第23話 それは罪ですか?

 ——貴方の様に、強く在りたかった。

 ホワイトクリスマスという言葉がある様に、クリスマスの日に振る雪は特別視されている。とはいえ昨今の温暖化の影響もあり、昔は当たり前だった地域でも、年末にすら雪が降らない場合も多い。

 そして降りすぎれば都市部の交通網が麻痺し、気温が下がりすぎれば水道管が凍って破損してしまう。暖房器具の使用度が上がり、燃料の消費量が増え光熱費に頭を悩ませることになる。

 それでもそれらに悩むのは大人ばかりで、大概の子供は雪が降れば喜び、積もれば外に出て新雪の柔らかさと冷たさに目を輝かせ、雪玉を投げ合い、雪だるまや雪ウサギの数が一気に製造される。

 ……雪の日を喜ばなくなったのは、いつの頃からだろうか。

 カガリは屋上に設置されているベンチの上で、ぼんやりと雲に覆われた空を見上げていた。時折口から零れる息は白く、冷たい空気へと溶けていく。

 すでに周囲は真っ暗で、屋上に設置されている街灯が申し訳程度に周囲を照らしている。エコという風潮は確実に病院にも影響をし、夜間の照明は最低限で、人気のない場所は緊急避難のための誘導灯のみ。

 真冬の屋上、それも日の落ちてから使う者はほとんどいないので、実際に正しい判断だと言える。


 この日は小児科病棟でクリスマス会が行われており、手の空いている医療スタッフはそちらへと参加している。何かの恩恵なのか、この日は救急患者もおらず、比較的穏やかな勤務時間だったお陰で、例年よりも参加者が多い。

 カガリも休憩がてら小児科病棟へと顔を出し、子供達にプレゼントを配るのを手伝っていた。本格的なプレゼントは患者の両親——サンタクロースがしてくれる。

 お菓子の類はアレルギーや病気のせいで口に出来ない子供も出てくる。なくしたりせず、場所をとらない程度の大きさのおもちゃが無難だ。あまり高い物は懐的に優しくないし、相手方も遠慮して気疲れしてしまう。安すぎず、そこそこの品質で、取り合いにならないような量産品が無難だ。

 基本的には子供達へのプレゼントは寄付を募っている。いつもは適当な金額を寄付するのだが、たまたま同期の飲み会の帰りにずらっと並べられた、所謂ガチャガチャの筐体が目に入った。

 隣にいたコタロウに聞いた所、最近のガチャガチャ、カプセルトイはなかなか精巧な作りをしており、成人した大人や旅行に来た外国人にも人気との事だ。一回数百円の物も珍しくなく、全てコレクションしようとすればそれなりの値段になる。

「……なあ、これってアニメや漫画の物なら、子供も喜ぶよな」

「そうですね。動物や恐竜、ぬいぐるみ、——ストレス解消用の無限プチプチや無限枝豆なども、少し前に流行っていましたね。此処の物は入れ替えが激しいので、それなりに流行を追っているとは思います」

 子供が喜ぶという話で、コタロウはカガリの言わんとする事を察したらしく、ガチャガチャの筐体を確認している。

「毎年の小児科の入院患者へのプレゼントは似たような物ばかりですし、外に出られない患者達には、こういった物の方が喜ばれるかもしれませんね」

 実際にカガリもコタロウも看護師達から相談を受けていたので、いっその事こういった物でそれこそ運試しというのも面白いだろうと、カガリは酔ってぼんやりとする頭で思いついたのだった。

 一回数百円かかる事もあり、今の物は外れらしいはずれがない。これならばガチャガチャの筐体の選択さえ間違わなければ、大衆受けのする玩具が安定して手に入る。

 早速次の日の朝のミーティングの後に、相談をしてきた看護師達にその事を伝えた。看護師達の反応はなかなかに良い物で、それならばくじを引く楽しみもあるし、詳しく中身を知らないのでスタッフ達も新鮮味がある。後はいくつかの種類ごとに袋で分けて、それぞれ好みの物を袋を選んでもらい、それらを中身を見ずに引いてもらえばいい。ある程度は患者の好みを知っているし、いざとなれば子供達同士で交換をするという楽しみも出来る。

