第18話 奪われ続けなければいけないのでしょうか?

 メイの病室の中は、まるで時が止まったかのように静かだった。

 個室の部屋にいるのは昏々と眠り続けるメイだけだ。カガリは出来るだけ音をたてないように気を使いながら、扉と入ってすぐにあるカーテンをそっと開けて、窓際に置かれたベットに歩み寄る。

 『天草メイ』と書かれた透明の袋に入れられた点滴が、ゆっくりと一滴ずつ落ちていく確認し、カガリはそっとメイの傍で足を止める。

 白いシーツの中に沈み、ゆっくりと規則的な呼吸をしながら、眠る姿に安堵すると同時に、まるでどこぞのお伽噺に出てくるお姫様の様だなと、カガリは漠然と思う。

 休憩時間に同僚の看護師達が、子供の喜ぶ絵本の話をしていたのだが、その中で白雪姫の話をしていたからだろうかと、カガリは取り留めのない事を考えながら、静かに眠るメイをぼんやりと眺めていた。

 元より、病院は騒ぐような場所ではないし、入院患者がいる病棟ではなおの事、その辺りは気を遣う。消毒液の匂いと、白と限りなく白に近い色達を基調とした部屋は、どうしても病院という特殊性を強調させてくる。

 点滴のお陰で穏やかに眠っている様に見えるが、メイの肌の色は以前に見た時よりも青白く見える。艶やかな黒髪と滑らかな陶器の様な肌が、より一層精巧な人形ではないかという、馬鹿らしい考えを持たせてくる。


 メイと最初に出会った時、彼女は苦しそうに息を吸い、朦朧とした意識の中で声の出ない口で何かを必死に訴えていた。

 次に出会った時、彼女はガラス玉の様な、酷く美しいがらんどうの瞳で、カガリの事を見つめていた。

 その後は、年頃の少女らしい表情をしながらも、大人びた仕草と物言いで、懇切丁寧に神の教えを説いてきた。

 カガリと共に天国の扉を潜るのだと、少女は天使のように微笑み、小悪魔の様に誘惑してくる。彼女と共に歩めば、あるいは自分は救われるのではないかという考えと、そんな事は許されないし許してはいけないのだと、自縛的な思考で胸が締め付けられる。

 下手に幸せになって、それを失った時の絶望を味わうくらいならば、軽い不幸に身を置いていた方が、下手な希望を持たずに済む。何時か失われるのではという恐怖に苦しめられる事はない。

 こんな考えをする時点で、自分はやはり前を向いて歩くなんて真似は出来ないのだと、カガリは他人事のように、その考えを意識の隅へと追いやった。


 人間が死にゆく光景はすでに見慣れている。そういう職業と分かっていて、カガリは医師という道を選んだ。

 石畳の上に倒れた妹から、少しずつ命が零れ落ちていく光景を、ただ眺めている事しかできなかった自身に失望をした。

 それと同時に、人の命は形がなくとも、無くなっていくのが分かるのだなと、酷く冷静な自分がいた事に驚いていた。

 感情的な当事者としての自分と、全てを客観的に傍観している自分。

 時折表現として、天使と悪魔の自分という表現があるが、こういう事なのだろうかと意味の無い事を考えてしまう。

 危機的な状況に陥った際、それから逃れようと必死にもがく自分と、その理不尽を仕方がない事だと諦観している自分。

 どちらも自分ではあるのに、どちらも他人事の様に感られる。

 人の死を悼む自分の中に、運が悪かったと理由付けをして、この後、書く事になる報告書の内容を考えている自分がいる。

 ——ああ、自分は何て冷たい人間なのだろう。

 そうな呟いた自分に、担当のカウンセラーが、少し逡巡してから口を開いた。

「多分だけど、貴方はそうする事で、自分の心を守っているのだと思う。諦観と客観視する事で、直接的にではなく間接的にして、自分の心への痛みを軽減しようとしていると思う。ほら、『仕事だから仕方がない』で、自分の心と折り合いをつけている職業の人もいるでしょう?」

 自分もそういう所はあるのだと、カウンセラーは苦笑しながら肩を竦めた。

「——それ自体は悪い事ではないと思う。少なくとも貴方は自分の事だとは理解しているし、ちゃんと善悪の区別も常識もある。その辺りの分別が付いているのであれば、社会生活も問題はない。それが無いのであれば、危険人物として精神科病棟送りも考えないといけない所だった」

