田兵衛の通夜の晩に、大酒を飲んで帰ってきた。元来それほど酒に強くなくてな。頭が熱くて体はふらふらと頼りなく、簾も頭で引き上げ、転がりこむように小屋の中に入った事を覚えておる。貧乏の独り身は村に下りても家なんぞなく、間に合わせの掘っ建て小屋を建てて、そこに住んでおったのじゃ。

 月の綺麗な夜だった。小屋の中には月明かりが射しこんでおって、灯りを点けずとも仄かには周りが見渡せた。気分が良くてな。土間ででも眠れそうだった。しかし、せめて囲炉裏の前まではと自分を叱りつけながら、力の入らぬ腕でよろよろと草鞋を脱いで、囲炉裏までずるずる這い蹲って行った。

 囲炉裏を前にしてふっと一息吐き、ゆっくりと顔を持ち上げた。眠る前に、水の一杯も飲んで寝んことには、明日の仕事に差し支えると思うた。甕は何処に置いたかと、儂は首を振って、夜の闇に覆われた家の中を見回した。

 その時だった。儂のどんよりとした赤い眼が、ふと妙なものを捉えたのだ。 

 酔っていて呂律が回らないながらも、声を張り上げた。体は始終揺らいでおった。

「――誰じゃ。人の家に黙って入っておる奴は」

 小屋の中には、儂の他にもう一人いたのだ。曲者は気配を消そうともせず、隅っこに蹲って、儂の方をじっと見ておった。小屋に差し込んで来る青光も隅には当たらぬ。そ奴の姿は暗闇に溶け込んで、どうしたって見ることはできんかった。

 いつもなら、刀なり鉈なり引っ掴んで厳しく問い質したろうが、今は立つことさえ儘ならぬ身。ともすれば微睡に沈んでゆく体をどうにかこうにか起こして、誰じゃと訊くのが精いっぱい。

 不意に、その何者かはゆらりと立ち上がり、足音を忍ばせて、儂の前まで滑るように歩いて来た。そうして両膝を折り、囲炉裏を挟んで儂と向かいあった。儂は相手を睨みつけた。

 月明かりがそ奴の姿を、はっきり映しておった。夢幻の中にいるようにも見えた。

 そこにいたのは、女だった。翠の着物で痩せた体を包み、正座しながら儂の顔を、じっと見つめておった。袖から覗く手や顔は驚くほど白く、月明かりの青が仄かに差していた。

 その風貌を見て、儂は黒部の渓谷の流れの源を思い出した。あの辺りに聳え立っている険しい山々の、雪に覆われた様と、その女の面長な顔とは、まるでそっくりであった。そんな風に感じられるせいだろうか。女の気配は冷たく不穏で、儂は女の顔を見ながら、思わずぶるりと震えた。玄冬素雪の厳しい冬場、雲雪に覆われた山の頂を臨みながら、あの辺りで仕事した事を思い出したのだ。

 儂がぼうっと見ていると、女の薄い唇が震えながら開き、言葉を紡いだ。女の声は、風の鳴るように、か細かった。それが儂の耳にまで響いてこられたのは、一重にその日が、あまりにも寂然として、虫の声一つせん夜だったからだった。女は儂に、こう言った。

「……聞くところによると、明日は村の衆と山へ入るとのこと。――その谷の、柳の木だけは決して、切ってくれんな」

 何ッ! ――と儂は眉間に皺を寄せ、よろよろと立ち上がった。ここまでろくに頭の働いていなかった儂だが、勝手に家に上がり込んでいた女に突然、そんなわけの分からないことを言われ、さすがに怒りを感じたのだ。

 それはいったい、どういうことだ! 呂律の回らぬ舌で、儂は女を怒鳴りつけた。酒臭い気炎を吐きかけられても女は動じず、

「頼む、頼む。何があっても、柳の木だけは、決して切ってくれんな」

 と繰り返すばかり。その落ち着いたもの言いに、儂の苛々は、ますます募った。一刻も早く床に就きたいという思いもあって、儂は脅すように両手を広げ、ワッと喚いたのじゃ。

「ええい、喧しい! 柳の木でも何でも伐ってくれるわ! それにおらァ、一人で行くんじゃねえ。みんなで行くんじゃ。伐ってほしくなけりゃ、おらじゃなくて親方にかけあえ!」

