――山に入る時は蠎に襲われんように、山刀を背に担げという言い伝えがあった。

 その日は、恐ろしく天気の悪い日だった。空一面を真っ黒な雲が覆い、銀色の針の形をした無数の雨が、地面にぶつかっては跳ね返っていた。轟々と唸り声を上げる風が石を転がし、草木を引っこ抜いては投げ捨てる。山の天気は険呑じゃ。一度機嫌を損ねたら、次はいつ明るい天道を拝めるか、これは誰にも分からん。日が暮れるにつれて益々酷くなるばかりで、朝から山にいた儂らは、雨風に揉まれ、へとへとになってしもうた。

 そろそろ引き上げた方が身の為――そう思った儂は、一緒に来ていた田兵衛の方を見て、ぎょっとした。少し離れた岩の上に立って、樹に斧を当てていた田兵衛は蓑を付けただけ。山刀なんぞ、影も形もなかった。儂は慌てて田兵衛に怒鳴った。怒っていたわけではない。風雨激しく、樹のごわごわと騒ぐ山の中。そうでもせんと、聞こえんのだ。

「田兵衛――! おめえまた、山刀持って来てねえでねえか」

 田兵衛は樹を伐る手を止めて、へらへらと人を見下した笑い声を上げた。

「おらァ、蠎なんか怖くねえからなあ。山刀なんか持ち歩かねえのよ」

 儂はムッとした。奴とは、それまでにも何度か組んで小屋掛けした事があったが、その度いつもいつも、粗暴で身勝手な振る舞いに、うんざりさせられて来たのじゃ。信心深過ぎるのも樵に向いておるとは思わんが、あまりに無頓着なのもまた、樵には不味かろう。

 儂はフンと鼻を鳴らして、蓑と山刀を担ぎ直すと田兵衛に背を向けた。手甲を嵌め直し、とぼとぼと歩き出しながら、先に行っとるぞ――と田兵衛に怒鳴る。足元が滑りやすかったで、振り返る余裕なんぞはなかった。

「へっへっへ帰れ帰れ。迷信なんかが怖くて樵になれっか」

 田兵衛はへらへらと、あの嫌な笑い声を上げながら、儂の背中に向かって言った。

 儂は無性に腹が立った。だが、敢えて何も言わなんだ。田兵衛は儂よりも六つも上で、樵としての経験も儂の及ぶところではなかったから。

 小屋に戻る道すがら、耳を澄ませてみると、雨風の音に混じって、斧の叩きつけられる鈍い音が谺しいた。儂は苦々しく思いながら、小屋まで独り戻った。

 小屋に入って暫くすると、あれほど吹き荒れていた雨が次第に弱くなって、そのうちにぴたぴたという微かな、水の滴る音しか聞こえなくなった。田兵衛の斧の音も止んでいた。もうすぐ帰ってくるのだなと思い、囲炉裏に火をくべて待っておった。

 間もなくして田兵衛が小屋に入ってきた。背中の蓑を毟り取りながら奴は、

「戻ったぞ。ホレ見ろ。何もありゃしねえじゃねえか。山刀なんか持たなくたって、蠎なんか出やしねえよ」

 と、腕を広げながら、得意そうに言った。その顔には、いっそう濃い蔑みの色が浮かんでいた。奴はいつも人をやり込めた時なんかにそんな表情を浮かべるのだった。儂はその顔が大嫌いでな。田兵衛が侮蔑を顔に滲ませたら、何だ何だと喰ってかかるのが常じゃった。腕っぷしは向うの方が強い。胸倉掴んだところで勝てはせん。いつも腕を捻り上げられてしまう。田兵衛もそれを知っていた。それでも敢えて、そのような振る舞いをしていたんじゃから、あ奴、儂を弄ぶのが楽しかったのだろう。

 だが――その時ばかりは田兵衛に喰いつくことはできなかった。

 儂は、あんぐりを口を開けたまま、眼を蛙のようにぎょろぎょろとさせ、恐怖に顔を歪めているばかりだった。

「ど、どうした。無事に戻ったのが、そんなに不思議か」

 からかうように田兵衛が訊いてきたが、もちろんそんな筈はない。

 儂は確かに見た。田兵衛の背後、小屋のすぐ前で。黄金色に光る巨大な眼を。 

 その周りを覆っている、毒々しい藍色をした幾つもの鱗を。

 ぱっくりと開いた口の中に見える、鋸の如き鋭い牙を。そこからはみ出ている、毒々しい炎の色に染まった舌を――。

 あんなにも大きな顔をした蛇を、儂はそれまでにも、その後にも、見たことがない。暫くの間は眼であると分からなくて、随分と低い所に月が出ているものだと思ったくらいだ。それがぎょろりと動くのを見て初めて、ハッとしたのだった。

