったのではなく――捧げられた。


 お姫様のささやかな願いに現実は唯々諾々とひれ伏し、望んだ通りにそれを献上しただけなのだ。

 この世の全てはもとより彼女のものに他ならないのだから。


「だからこそ、わたくしは欲しても手に入らないようなものを求めましたの」

「それが、人間と契約をした理由か」

「ええ。契約を結んでしまえば、わたくしの顕能とはいえ契約者の魂は奪えませんもの」


 自らの顕能によらず、自らの権力によらず、欲するものを手に入れる努力ができる。

 望むように手に入るかわからない。

 時間がかかる。手間がかかる。

 そもそも偶発的に出会うだけの契約者を、ニュギスが心底から欲しがるかさえわからない。

 だが、それこそがお姫様の欲した求道であった。


「それはさておき――」

「馬鹿な馬鹿な馬鹿な馬鹿な馬鹿な馬鹿な馬鹿な馬鹿な馬鹿な馬鹿な馬鹿な……!」

「……終わりにしましょうか。つまらない事柄を長引かせる意味などありませんもの」


 すっと、白手袋をした小さな小さな手のひらを掲げる。

 デオドキアに比すれば本当に小さい、爪先よりもなお小さい。

 そんな手のひらが、力強くぎゅっと握りしめられ。


「お仕舞い、ですの」


 あっけなく、デオドキアの総身は握りつぶされ消失した。


 残るは静寂と巻き戻った校舎と丸いお月さま。

 そして。


「こりゃァ……きっついわァ」


 阿沙賀・功刀は血を吐いて倒れた。


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