 眠気はもう限界だった。ふらふらなのに無理に大声なんか出したもんだから、体がついに悲鳴を上げ、足から段々と痺れたようになって、力が抜けていった。その痺れが、頭までやって来ると、儂は軽い眩暈を覚えてその場にどうと倒れ、女をそこに残したまま、ぐっすりと寝入ってしもうた。夢も見んほどの深い眠りだったのじゃが、床上にごとりと頭をぶつけた時、女がぼそりと呟いた言葉だけは、次の日に起きてから後も、はっきりと覚えておった。

 女は相変わらず淡々とした一本調子で、こんな風に言っておったのじゃ。

「……あなたは心の優しいお方。わたしの願いを必ず聞いていただけると、思っています」

 それが女の、最後の言葉じゃった。そうして女は夜の闇に身を埋め、小屋から出ていったようであった。

 次の朝、儂は十五人の仲間と北又谷へ入った。雪に埋まる谷に、水は流れていなかった。

 その日は、天気が芳しくなくてな。強い風が岩と岩との間を潜り抜けて、轟々と不吉な声を上げていた。空は一面、鉛色の雲に覆われていて日の射す隙間もない。頂に向かって飛ぶ鷹は、強い風に煽られてふらふらしておった。鉄砲でも持ってきていたなら、容易く撃ち取れただろう。捩じり鉢巻きに祭法被と、粋な装いの親分を筆頭に、儂ら十五人はごつごつとした岩に腰掛け、或いはその上に立ち、弱々しくも風に抗いながら遠く消えてゆく鷹の姿を、残念そうな眼をしておっていた。この辺りに棲んでおる鷹共は、眼を見張るほどに大きい。一羽獲っただけでも、その日の晩飯は贅沢なものになる。その時は儂の頭ン中にも、囲炉裏の鍋の中でぐつぐつ煮える、美味そうな鷹の肉が、何とも鮮やかに浮かんでおった。

 空を見上げ、鷹を眺めている仲間の顔は、どれも薄暗かった。気分が悪いのではなく、空を塗り潰す鉛色に、あらゆるものが染まっておったのだ。何処も彼処も眼に映る物はみな同じようにくすんだ色をしていて、それを見ているだけでも気は滅入る一方じゃった。

 仕事に入る前にまず、谷を登り切った所で儂らは飯を喰った。北又谷は険しい屏風山に挟まれた果てのない俊坂じゃ。それを登るだけでも大変な難行で、大抵の奴は登り切ると同時にへたばってしまう。だからまずは腹ごしらえだ。仲間が円陣を組み、下らない話や冗談などを言い合って、ゲラゲラ笑いながら握飯を頬張っているその傍らで、儂は独り少し離れた所に伸びていた枯れ木に背中を預け、口をもぐもぐ動かしていた。その木は大きな一枚岩から生えており、幹はどっしりとして、凭れかかるには十分だった。樹を背負った岩にはちょうど、尻がすっぽりと嵌るくらいの窪みがあってな。岩によじ登ってその窪みに座り込むと、峡谷の奥に広がる空を眼前に望みながら、飯を食える。さほど良い景色ではないが。

 鉛色の空なんぞ一人で見ておらんと弥助、貴様もこっち来い――と、仲間からは何度も呼ばれたのじゃが、儂は曖昧に手を振るばかりで、そっちへ行こうとはせんかった。そうやって一人ぽつねんと座って、飯を喰いながら、じっくりと考えたかった。

 昨日の夜、勝手に小屋に上がり込んでいた、あの女――。いったい、何者だったのか。何故、柳の樹を伐ってくれるなと頼んだのか。己に問うても答えなんぞ出てきそうにない謎が次々と浮かんできて、それを消し去ってしまわぬうちは、下らぬ話に現を抜かすことなどできなかった。

  二つ目の握飯を喰い終え、何気なく下の方に目を移すと、六間ばかり向こうにぽつんと黒く細長い影が立っているのが見えて、儂は眉を顰めた。それがある所は、ついさっき、儂らが通ってきた道。あんなもの、いつの間に出てきたのだろうか――。 

