第21話 貴方は思い出せますか?

 ——患者が目を覚まして、これほど安堵した事があっただろうか?

 暫くの間、集中理療室に居た彼女の容体が落ち着いたので一般病棟へと移された事を知り、カガリは休憩時間の合間に彼女の病室を訪れた。

「——無事で本当に良かったです。……マリさん」

 カガリは胸の奥からこみあげてくる感情を押し込めて、努めて冷静に微笑みかけたが、へにゃりと下がった眉と無理矢理挙げた口角では、情けない表情しか作れなかった。

「心配してくれてありがとう。もう、大丈夫だから。医者なんだから、貴方も分かっているでしょう?」

 出会った時よりも、ずっと立派に逞しく成長した患者の姿に、マリがどれだけ救われてきたか分からない。不安定で無茶ばかりして、マリの事をやきもきさせると同時に、社会の中で誰かのために大勢の人と共に生きているカガリの存在は、マリにとってある種の許しの様に感じられた。

 マリはカガリが自分を責め、重責を背負って生きている事を知っている。彼自身に罪がなくとも、本人が自分を許す事が出来ないために、周りの人間は見守る事が出来ない。

『貴方は、悪くない。悪いのは犯人』

 そういった慰めを、親や他人からかけられたとき、カガリは首を絞められるような息苦しさを覚えていた。言葉をかけた人間達は、内心がどう思っているかは定かではないが、少なくともカガリに立ち直って、自分の人生を歩んで欲しいと願っていた筈だ。

 けれど、その言葉はカガリを苦しめるだけで、彼の心を癒すことは出来なかった。

 ——最終的に、自分を救うのは自分自身なのだから。

 他人の言葉で救われる機会は誰にでも訪れる可能性がある。逆に言えば、訪れないまま終わる可能性もあるという事だ。

 少なくとも、目の前で「良かった」としきりに呟く彼には、ようやく巡礼の旅を終える目途がついたと、マリは内心ではとても喜んでいた。

 マリに出来るのは、自分を許すための長く険しい巡礼の旅路を、少しでも早く終わらせる手伝いだけだ。歩くのは患者自身。

 少しでも背負った重荷を軽くするために、患者の話を聞き、時には共感し、時には肯定をし、時には慰める。少しずつ荷物を下ろして軽装となり、患者達は巡礼の旅を終えて、ようやく自分の人生の旅へと戻っていける。

 ——不意に、マリは思う事がある。自分はちゃんと自分の人生を歩いているのだろうかと。

 心に傷をおった人達の話を聞き、彼らが立ち直れるように手助けをする。その話は個人差はあれど、どれも難しい物ばかり。自分で解決できないからこそ、患者達はその手助けを求めてマリの元を訪れる。

 たまに聞く話だが、看護師と言った患者と接する機会が多い職種は、仕事として完全に割り切るか、よほど精神力が強い人ではないと長くは続かない。患者に寄り添う人ほど、心を病んで辞めてしまう。

 マリは、自分がそれほど強い人間だとは思っていない。それでもこの仕事を続けるのは、こうして自分の手伝いで立ち直り、進んでいく人を見ていたいからだ。結局の所は自己満足にすぎないと思っている。それでも、それで少しでも救われる人がいるのであれば、十分なのだろう。


「——所で、私の事は様々な媒体でニュースになったと聞いたのだけれど……、天草さんは大丈夫だった?」

 マリが入院していた間の世事の話をしていたカガリの動きが、見事なまでにピタッと止まる。だが、すぐに再起動して気まずそうに苦笑いを浮かべている。

 仕事中は割とポーカーフェイスを維持しているカガリではあったが、こういった不意打ちには割と弱い。良くも悪くも、頭が固く真面目なために、意表を突かれると隙が出来る。

 マリの元を訪れる前は、彼女が無事な事への安堵でいっぱいだった。いつもであればマリから尋ねられる可能性を容易に想像がつくのだが、カガリ自身、知人の一大事に際して余裕がずっとなかった。ようやくマリの容態が安定し、一般病棟へと移されて、面会を許された事で気が緩んでいた。

 まだ本調子ではないマリの事を思えば、適当にごまかすか言葉を濁すべきなのだろうが、生憎とカガリは恩人のマリにはめっぽう弱い。自分の頬が引きつっているのを感じていたが、表情を取り繕う余裕がなく、諦めて正直に事の次第を話す事にした。

「……長崎夫妻はその事が心配で、何とか仕事を片付けて彼女と会おうとした日の朝に、ネットニュースを見て過呼吸で倒れました。幸い友人がすぐ傍に居たので、すぐに人を呼んで対処できたので、その日は大事をとって入院しました」

 予想通りの答えに、マリは軽い頭痛を感じながら片手で額を押さえて、軽くため息を吐いて項垂れる。

「……情けない話。私が患者に不安を与えてしまうなんて」

「……どうしようもない事はあります」

 「マリさんのせいではない」という言葉が自分の口から出そうになっている事に気が付き、カガリは強引に台詞を変更したために、説教臭くなってしまった。

「貴方のせいではない」と言う台詞は、散々カガリが周りからかけられてきて、辟易した言葉だったはずだというのに、それが自分の口からマリへと向けられそうになっていた。


 時間を経る事によって、当時の痛みは薄れてしまう。それは良い時もあれば、悪い時もある。例えば、加害者は人を傷つけた際の罪の痛みを忘れるべきではないが、被害者は傷をつけられた際の痛みを忘れて欲しい。