 冗談めかして笑い話にしてはいるが、カウンセラーはいざとなれば迷うことなく自分を施設送りにするだろうなと、やはり人ごとのように考えていた。

「私が言うのもなんだけど、何時までも過去の事に囚われて、恨む事で人生を費やすのはどうかと思う。——別に、恨むなとか、許せとか、言っているわけではなくて、ただ、恨みで自分の人生を駄目にするのはどうかという話。家族を傷つけた誰かを恨むために、自分自身と家族を蔑ろにしたら、本末転倒でしょ」

 時間をかけて自分なりの答えを出して、色んな事と折り合いをつけていく。それを手伝うのが私の役目だと、カウンセラー誇らしげに胸を張っていた。


 ——犯人を恨んでいるか?

 ……はい。

 ——犯人が憎いか?

 ……いいえ。

 ——犯人を許せないか?

 ……はい。

 ——犯人に罪を償ってほしいか?

 ……分からない。

 ——犯人に復讐したいか?

 ……いいえ。


 ——だって、犯人がどうなろうと、失った者は元には戻らない。

 ——犯人を憎むという事は、常に相手の事を考えているという事。そんな労力と時間を、犯人のために消費したくない。自分に関わるの物を、これ以上犯人のせいで何かを奪われるのが嫌だ。

 