 眼を凝らすと、どうやら人影のようで、樵とは思えないような細い体をしていた。儂は奇妙に思い、眉だけでなく顔まで顰めた。こんな所に樵の他いったい誰がやって来るというのだろう……。儂は水筒の口に毀れていた水で瞳を湿し、眼を皿のようにして、遠くに揺れている影法師を睨んだ。初めは遠すぎて分からなんだが、瞬きを繰り返しているうちに、眼が言うことを聞き出して、人影の正体が朧げに見えてきた。

 その顔がぼんやりとだが映った。儂は柄にもなく、あっと大きな声を上げ、ばっと勢い勇んで立ち上がった。その拍子に、持っていた三つ目の握飯をボトリと落としてしもうた。握り飯は硬い岩の上に落ちて、ぐしゃりと潰れ、飯粒がばら撒かれた。

 儂は馬鹿かなんぞのように、だらしなく口を開けたまま、ただただ一点――六間も先に突っ立ったまま動こうとしない人影を、じっと見つめておった。

 昨夜の女だった。女の姿は昨夜と同じで、仄かに青に染まって見えた。

 こんな険しい山道を一人、それも女の足で――あり得んことだ。幾つもの山を渡り歩いた樵でさえ、この山に入る時は決まって仲間と連れ立ってゆく。だというのに、女の周りには他に人影はなかった。

 儂は眼を擦り、瞬きして、何度も何度も見直してみた。それでも女の姿は消えずにいつまでもあった。立ち上がった儂に、深々と一礼さえした。その佇まいも、昨夜と何一つ違う所はなかった。到底信じられぬとは言え、現に其処にいるのだから、認めぬわけにはいかなかった。ならばいったい、何のために……。

 女は頭を上げると、さっと踵を返し、儂に背を向けて去ってゆこうとした。儂は慌てて岩から飛び降り、坂道を転がるように走って、その後を追おうとする。三間ばかり行った儂の背中に、仲間の鋭い声が浴びせかけられた。

 何やっとんじゃ弥助ィ! ――そう言われ、儂はハッと足を止めて振り返る。

「これから仕事じゃってェのに、来た道を戻ってどうする。飯の時間も終わりじゃ。さっさと上がってこんかい!」

 容赦のない怒声だが、文句を言える立場ではなかった。儂は十五人の中で一番、年若かったからな。相手に向かって軽く頭を下げ、とぼとぼ坂を上っていった。歩きながら背中越しに、ちらと後ろを覗き見ると、もう誰の姿もなく、幾つかの小さな石が風に吹かれて転がっているばかりだった。其処に人のいた気配はなく、現とそっくりな夢でも見ていたのかという、妙な気分がした。

 儂がみんなの所に追い付くよりも先に、親方の声が響き渡って、十五人の仲間達は立ち上がり、仕事を始めた。儂らが飯を喰った所には、樹は数えるほどもなかった。加えて、そのどれもが幹のひょろりとした頼りない枯れ木ばかりで、使い物になりそうなものは、殆ど見つからない。その中で唯一、親方のお眼鏡に適ったのが、事もあろうにさっきまで儂が、背を預けていたあの樹だったのじゃ。親方はそれを指差し、威勢の良い声で伐れと命じた。すぐに三人ばかりの仲間が斧を振り上げて、閃く刃を太い幹に叩きつけた。

 響く鈍い音に儂は、はっと頭を上げる。そして、心の臓を喉から飛び出させんばかりに驚いた。儂は岩の下から、親方! ――と叫ぶ。親方は、儂のような下っ端には眼も合わせてくれはせん。それでも構わず儂は声を張り上げる。儂の銅鑼声は、異様な響きを持って谺した。

「親方! 伐ってはいかん! その樹は、伐らんでくれ!」

 飯を喰っていた時には、気持ちが余所へと逸れていたので、さっぱり気付かなんだが、儂が凭れかかっていたのは、見上げるほどに巨大な、夫婦柳の樹だった。葉が風に吹き飛ばされて、一枚も残っておらなんだから、分からなんだんじゃ。女の姿を見て、昨夜の言葉を思い出して、それから改めてその樹を見て、ようやっと気づけた。