 こうして大量に購入したカプセルトイを大まかな種類に分けて、流石に一個だけでは寂しいので、何回か繰り返し並んでもらって数個選んでもらった。

 結果として割と好評で、自分達でカプセルを開けておもちゃを取り出すときは本当に楽しそうだった。

 体調が良かったり、病状が小康状態の小児患者は一時退院をして、家で家族と共にクリスマスと正月を祝う事になっている。

 その前にささやかなクリスマス会をして、病院で知り合った友人達と楽しんでもらえたことに、スタッフ達は皆喜んでいた。

 子供達にとって医療スタッフは戦友の様なもので、支えて導いてくれる先生でもある。「絶対に治る」なんて無責任な台詞は吐けないし、症状を誤魔化すような嘘を吐く事も出来ない。出来るのは曖昧に言葉を濁し、声をかけて少しで彼らの心を慰める事だけだ。最終的には彼ら自身の生まれ持った治癒能力が、彼ら自身を助けるのだから。

 今晩ぐらいは病院食とはいえ、クリスマスの雰囲気を感じられるように、それぞれの患者のために個別に作られた夕食だった。子供達は「美味しいね」と言い合いながら、和気あいあいと笑い合っていた。

 それを見届けたカガリは看護師に声をかけてから、先に休憩時間に入らしてもらった。


 遠くから響いてくる子供達の楽し気な声を聞きながら、カガリはフェンス越しに見える夜景をぼんやりと眺めていた。

「——寒くはありませんか?」

 カガリが首を捻って声の方を見ると、コタロウが微笑んで佇んでいた。

「——少し寒いな。けど、空気が澄んでいて心地いい」

 白い息を吐きながら、カガリはすっかり冷めてしまったコーヒーを口に運ぶ。

「お隣に座ってもいいですか?」

「……ああ」

 ちらちらと降る雪を眺めているカガリの横に、コタロウが殆ど音をたてずに座る。気配が無ければ近くにいる事が分からないほど、足音や衣擦れの音がしない。気が付けば自然に傍に居て、そっと寄り添って微笑んでいる。人によっては気味が悪いのだろうが、コタロウの纏う柔らかな雰囲気のお陰で、そんな物は微塵も感じさせない。

 ……こういうのを人徳、というのだろうか。

 そんな事をぼんやりと考えているカガリをよそに、コタロウは手に持っていたホットココアの缶を開封して口元へと運んだ。

 暗い空からは大きな雪の結晶がちらちらと降ってくる。重さを感じさせないというのに、それでも確実に落ちていく雪を眺めていると、距離感がぼんやりとしてきて、雪の結晶がずっと宙を漂っているような錯覚に襲われる。

「……間違っていたらすまないが、益田チヅルというのは、君の姉か?」

 脈絡もなく投げられた台詞に、コタロウはカガリへと顔を向けて、朗らかな微笑みを浮かべて静かに頷く。

「——ええ。チヅルは私の姉です。……十文字アカリというのは、十文字先生の妹さんですね?」

「——ああ、そうだ」

 覇気がなく眠たそうにも見えるカガリの横顔を、コタロウは見つめている。少し年をとりはしたが、彼がカガリを初めて見た時と何も変わらない。ただ、世界の時が流れていく様を傍観している。

「……十文字先生は、姉と同い年だったので、何となく覚えています」

 偶然とはいえ、カガリの妹とコタロウの姉は同じ病院に緊急搬送された。コタロウも軽傷を負っており、すぐさま手当てを受けたのだが、忙しく行きかう人の流れの合間から、血まみれで呆然と立ち尽くすカガリの姿を見つけた。

