【三階】  壊れた絵画の海

「いつまで落ち込んでるのよ。もう薔薇にしたでしょ」

「したけど……なんか、気分的に」

「自分の顔を取り返せば気分なんてどうにも変わるわよ」


 ガーネットの言い分はもっとも。

 ロサは渋々と背筋を伸ばした。


「ここは水浸しだね」


 意識を切り替えるためにもロサは話題を変える。


「海が溢れてるのよ」

「どういうこと?」

「そこの海の絵、額縁が壊れてるでしょう。そのせいで海水が溢れてるの」


 黒い尻尾が示す先は壁に掛かった大きな絵画。

 大海原を進む船の絵。それを包む金の額縁は下のほうが一ヶ所欠けていて、そこからザーザーと轟音を迸らせて滝のような水が落ちている。

 それが床を水浸しにしていた。


「絵だよね?」

「違うわ。海の絵よ」

「……海の絵はあふれるものなんだ」

「当たり前じゃない」


 その当たり前にどうしようもない違和感を覚えるが、ロサは疑問を喉奥に留めた。


「この上に庭園があるわ。そこに女王がいるはずよ」

「じゃあ早く上に行かないとね」


 ロサは水浸しの廊下を歩む。

 バシャンバシャン! と水飛沫をあげて進み、次の瞬間。


 ボヂャン!

 と、ロサの身体は沈んだ。


 ――――えっ!?


 たくさんの気泡に抱かれる。遅れて自分が沈んでいると気付いたロサは必死にもがいた。

 ふと、荒々しい泡の隙間で赤が揺れる。

 咄嗟にロサはそれを掴む。


「海が溢れてるって言ったでしょ!」


 引っ張られ、身体が浮き上がった。


「薔薇も海水には弱いんだから!」

「ご、ごめん……」


 口のない薔薇頭は海水を飲み込んで咽せることはなかったがシワシワに傷んでしまった。

 激しい叱責とは裏腹にガーネットは丁寧に頭を新しい薔薇に変えてくれる。


「これ、ガーネットのリボン?」


 新しい頭のお陰ではっきりとした視界。

 ロサが握っていたのはガーネットの尻尾についていたリボン。どうやらガーネットがリボンを垂らして溺れていたロサを助けてくれたようだ。

 美しい赤いリボンは潮水に濡れてヨレヨレになってしまった。


「ごめんね。キレイなリボンだったのに」

「いいのよ。渡した本人はもう忘れてるわ」

「けど」

「それより、海なんだから深いのよ。足元には気を付けなさい」


 ガーネットはリボンなど興味ないとばかりに言う。

 そんな態度を取られてはロサからはそれ以上は何も言えなくなった。濡れたままのリボンをそっとエプロンのポケットにしまう。


「床が抜けてるの?」

「海に床はないわ。ここから先が単純に深いだけよ」


 見た目には判別できないが、廊下は少し先から床という概念がないらしい。


「本当に大丈夫なの?」

「うん。大丈夫。海なんだね」


 よく分からないがロサは納得する。

 不思議なことばかりでついつい疑問が浮かんでしまうが、どれだけ考えたって解決しない。

 とにかくこの階は絵画からもれた水により海になっている。


「海を渡るにはどんな頭が必要かな?」


 なら、考えるのは上に行くための頭はなにか?


「海を渡る頭となると……魚とか?」


 ロサは海なら魚がいるはずと水面を覗く。

 魚はいた。

 だが、魚は皆一様に骨のだけの姿。

 しかも頭もついていない。


「とっくに女王に頭も身も取られちゃってるわね」

「魚、おいしいもんね」

「オレも好きよ。魚」

「猫だもんね。でも、どうしよう」

「魚ならこっちにもいるわよ」


 ガーネットが尻尾を揺らした。


「こっちの魚は食べられないけど、頭にはなるんじゃない?」

「魚の絵!」


 壁に掛かるいくつもの絵の中に魚の絵があった。

 ロサは自分の身体に合いそうなサイズの絵を選ぶと額縁ごと剥がして頭を交換する。


「うっ!」


 途端に息苦しさを感じて、ロサはその場に膝をついた。


「あらまあ。魚は陸じゃあ息ができなかったわね。こっちにしましょう」

「ぶはっ!」


 察したガーネットが素早く魚の絵を猫パンチで外し、新たな絵をロサにつける。


「く、苦しくない。何の絵にしたの?」

「船の絵よ」


 魚の絵とは違い船の絵の頭は息苦しさもなにもない。


「わっ、見てガーネット! 水の上を歩けるよ!」

「船にして正解だったわね。行きましょう」

「うん!」


 船の絵によって水面を歩けるようになったロサは、ガーネットを胸に抱いて階段を目指した。

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