 親方は鼻で嗤って聞き入れてはくれなかった。そして、さっさと切り倒してしまえと、斧を振るう仲間に激を飛ばしたのじゃ。儂は、黙って見ているしかなかった。

 必死に願い出ているのに、それを頭から撥ねつけた親方を、恨む気持ちがないわけではない。だが其処にあった柳の木は、実に見事だったのじゃ。数百年も経った栁で、岩に値が十畳ほども張っておった。

 斧を振るい、幹に刃を叩きつける度に鈍い音がして、それが儂の胸に痛いほど響いてきた。儂は何故だか、見ていられなかった。それから大して時間はかからず、柳の木は根元から切り倒され、がらがらと音を立てて儂の足元まで転がってきた。儂は呆然としてそれを見つめ、深い息を吐くばかりじゃった。

 岩に根を伸ばしていた時は威風堂々として見えた老樹も、伐り倒されて地面に横たわると、空しく見えてくる。儂の眼には、哀れを通り越して無残にさえ映った。仲間達が喜びに沸く中、儂一人だけは、胸に込み上げてくる、言い知れぬ苦みと不吉な予感とを感じていた。体から力が抜けてゆく、酷く虚ろな気分だった。

 その日の夜は、ちょっとした御馳走だった。見事な夫婦柳を得たのじゃから、浮かれ騒ぐのも無理はない。囲炉裏にかけた鍋の中では、獲った猪やら鷹やらが、ぐつぐつ煮えて上手そうな匂いを立ち昇らせていた。柳を手に入れてしまうと、仲間はそれのみに満足して一度小屋に戻り、鉄砲を持ち出してきて、それから後はずっと猟をしていたのじゃ。喰いたくて堪らなかった鷹も撃ち落とした。思わぬ所から現れた猪の親子も獲った。狸は塒を襲って、十匹ほどは殴り殺したじゃろう。小屋の中が獲物の肉で満ち満ちていた。それを串に射して焼いたり炙ったり、或いは鍋の中に放り込んで汁物にしたりと、山の中でできる限りの贅沢をした。

 酒も出た。いつもは渋ってちょっとしか飲ませてくれん親方も、その夜だけは気分が良かったのか、小屋に並べ置いてある大きな甕から、酒を好きなだけ汲んで飲むことを許した。しかし儂はと言えば、みんなのように浮かれた気分になることもできず、肉を片手に、差し出された酒を申し訳程度にちびりちびりと啜るくらいだった。

 女の言葉が、まだ引っ掛かっていた。伐ってくれるなと、あれほどしつこく頼まれていた樹を儂らは伐り倒してしもうた。女がそれを知らぬ筈はない。あの場所にいたのだから。あの樹を切らせまいとした目的も理由もさっぱりだったが、何となくおぞましいことが起こりそうだという、予感めいた思いだけは、心の片隅でいつまでも渦を巻いていた。例の山刀さえ背中から下ろさず、いざとなったらすぐ抜けるよう、身構えていた。

 下品な宴は、夜を徹して続くかと思われた。が、どんどん夜が更けて、草木も眠る丑三つの頃になると、俄かに眠気が小屋の中に入り込んできたのか、儂らは一人また一人と、その場に倒れ込んでしまった。散々踊り狂っていた奴らが、小屋の彼方此方で、次々と転がり、高鼾を掻き出すのだ。それを不思議だと思うよりも先に、儂にも眠気が、まるで靄の如く襲いかかってきた。抗うことができずに、そのまま柱に身を預けて、ぐっすりと眠りこんでしまった。まるで、深い闇の中に引き込まれていくようじゃった。

 それから、どのくらい時が経ったろう。

 ガラガラと、戸を乱暴に引く音が響き、それで儂は、はっと眼を覚ました。戸の隙間から凍るように冷たい風が入ってきて、儂はそれに身を震わせながらも、誰じゃ――と問うた。答えはなく、建て付けの悪い戸を、更に引く音だけがした。儂はごくりと唾を飲み込み、夜闇の気配に満ち満ちた戸の方へ、おずおずと視線を寄こした。

 醒めたばかりの眼で、暗がりの中でものを見るのは随分と骨が折れたが、闇に慣れるのを待っている場合ではない。眼を細めれば、ぼんやりとではあっても、小屋に入ってきた何者かの背格好くらいは分かる。