 血まみれのままで表情を失い、寄る辺も無く立ち尽くすカガリが酷く脳裏に焼き付いている。

「——正直に言うと最近まで忘れていた。……いや……違うか……。多分、思い出さない様にしていた。けど、マリさんが搬送されてきた時のお前の顔に、何となく既視感があった」

 現実味のないぼんやりとした世界の中で、妙にはっきりと記憶に焼き付いている人間がいる事を、最近になってカガリは思い出す事が出来た。

「姉に庇われたおかげで、私は軽傷で済みました。姉は殆ど即死だったそうです」

 雪が降る中、酷く綺麗に微笑んでいるコタロウは、名匠が手掛けた絵画のように美しく、酷くカガリの視線を引き付ける。目を離した瞬間に、消えて無くなってしまうのではと不安を覚えるほどに。

 ——儚い物を美しく感じる。

 ——それは、まるで儚く花びらを舞い散らせる桜の様。

 ……そういえば、雪の事を六花、もしくは六つの花というんだったか。

 カガリの頭に浮かぶのは、とりとめのない事ばかり。

「……俺はただ、……眺めている事しかできなかった」

 騒がしいなと思って、そちらの方を振り向いたカガリの目の前には、隣にいた妹が男にナイフで刺されている光景があった。

 突然の光景に、カガリの脳内は情報過多で思考能力が停止してしまった。それでも視界に映るのは、男が華奢な妹の体を突き飛ばして、引き抜かれたナイフから伝う鮮血と、妹のお気に入りの服が一瞬で真っ赤に染まっていく様子。

 石畳に倒れた妹が苦しそうに吐血をしたところで、カガリは我に返って妹に駆け寄った。とめどなく溢れてくる鮮血が妹の体を伝い、石畳の上へと広がっていく。石畳の境目を伝っていく細い血液の流れ。温かな血液が、カガリの服へと染み込んでいく。

 目の前で起きている出来事だというのに、酷く現実感が無く、銀幕越しに映画でも眺めているかのよう。

 ただただ溢れてくる血液を何とかしようと、服越しに傷口を押さえたことまでは記憶している。

 その後の記憶は曖昧で、気が付けば病院に居て、タンカーで妹が手術室に運ばれていくのを見送っていた。

 目の前を通り過ぎていく他人の流れの向こう側に、妹と同い年ぐらいの少年が立ち尽くしているのを見つけた。体のあちこちにガーゼや包帯が巻かれ、痛々しいほど儚く脆いものに思えた。

 そして同じように、コタロウもよく覚えている。ただ無表情で呆然と周りを眺めているカガリの事を、何となくだが姉と雰囲気が似ていると思った。

「……今思えば、置いてけぼりにされた似た者同士だったのだと思います」

 残酷な現実は子供が背負うには重すぎる。大人よりもそれを受け入れる時間が必要で、世間が思うほど彼らは強くも弱くも無かった。ただ、周りの流れについていけないだけ。

「正直、両親を含めて、周りについていけなかったです。まるで他人事の様に感じれて。でも……とても辛くて、とても悲しくて、とても寂しかった」

「……ああ、そうだな。悲しくて、辛いのに、どうしていいか分からない。それでも、妹を守れなかった罪悪感、何もできなかったという無力感は酷く感じた」

「多分、自分の心を守るために、感覚が麻痺していたんでしょうね。重症の患者が、その傷を自分の目で見たり、周りに指摘されて。痛みを思い出すようなモノでしょう」

 重症の患者に、「大したことはない」「大丈夫」だと声かけて、怪我を認識させないようにして、ショック死を防ぐようなもの。

 時間をかけて周りの現実と、自分自身の心を併せていく。全てが認識できたとき、襲ってくるのは酷い罪悪感。

 ——何もできなかった事への。

 ——庇われて、自分の代わりに犠牲となってしまった事への。

「……君の姉は凄いな。俺は何もできなかった。気が付いた時には妹は刺されていて……それを見ている事しかできなかった」

 体を張って弟を守ったという姉。とてもできた人間だったのだろうと、カガリは写真でしか見た事のない少女へ、尊敬と軽い嫉妬を覚えた。

「——確かにとても凄い事だとは思います。尊敬も感謝もしています。誰にでも出来る事ではない、と思います。……けど、庇われて救われた側からすれば罪悪感が……俺よりも姉の方が、きっと生きるべき人間だったという考えが、頭から離れない」