 時間経過が良い薬になるのは、カガリ自身も理解している。だが、その痛みを忘れてしまう事に苦痛を感じてしまう場合もある。

 忘却は人間にとって、厄介ごとであるとともに、必要不可欠のものだ。忘れるからこそ苦悩せずに済み、忘れるからこそ思い出を大切にする。それを恐れ、時には求め、時には逃れようと足掻く。

 カガリはずっと妹の記憶が薄れてしまう事に恐怖していた。記録媒体に残る妹を見たとしても、こういう声だっただろうかと考えてしまう事に愕然としたこともある。

 ——ずっと一緒に居ると、根拠もなく信じていた。

 ——自分が妹の事を忘れてしまう日が来るなんて考えても見なかった。

 カガリの中に残る妹の姿ははっきりと浮かび上がるが、それが動いて声を上げる事は殆ど無い。印象に残った物を映像として残し、会話の内容や声はカガリが脳内で捕捉している状況だ。まるで映画の吹き替えの様に、後から妹ではなくカガリが自身の記憶に基づいて台詞を入れている様なもの。

 ……本当に、妹はそんな事を言ったのだろうか?

 ……本当に、自分は妹と仲が良かったのだろうか?

 ……本当は、自分が好き勝手に妹の事を美化しているだけなのではないだろうか?

 家族で共有された思い出や、記録媒体に残っている思いではまだいい。後で記憶を照らし合わせたり、再度確認する事が出来るのだから。

 問題なのはそれ以外の思い出。カガリと妹との二人だけの思い出は、カガリが覚えている分しかこの世に残っていない。

 時と共に薄れて、どんどん曖昧になっていく。どんどん失われていく記憶は、不確かな像を結ぶ蜃気楼の様だ。傍にある筈だというのに、実際は目の前には無い。遠い場所にある物が、自然現象によって像を結ぶ。

 ……それは、正しい記憶なのだろうか?

 忘却は優しく、酷く残酷だ。

 それは個人差があり、望もうが望むまいが、全ての人間に起こる出来事。

「忘れたくない——」

 カガリはかつてマリに対して、そう訴えた事があった。

 「どうすれば忘れずにすむのか?」と問うた時、マリは「もし、それが出来るとすれば、全治の神様ぐらいだと思う」と答えた。

「人は人でしかなく、それ以外のモノにはなれない」

 そう言ってマリはカガリを諭した。

「あなたは貴方以外の人間はなれない。だから、あなたは貴方のまま、出来る事をするしかない」

 マリはカガリに出来ない事を勧めてはこないし、下手な希望を持たせようとはしない。

 マリは誰にでも誠実であろうとしている。それが分かるからこそ、カガリはマリの事を心から信頼している。


 マリはカガリにとって恩人で、尊敬し、憧れる相手。

 今にして思えば、淡い恋心の様なものも抱いていたのかもしれない。ただ、それを自覚する情緒が育っていなかった事と、周りの環境のせいでそれを自覚する余裕がなかった。

 『他人を見て我身を振り返れ』、とはよくできた諺だと、カガリは心底思っている。

 メイという新しい縁が出来た事で、時折自分の過去を思い返す事が多くなった。かつてはそれは自分を苛むモノばかりだったが、最近は過去を懐かしむ余裕が出てきた。

 思い出の美しさに浸れるようになると同時に、そういった妹との何気ない思い出が薄れている事にも気が付く事が出来た。昔のカガリであれば、愕然とし、自分の不甲斐なさと、忘却の理不尽さを嘆く事しかできなかった。

 だが、今のカガリは、それらを誰にでも起こる、どうしようもない事だと割り切り、薄れてなお鮮やかな記憶を尊いものだと慈しむ事も出来るようになってきた。

 きっと、それで良いのだと、自分を宥める事が着るようになった。

 ……きっと、メイのお陰だ。

 口に出すときは天草と呼ぶが、心の中では彼女の名を呼ぶようになったのは何時頃だろうか。

 メイが言った通り、一度馴染んでしまった呼び名を変えるのはなかなかに小恥ずかしく、難しい。

 ——メイがカガリの事を撫で呼ぶようになった時、きっと自分も彼女を生で呼ぶことになる。そして、その日はそう遠くないと思っている。


「もし、俺が協力出来る事があれば、何でも言って下さい。流石に仕事が優先なので、出来る事は限られていますが。最近は休日は割と本を読んで、ゴロゴロ寝てばかりいるので、多少の余裕はあります」

 以前のカガリであれば、休日も論文を読みふけり、時には同僚のために休日を返上してばかりいて、とても進んで誰かの頼みを聞く余裕などなかった。

 頼もしくなったかつての少年を誇らしく思いながらも、僅かな寂しさを覚えてしまい、マリは年を取るわけだと、流れていく時の流れをしみじみと感じ取る。

 思わず笑みがこぼれてしまったマリに、カガリは目を瞬かせ、そして安堵しながら微笑み返した。

 逆の立場で似たような状況があったなと、過去を懐かしみながら、マリはゆっくりと前へと歩いていく青年を頼もしく思った。

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