 儂は眼を見開いた。この時に感じたのは驚きではなく、背筋のざわめきだった。

 そ奴は、月明かりを背負って影になっていた。枯木のようにほっそりとした体つきに、頭からは、たおやかな長い髪が伸びて、ゆらゆらと揺れていた。やや俯き加減に佇んでおったから、髪は左右にはらりと垂れていて、頭から長い絹を被っているようにも見えた。

 例の女――儂は立ち上がり、柱に背中をぴったりと付けた。女は、すす……と足音もなく近付いてきて、囲炉裏の前で止まった。儂とは、三尺くらいの間合いしかなかった。

囲炉裏に熾っていた小さな火が、俯いている女の顔を照らし、赤く彩っている。女もまた、囲炉裏の中の火をじっと見つめていた。だらりと垂れている髪に顔は隠されて、女がどんな表情をしていたのか、儂からは見ることができなんだ。

 何処となく、常軌を失っているようにも感じられた。気配だけでそう思ったのではない。燃える火をじっと眺めているだけのその様子から、女の中で何かが壊れているように感じるのだった。

 静かなる狂気が、女を駆り立てているように思えた。ただならぬ気色を見て儂の心はすっかり挫け、どうすることもできず、柱に磔になっているしかなかった。

 な、何故此処にいる――震えながらでも人の言葉が呟けるようになると、まずそう訊いた。女は答えない。その代わりに、ゆっくりと面を上げた。眼は囲炉裏から視線を逸らすと閉じられ、面が上がり切って儂の方を向くと同時に、また開いた。

 初めて女と真正面から対峙した。女の睥睨が儂を捉えた。

 その眼は三日月の如くひん曲り、瞳は冷たく、金物染みた光が宿っておった。山犬の双眸にも似て、只管に虚無を湛え……。

 その眼光に射竦められると、儂は気がすうぅと遠くなって、またも深い眠りの中に落ちていった。どっかりと前に倒れ、腹を強かに打ちつけても、もはや眼を覚ませなかった。ただ、後頭に女の凍った、刺し貫くような視線が当たっているのだけは、倒れ伏しても昏々の中で感じていた。

 恐ろしかったのは、それから後のことだ。

 頭の傍で響いた、どすんという鈍い音が、儂を眠りから覚ました。儂は胸を抑え、顔を顰めながら身を起こした。床にぶつけた胸や腹のずきずきとする痛みが、未だ引いておらなんだから、儂が気を失っていたのは、ほんの僅かの時間だったのだろう。

 酷い気分で絶えず眩暈を覚えた。それでも儂は起き上がって柱に凭れかかり、息を吐く。何が起こったのだろうか。あの女は、いったい――そう独りごちた時、儂の鼻を、何やら生臭いものが掠めた。どこかで嗅いだ事のあるような、甘酸っぱい嫌らしい臭いじゃった。何だろうと思って儂は鼻をひくつかせた。臭いは、儂のすぐ前からしてくるようで、儂は眼を擦って眩暈を飛ばし、前方に視線を走らせた。二度目じゃから、眼は既に慣れていた。

 ――はああぁぁぁ……。

 喉が引き攣り、悲鳴も上げられんかった。代わりに出てきたのは、呻きにも嗚咽にも似た吐息で、体をがたがた震わせている所為で、途切れ途切れじゃった。

 女が、まだ其処におった。囲炉裏の前に正座して、仲間の一人の頭を膝に乗せ、それに向かって屈みこんでいた。

 仰向けに置かれた仲間の頭に、女は何をしていたと思う?

 唇を合わせ……いや、そんな優しいものではなかった。仲間の口に、女は喰らいついておった。がくがくと痙攣している仲間の頭をしっかり抑えつけて離さず、無理やりに抉じ開けた口の中に、己が鼻の頭から顎の先まで突っ込んで、ぴちゃぴちゃと音を立てながら、吹き出る血を啜っていたのだ。仲間は眠っていたのではない。口の中から溢れ出る血に溺れて息ができず、悶えておったのだ。苦しさのあまり体がうねうねと蠢いていて、両手が虚しく宙を引っ掻いていた。それも見る見るうちに力を失い、柳の如く、だらりと垂れ下がるようになるのだった。血を啜るいやらしい音が、耳に纏わりついた。