 自分よりも弟の身の安全を優先できる姉。まさに姉の鏡だと言える。当時のニュース記事も、少女の犠牲を悼むとともに、彼女の献身を称える記事が見受けられた。

 それは、間違いなく少女の死を悼み、彼女の自己犠牲を称賛する言葉だったのだろう。けれど、それが、生き残った弟を傷つける言葉になると、誰も気が付かなった。

「十文字さんは、姉のことを誉めて下さいました。けど——きっと、貴方が妹さんを庇って犠牲になっていたら、おそらくは私のように苦しんだでしょう」

 その言葉は酷くカガリの心を抉る。カガリはその献身を羨んだが、仮に——当時彼が妹を庇ったとして、その事を妹は自分のせいで兄が怪我をした。もしくは犠牲になったという十字架を背負わせる事になってしまう。

 ……それは本当に、正しい事なのだろうか?


 ——結局あるのは、終わりのない苦悩の日々。


「……ままならないものだな」

「ええ——本当に」

 あったもしれない、もしもの話。結果としては、残された側が助かってしまった事に苦悩する。

 肌を刺すような冷たさが、これほど心地よく感じる事はそうは無い。ちらちらと降る雪の結晶と、遠く瞬いている人工の光が酷く優しいものに感じられる。下の階から聞こえていた子供達の声も、気が付けば聞こえない。

 一人分の距離にある他人の体温と吐息と、生きている人間の気配がこれほど心強く感じた事はなかった。

 

 ——同じようで違う痛みと傷を抱えている。


 ——それでも、それは間違いなく同じ人間によってもたらされた物。

 

 誰にも訴える事の出来なかった痛みが和らいだ気がするのは、勘違いではないだろう。

 メイ共に過ごした時間で得たモノとは、似ているけれど違うモノ。

 それでもそれは確実に、カガリが背負った荷物を軽くして、彼がさらに一歩進むための糧となる。

 ならば、カガリも彼に返さなければいけないだろう。

「——それでも、君の姉は、君が生きて、誰かを助けられる大人になってくれた事を、嬉しく思ってくれるはずだ。……少なくとも、俺は妹が生きていれば、そう思う。月並みな台詞ですまないが……」

 きっと今までに何度も言われた事のある台詞だろうとは、カガリも思う。彼は真面目で頭が固いので、一般的な言葉しか浮かばない。

「君と姉の関係性は分からない。けれど、咄嗟に庇うぐらいには、君達の兄弟仲は良かったんだろう?もちろん誰だって死にたくないし、苦しいのも痛いのも嫌だろう。……けど、君が……弟のコタロウ君が生きている事を嬉しく思わない筈がない」

 カガリはコタロウの姉ではない。それでも、庇った弟が生きていて、ちゃんと大人になって、努力して医者になった。これから先、彼はきっと数えきれないほどの人を救い続ける。きっと助けた人だけではなく、親族知人など、その何倍もの人が彼に感謝をしてくれるはずだ。

「——少なくとも、俺は君が生きてここに居てくれることを、とても感謝している」

 あまり語彙が多くはないし、上手い言い返しも見つからないが、それでもカガリ自身が伝えたい事を、はっきりとした声で言葉を紡いだ。

 言い切った所で満足しながらも、急激に羞恥心が沸き起こり、カガリは気まずさを感じて、コタロウを視界から外して空へと視線をやる。

「——ありがとう……ございます……」

 すぐ隣から聞こえてきた声は、いつもの彼の声とは違い、小さく震えていて聞こえづらい。それでもその声は確かにカガリに届いている。


 きっと、ずっと彼らは痛みを抱えたまま生き続ける。

 それでも、生き続けていく。

 

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