 好きの反対は無関心だと、語った人に全力で同意をしたい。


 そして、その思いを、周りは分かってはくれない。


 ——犯人に厳罰を。

 ——犯人に粛清を。

 ——犯人を許すな。


 それを訴えるのは当人の自由だ。それを思うのも。願うのも。

 けれど、それを他人に強制するのは止めて欲しい。こちらは犯人に関する事に、脳の記憶容量を最低限の事以外で消費したくない。


他人を恨むのにも、憎むにも、それらを他者へ訴え続ける事にも、相当量の気力を消費していく。

 別に、許しているわけではない。

 ……ただ、疲れた。

 ……奪われた家族の事は大切な、唯一無二の存在だ。

 ……けれど、家族だからこそ、四六時中思い続けるのは難しい。傍に居るのが当たり前で、いなくなる事なんて無いと漠然と信じていた。


 ——確認し合わなくても、家族である事は変わらない。

 本人が居なくなった今でも、家族だと迷いなく肯定できる。

 そんな相手殺した相手を、ずっと思い続けなければいけないなんて、それはどれほどの苦行なのか、周りの人間は分からないのだろうか。


 ……許すつもりも、怒りも、悲しみも、決して消える事はない。

 ……けれど、自分には生きていく事で精一杯で、他の事に労力を回すほどの余裕はない。

 それとも、被害者家族は平穏に生きていく事を、望む事も許されないというのか。


 結局の所、許せないのは、傍観している事しかできなかった、自分自身なのだから——。


「——十文字さんは、自分自身が許せないのでしょう?」

 揺らめく夕陽の下、病院の屋上で、コタロウはそうカガリに微笑みかけた。

 夜の帳が訪れると報せてくる茜色を合図に、屋上にいた入院患者や付き添いの親族達は、ゆったりとした足取りで帰路についていった。

 彼らと入れ違いになるかのように、カガリが屋上を訪れると、コタロウがフェンス越しに眩しいほどの赤色を見つめていた。

 夕日は人を感傷的にさせる。

 逆光で影を纏うコタロウの背中は、いつもよりも華奢で頼りないものに見える。光に溶けてしまいそうなほど、儚げな雰囲気がカガリの不安を駆り立ててくる。

「益田先生も休憩ですか?」

 夕日に連れ去られないように、咄嗟にカガリは小太郎を呼び止める。ピクリとコタロウの方が僅かに震え、振り返った彼はいつものように口元に微笑みを湛えている。

 ……ああ、そうか。彼にとっては、無表情も微笑みも、大差ないのか。

 そんな事を思いながら、逆光の中に佇むコタロウに続けざまに声を投げかける。受け取るかどうかはコタロウの自由なのだが、彼は素直に受け取り、言葉を返してくれる。

「——ええ。偶然この時間に休憩が取れたので、気分転換をと思いまして」

 穏やかな微笑みは、いつもと変わらない。

 いつもと変わらないからこそ、酷く彼を不安にさせる。

 昔の人は、この時間帯の事を黄昏時と言った。昔は光源に乏しく、日が暮れて、薄暗くなり相手の顔の見分けがつきにくくなり、「貴方は誰ですか?」問いかける。

 「誰そ彼?(たそかれ)」が変化し、「黄昏」と夕暮れ時を指す言葉として呼ばれるようになったという。

 気が付けばコタロウは、何時もカガリが座っているベンチの端に腰かけていた。それにつられてカガリも反対側の端に座り、いつもの流れで缶コーヒーを取り出し、コタロウの眼前に突き出した。

「お嫌いでなければ、どうぞ」

 コタロウはきょとんとして目を瞬かせたが、すぐにいつも通りの微笑みを浮かべて、礼を言って受け取る。それを横目で確認しながら、カガリはポケットからも一本缶コーヒーを取り出し、開封して甘ったるい中身を一気に流し込んだ。

 鮮やかな夕陽が沈み、残り火の薄明を眺めながら、コタロウが唐突に「自分自身が許せないのだろう?」と問いかけてきた。

 虚を突かれはしたが、カガリはぼんやりと、舌の上の甘みとコーヒーの風味を味わいながら、今言われた言葉を転がして飲み込む。

「——多分、そうだと思う。結局の所、無力で無知で、何もできない自分が許せないだけなのだと思う。だから、何かできる人間になりたくて、医者になったのだと思う」

「——私もそうです」

 一緒だとコタロウ無邪気に笑う。朗らかで、健やかな、笑い声。

 それに一抹の不安を覚えながら、カガリは自嘲を浮かべる。その対照的な二人の纏う雰囲気は、うたた寝をしてしまいそうなほど柔らかい。

「……もう、薄々は気が付いているとは思いますが。私もマリ先生の患者の一人なのです。——受診内容も、ほとんど同じだと思います」

 ……ああ、やっぱり。

 何となく、そうだろうなと考えていたので、カガリの反応は薄い。

「……お姉さん?」

「はい。カガリさんは、おそらくは妹さんでしょうか?」

「——ええ。まあ、当時の被害者と照らし合わせて、消去法で行けば、おおよそ察しはつきますからね」

 メイとコタロウの雰囲気が似ていると感じたのは、似通った部分があったからだろうと、カガリはちらりと横目でコタロウを見ると、彼は穏やかな微笑みを浮かべて、カガリを見ていた。

「……益田先生と、天草さんが似ていると感じていました」

 ぽつりとつぶやいたカガリの顔が、コタロウの瞳に映っている。

「……私は、十文字先生と天草さんが似ているのだと思っていました」

 結局の所、彼らは似た者同士だったのだろう。

 似たような経験をして、似たような考え方をしている部分が、それぞれにある。第三者からすれば全然似ていないと思っていても、当事者からすれば何となく共感を感じている。

「……そういえば警察の人に、マリ先生の事で、患者を片っ端に当たってみる、とか言われました」

「私も聞かされています。まあ、流石に人前で露骨に情報を漏らしはしないでしょうが、私と十文字先生の事は知られてはいるでしょうね」

 コタロウは掌の中で揺らしていた缶コーヒーを開封し、少しだけ口の中へと注ぐ。甘ったさと、乳製品の滑らかさと、コーヒーの風味が、同時にコタロウの口の中に広がっていく。

 それがとても優しいものに思えて、コタロウは意味もなく笑ってしまう。

「確かに、これは疲れた体に効きますね」

 目じりを下げて笑うコタロウの顔が、カガリのもやもやとした不安を追いやっていく。

 ……コタロウを慕う患者は、きっとこんな気持ちなんだな。

 コタロウにとって、微笑みは標準装備なのだろう。自らを守り、他人を傷つけないための物。けれど、それが偽物というわけではなく、確かにそれは彼の物であって、それによって他者に癒しを与え、好感を持たれたりもする。

 それは、良いとか悪いなどという問題ではなく、結局の所はコタロウ自身と、それを見た相手の感じ方次第なのだろう。

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