 仲間の腕がぽとりと落ちた。女がゆっくりと頭を擡げて、儂の方を見た。雪のように真っ白な瓜実顔に狂気を湛え、冷たく鈍く光る金泥の双眸。その口元からは、ぬめりのある真っ赤な血が、つつ……と糸を引いて垂れておった。また、女は何かを咥えているらしく、でろでろとした血に塗れた黒いものが口から食み出ていた。

 女は儂を睨めつけながら、ぷっとその黒いものを、儂の方へ吐き出した。それは儂の額にべったりと張り付き、一時の間を置いて剥がれて床に、べたりと落ちる。それを眼に入れて、儂は込み上げてくる吐き気を抑えられなかった。ごふごふと咳き込み、それと一緒に甘酸っぱいどろりとした液汁を床にぶちまけた。反吐は一度出たきりでは治まらず、儂はそれから何度も吐き出し、着ているものも床もどろどろに汚した。

 あまりにも夥しい儂の反吐はちっぽけな水溜りとなり、女が吐き出して寄越したものはその水溜りに浸かっているようじゃった。それをもう一度見る勇気など、儂にはなかった。儂は女の白い額ばかりを、必死になって見ておった。もちろん女の顔を見ているのだって、怖くて仕方がなかったが、女から眼を離すのだって、同じくらいに恐ろしかったのだ。

 べっとりと柔かくて、鼻が曲がるほどの死臭を放っているそれは――舌じゃった。女は仲間の口に喰らいついて、舌を噛み千切っておったのだ。

 女は儂に向かって、莞爾と微笑みかけた。血に塗れた笑顔の、物凄かった事……儂は背筋が一瞬でぞぞりと粟立つのを感じた。このままぐずぐずしていると、儂まで舌を抜かれると戦いた。とにかく、女から少しでも離れねばならぬと、言うことを聞かぬ腕と足をじたばたさせながら、蝸牛にも負ける鈍さで、じりじりと退く。と、一尺ほど退いたところで、腕が何やら冷たく柔かいものに触れた。それが邪魔をして、其処より後に引き下がる事はできなかった。何だと儂は、焦りの中に苛ただしさを感じながらも、女から視線を逸らして、背後を振り返った。

 今度は、自分でも驚くぐらいに馬鹿でかい悲鳴が喉から迸った。権助! 斉吉! ――と、血相を変えて仲間の名を呼びもした。儂の悲痛な叫びに、答えは帰ってこなかった。その代わりに聞こえてきたのは、くつくつ……と禽獣の鳴く声の如き、女の噛み殺した笑い声。女は、儂の覚える様子を見て、顔を醜くひん曲げて、笑っておったのじゃった。

 十四人の樵達は、一人残らず、女の膝の上で横たわる仲間と同じように、舌を抜かれて殺されておったのだ。彼らの屍は重ね合わされて、まるで布団かなんぞのように、小屋の隅に追いやられていた。それに儂の腕が当たったのだ。仲間の肌はどれも鉛色にくすんでいて温かみはなく、こちこちに固まっておった。みんな白く濁った眼をかっと見開いて、口からはだらだらと血を流し、それが床に真っ赤な水溜りを作っていた。死んでいるのに、耳には彼らの断末魔が、わんわんと響き渡っているような気がして、思わず身を縮込め、耳を手でしっかりと塞いだ。ついさっき死んだ仲間も含めて十五人が、命の尽きる最後の瞬間まで苦しみ悶えていた事は、死に顔にくっきりと刻みこまれた表情を見ても分かった。

 ふらり……と女が立ちあがった。死んだ仲間の頭が、女の膝から落ちてぐしゃァと音を立てた。儂はヒイッと小さく叫んで、体を強張らせる。女は口から滴る血を拭おうともせず、横たわる屍を跨いで、儂の方へと歩いてきた。儂を弄ぶかのように一歩……また一歩……と足を踏みしめながら。