 蠎だ――がたがたと体を震わせながらも、儂の手は傍らに立てかけてある山刀に伸びた。

 刀の柄をしっかりと握りしめ、顔の前で構える。そこで佐兵衛の顔から、嗤いが消えた。

 何だ弥助――確か田兵衛は、そう言ったように思う。そして、さっと後ろを振り返った。

 蠎の姿を見た。何か叫ぼうとしたように思う。だがそれよりも速く、蠎がギイギイといやらしい鳴き声を上げながら、小屋の中に突っ込んで来た。頭だけで三間もあるような蠎が、七寸ほどしかない入口を通って、首を振りまわしたもんだから、木でできた小屋などいとも容易く倒れ、砕け散ってしまった。儂は蠎の歯に着物の裾を引っ掛けられ、ぽうんと放り投げられた。儂は、初めて空を飛んだ。吹きあたる風で、息も吐けんかった。頭の中は目茶目茶だった。何も、まともに考えられんかった。

 空を飛んだのは、ほんの一瞬に過ぎなかった。あっと思った時には、硬い地面に、体が叩きつけられておった。胸を強かに打たれ、口から血を吐き出して呻いた。気が遠くなるほどの痛みじゃったが、それでも山刀を離さなかったのは、我ながら懸命だった。魔はこの上なく、刃を嫌う。それを持っておる限り、奴は儂には牙を向かないはずだった。

 地面に横たわりながら、儂は首を伸ばして、小屋の方を見ておった。儂が落ちたのは小屋に続く道の外れ。儂の一間ほど前を、丸太のようにぶっとい体が、ずるずると這いまわっておった。田兵衛の声は、聞こえんかった。とっくの昔に喰われてしもうたのじゃ。むっくりと体を起こして見上げると、蠎は山の頂に、体をぐるぐると巻きつけてギイギイと、あの嫌な鳴き声を上げておった。

 儂は見つからんようにと身を屈め、岩の間からおずおずと様子を窺った。山の頂は、小屋からはずっと遠い所に聳えているというのに、眼を凝らさずとも、蠎の姿はよく見えた。

 ごつごつとした頂に、長い体を一重にも二重にも巻き付けておった。平べったく、楔の如き頭は天を向き、口をぱっくりと開いて舌をちろちろと蠢かせていた。眼は金色から、瞋恚に燃える赤へと変わっており、ぎょろぎょろと絶え間なく動いては、何か探しておる素振りを見せていた。その様子を見て、儂は身を顰めながら、一心不乱に念仏を唱えた。蠎が探しておったのは他でもない、この儂じゃ。奴は田兵衛を喰っただけでは満足せず、儂まで飲み込んでやろうと、彼方此方見回しておったのだ。

 だが儂の姿は、岩に隠れて蠎には絶対に見えんようになっておった。いつまで経っても儂を見つけられん蠎は次第に苛々を募らせ、天へ向かってその怒りをぶつけておった。牙を向いて唸ると、雲がどろどろと不穏な音を上げながら立ち込め、その奥に雷が閃くのが見えた。止んでいた雨が再び降り出して、蠎の体をしどしどに濡らしておった。やがて雨は、雷を伴って横殴りに吹き荒れるようになり、儂は吹き飛ばされまいと必死で岩にしがみ付いた。

 雷が閃く度、蠎の体は照らされて銀に輝いておった。その形相の恐ろしさ、凄まじさ……儂は今になっても、夢の中であの蠎の姿を思い出して飛び起きることがよくある。

 幸いな事に、蠎は最後まで、儂を見つける事はできなんだ。大かた崖から転げ落ちて死んだとでも思ったんじゃろ。蠎は渋々といった様子で山の頂から身を解き、最後に一度辺りを見回した。その後やっと、体をずるずると引き摺って来た道を戻り、奥の方にある塒へと、帰って行ったのじゃった。

 蠎の姿がすっかり見えなくなってから、儂はおずおずと岩の間から顔を覗かせ、ほっと深く息を吐いた。それから痛む足を叱りつけて、小屋のあった所まで歩いて行ったのじゃ。

 吹き飛ばされた小屋の跡に、やはり田兵衛の姿はなかった。ただ、青臭い蛇の臭いだけが、いつまでも消えずに残っておった。無残な有様の小屋跡を前に、儂は呆然としておるばかりじゃった。痺れたようになった手から、山刀がぼとりと落ちた事だけは覚えておる。

 山の中で恐ろしいのは天狗でもなけりゃ、山の神でもない。この蠎なんじゃよ。

 ……ところがこの蠎よりも、もっと恐ろしい事が山にはある。

 嗚呼――思い返しても、身の毛がよだつ。十五人の仲間が、たった一晩で一人残らず殺されたのだ。儂が、山の願いを聞き入れてやらなかったばかりに、奴らは世にも惨い死に様を晒し、折り重なって横たわっておった。儂一人だけが辛くも生き延び、今日まで生き恥を晒して来たのじゃ。あれ以来、誰もあの辺には近付かぬ。十五人の仲間達は今も未だ、あの険しい山の中に転がっておるのじゃろう。声にならぬ叫びを上げながら――。

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