 逃げなければ殺される事は分かり切っていたのに、体は言うことを聞かぬし、退こうにも屍が邪魔をする。それを跳ねのけても、すぐ後ろに壁がある。

 風前の灯の如く頼りない、ふらふらとした足取りで女は、儂の前までやって来た。腰を抜かしてへたり込んでいる儂には、女の姿が見上げるほどに大きく見えた。女は儂を睨み据えたまま、みしみしと体の節々を軋ませて、その場に座す。背を丸め、下から儂の顔を覗きこむ女。近くで見ると、笑っているのは口元だけで、三日月の形に曲った双眸の奥に光る金泥の瞳には、狂気を帯びた凄まじい瞋恚の焔が、轟々と渦巻いているのが分かった。

 枯木のように細く、白い手が伸びて儂の頬に触った。傍に転がる仲間と同じで、まるで温かみのない、冷え切った腕じゃった。儂は肩を引き攣らせ、全身を一度大きくぶるりと震わせた。女に触られていると儂の体まで凍った気がして、息を吐くことさえできなかった。

 慄然としている儂の頬を撫で摩りながら、女の唇がふっと開いた。中からどろどろした血が毀れて、顎を伝って流れてゆく。ぷんと生臭く、甘酸っぱい淫靡な匂いが鼻を突いた。

 女の声は相変わらず静かだったが、怒りを堪えかねて僅かに震えているようでもあった。

 ――あんたにたのめば、こんなことにならずにすむとおもっていた。

 ――わたしたちをそのままにしておいてくれるとおもっていた。

 ――あんたにたのめば、あんたにたのめば……。

 女は物悲しき呪詛の言葉を並び立てながら、頬を撫ででいた手をつつ……と下ろし、突然に首をがっちりと掴んだ。叫ぼうとした儂の声は女の指に押し戻され、空気の僅かに漏れる音しか出てこなかった。固まってしまった腕を必死で振り回し、女を突き離そうとするのだが、細くて弱弱しい筈の女の腕は、万力のような力で儂の喉を締め上げていて、どんなに暴れても決して離れようとはしなかった。

 ――こんなことには……こんなことには……。

 女が一言つぶやく度、儂の首を締め付ける指にいっそうの力が籠った。

 儂の頭の中は滅茶苦茶で、何も考えられなかった。駄々っ子のように手足をばたばたさせ、縊れて死ぬ前に女から逃れようと、死に物狂いになる事しかできんかった。何度も何度も女の頭を殴り付け、頬や額を引っ掻き、首に伸びている腕に爪を立てたが、どんなに痛めつけても、女は儂から離れようとはせんかった。鬼のような形相ながらも綺麗だった顔は、痣と血でずくずくに腫れ上がって、片眼は潰れて、毛は引き抜かれて――それでも、儂に喰らいついていた。暴れれば暴れるほど、女の指は儂の首を、きりきりと締め上げるのだった。此の侭では、縊れるよりも先に喉が破れてしまうとさえ思った。

 女の息が顔に拭きかかると、蚊柱の如くもやもやとした眩暈が現れて踊り狂った。それがあっと言う間に両方の瞳を侵して、儂の眼には間近にある女の顔ですら、定かには映らなくなった。体もどんどん力が抜けていって、もはや抗っても女に敵いはしなかった。

 おしまいだ――そう思って、儂は眼を閉じ、振り回していた両手をだらりと下ろした。すると右手の指の先が硬く重い、金属質の物に触れた。はっとしてそれを掴んでみると、いつの間にか儂の背中から転げ落ちていた、山刀じゃった。儂は何も考えずにそれを振り上げて、女の脳天目がけて叩きつけた。儂の手に鈍い手応えが伝わると同時に女の呻き声が響き、首から手がぱっと離れた。冷気が一気に喉に押し寄せて、儂はぜいぜいと喘いだ。

 その時になって漸く眼を開いたので、振り下ろした山刀が、どこに当たったのかまでは見えていなかった。だが女が頭を押さえながら蹲っていたので、山刀は脳天に叩きつけられたのだと分かった。頭を押さえる指の間から、ぬめりの混じったどす黒い血が、だらだらと流れ出ていて、儂の背後で折り重なっている仲間達の屍から滴る血と一緒になり、床の上に湛えられた血溜りを更に大きくしていた。

 儂は腰を抜かして、動く事ができなかった。ただ女から少しでも離れようと、手を床について身を捩り、戸口の方へ体を引き摺ってゆくばかりだった。手だけで進んでいくのは蝸牛よりも鈍く、いつ女が飛びかかってくるだろうるかと考えると、気が気でなかった。

 頭をかち割られているというのに、女は死んでいなかった。体を激しく痙攣させながら、喉を震わせて不気味な呻り声を上げていた。それでいて瞋恚の炎は消えないらしく、右の手で猶も頭を押さえながら、ずるずると床を這いまわり、左手を儂の方へと伸ばしてきた。

 女の指先が儂の足に触れそうになり、儂はわっと喚いてそれを蹴り飛ばした。女の指はあらぬ方へひん曲った。儂の耳には届いて来なかったが、骨の折れる音がしたかも知れぬ。とにかく逃げなければという一心で足を泳がせ、どうにかこうにか戸口まで行き着いて小屋の外へ転がり出た。女がまだ生きていて、儂を追って蠢いておることは、小屋の中から聞こえてくる呻き声で分かった。すぐにでも戸口に幽鬼が姿を現しそうで堪らず、儂は傍に落ちていた棒きれを杖代わりに何とか立ち上がって、その場を後にした。

 自由の利かない足を叱りつけながら、一刻も早く小屋から離れようと只管に逃げ走った。小屋の方を振り返る勇気は、これっぽっちも浮かんでこなかった。しんとした夜の帳を突き破るかの如く、身も凍らす叫び声が、小屋のある方から響いていた。それはどれほど遠ざかろうと、黒部を駆け抜ける風に乗って届いてきて儂を震えあがらせた。怒りの籠った悲痛な叫びのようにも聞こえ、狂気に駆られてゲラゲラと笑っているようにも聞こえた。

 儂は休む事なく山道を走り抜け、その夜のうちに村に逃げ帰った。明け方起き出して来た村の衆は、物凄い形相で息も絶え絶えに、ふらふらと村を徘徊している儂の姿を見て魂消たようじゃった。何せ、一晩で黒部の山を下りてきたのだ。すっかり精根尽きはてていた儂は、村の若者たちに半ば担がれるようにして庄屋の家に誘われ、そこで飯を馳走になりながら、何があったのかと訊かれた。儂は貪るように飯を掻き込みながら、谷であったことの全てを話した。もちろん、すぐには信じてもらえなかった。無理もないだろう。あまりに突拍子のない、怪談じみた話だったでな。本当のことを言えと、庄屋の家で儂は随分と干されたものだ。儂は頑張って、全て事実だと言い張った。庄屋がそれに根負けして、儂の話を信じるようになるまで、丸三日はかかっただろう。後から聞けば、儂の剣幕があまりにも凄まじかったため、恐れをなしたそうだ。

 この出来事があってから、儂らが小屋がけした北又谷を、十六人谷と呼ぶようになった。十六人谷に入ろうとする者は、今では一人もおらんという事じゃ。それどころか黒部の峡谷にさえ、入ろうとする者は少なくなってしもうた。山神や蠎の祟りというものを誰もが畏れておる。儂も十五人もの仲間を失った身じゃて、それ以来、山には一切近付けなくなってしもうた。

 あれが起こって何年経ったろう。儂らが作った小屋はとうの昔に崩れただろうし、仲間の屍は骨と化し、風に遊ばれて散り散りになっておろう。甕も鍋も隙も鍬も、何もかもが塵と化しているに相違ない。十六人谷で儂らが伐り倒した夫婦柳の片割れは、まだ生きて谷の何処かに聳えておるかも知れん。寡となって、ぽつねんと一人寂しく。

 今となってから思い返しみて、はっきり心に浮かんでくるのは、あの女のことだ。 

 あれは、恐ろしいほど美しい女子じゃった。儂はあん時の女の顔が、こんなよぼよぼの爺となった今でも忘れられない。もし再び逢うことが叶うなら、その時は舌をくれてやっても構わんとさえ、この頃では思うようになってきた。嬶とも死に別れて、一人余生を貪る暮らしを続けるようになってからは、ともすれば、あの女の姿が、瞼に浮かんできてな。一人ぼっちになって現世に思い残すこともなく、ただあるのは寂しい気持ちだけ。

 御嶽へと続いている亡者道が、早くおいでと儂を呼んでおるのかも知れんでのう――。

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