第12話 偽善はいけない事ですか?

 夜の帳が降りた屋上で、カガリは呆然自失といった状態でベンチに座り、空に浮かぶ月を眺めていた。

 一回りほど違う少女の言葉に動揺——心が躍ってしまった事が、カガリにはなかなかの衝撃だった。

 今までもメイのあどけなさと、年相応の可愛らしさに動揺してしまう事はあった。だが、今回に限っては、明確に異性に対する好意による影響だと、自分でも理解してしまった。漫画やゲームなどのキャラクターに対して持つ好意ではなく、現実にいる人間に対しての好意の違いぐらいは、朴念仁であるカガリにも十分に分かる。

 いい年をした大人が、年端の行かない少女に対して、持っていい感情ではない事は確かだった。

 ふと、少し前にマリの言っていた言葉が脳裏をよぎり、先人の言葉は聞いておくものだなと変な感心をしたり、自分はそういう趣味だったのか、疲労による精神的が疲弊が原因だろうかと、あれこれ言い訳という名の理由を考えている間に、時間は容赦なく過ぎ去っていった。

「——悩み事ですか?十文字先生」

 考える事に没頭していたカガリは、突然投げかけられた声にビクッと体を震わせて、誰かが目の前に立っている事にようやく気が付いて顔を上げた。

 そこに居たのは、苦笑している後輩のコジロウだった。

「驚かせてすみません。けれど、他に対処のしようがなくて」

 申し訳なさそうな目じりを下げて、穏やかに微笑みながらコジロウは手に持っていた缶コーヒーをカガリへと差し出した。

 何となくだがその意図を察して、カガリは礼を言って素直に受け取る。コジロウは「いえいえ」と言いながら、少し前まではメイが座っていた場所に座った。

「警備員の方が、たまたま通りかかった私に声をかけてきたんです。屋上を施錠に向かったら、ベンチに十文字先生がいて、なんだか深刻そうで話かけづらいと」

 屋上は最低限の光源は設置されているが、基本的には夜になれば人が入れない様に施錠される。もちろん屋上に人が残っていないか確認をしてからなのだが、警備員が見回っている事に全く気が付かなかった。

「——悪い。休憩時間はとっくに過ぎているのに」

「いえいえ。今日は急患もいませんし、同僚の方々も少しぐらいは大丈夫だと確認をとっていますから。もう少し休んでも大丈夫ですよ」

「——本当に悪い。後、コーヒーありがとう」

 差し出された缶を反射的に受け取ってしまったカガリではあったが、改めて見た手に持っている缶コーヒーが、いつも自分が飲んでいるメーカーのものだと気が付いた。

「いつも飲んでいる銘柄ですよね?」

 缶をまじまじと見ているカガリの様子に、何となくことを察したコジロウが尋ねてきた。

「……ああ、あっている。というか、よく分かったな?」

 不思議そうに缶から自分へと変えられた視線を受けて、コジロウは後ろめたい事など微塵もない笑顔で答えた。

「数年とはいえ、同じ職場にいるんです。何となく分かってくるものだと思いますが……」

 同僚の好みも趣味も朧げにしか知らない職場の先輩は、自分よりも年下の後輩から、それとなく視線をそらした。

「……別に気にする事は無いと思いますよ。元々、私はそういう事に目ざとい方だと思いますから」

 後輩からのフォローが身に染みるカガリは、ばつが悪そうにため息を吐いた。

「いや、確かに俺はあまりそういった事は不得意だと自覚はしているが……。色々と思う所はあるんだよ、これでも……」

 今まで、どれだけの物を視界に入れる事もせずに、茫洋と通り過ぎてしまってきたのだろうと、己の道のりを振り返っていたカガリに、コジロウは諭すように穏やかな微笑みを向ける。

「人間とはそういうモノだと思いますよ。大人になって、子供の頃の事を振り返って、自身の行いを悔いたり、恥ずかしく思ったりは、そう珍しい事ではないです。それは大人になっても変わらない。その時々で、考え方や感じ方は変化する物です。少なくとも、十文字先生はそういう事を気にする余裕が出来た、という事ではないでしょうか?」

 年下からかけられた言葉は、どうしてか分からないが、酷くカガリの心に響く。

「自分の事で精一杯で、他者に気をかける余裕がないのは仕方がない事ですし、誰にでもある事だと思います。他人にそれほど迷惑をかけていないのであれば、それで良いと思いますよ。少なくとも、十文字先生は同僚達に、心配以外はかけていませんでしたから」

 後輩の台詞は諭すように柔らかで、するするとカガリの中へ飲み込まれていく。

「……俺は、そんなにも心配をされるようなことをしていたのか?」

「——ええ、流石に、誰が見ても働きすぎだと思います。医療関係者は割と社畜が多いとは思いますが、十文字先生はその筆頭ですね」

 他人の事だから放っておけばいい、というのは容易いだろうが、実際問題、同じ職場で、名前と顔を知って、言葉を交わして時間を共にした相手を、まったく気にしないというのは無理がある。

 ある程度の接点がある相手に何かがあれば気にするものだ。ましてや、命を救うという職務について、患者と向き合いながら、共に懸命に努力をしてきた相手ならば、なおの事。

 実際に、今のカガリは同僚達に何かがあれば心配もするし、出来る範囲で協力をしたいと思う。

 以前の自分であれば、どう思ったのだろうかと、今のカガリには分からない問いかけへの答えを探しそうになるのを、コジロウの声が遮ってくれる。

「——少なくとも、私は嬉しいと思いますよ。もちろん距離感は人ぞれぞれですが、十文字先生が、私の顔を見て話してくれるようになった事は、とても良い事だと私は思います」

 整った顔立ちの青年が優しそうに微笑むのを眺めながら、カガリはため息を吐く。

「おや、人の顔を見てため息を吐くのは、流石にどうかと思いますよ?」

 大して気にもしていない様子のコジロウは、冗談めかした口調で首を傾げる仕草をする。

「——いや、年下に人生を諭されるのもあれだが……、……増田先生は年齢を誤魔化していませんか?もしくはカウンセラーへの転職を勧めます」

「似たような事を偶に言われます。年を誤魔化していないか?とか、達観しすぎて悟りでも開いているのか、とか」

 童顔で年よりも若く見えるコジロウに対して、カガリと同じような印象を受けたものは多いらしく、似たような返しを度々されているのか、当の本人は肩を竦めて流している。

「——けれど、私には分不相応ですよ。私は他人を導けるほど、立派な人間ではありません」

 自虐めいた言葉に、カガリは思わずコジロウの方を見た。視線を感じたコジロウは俯けていた顔を上げて、カガリに顔を向けた。

 少し遠い光源で夜の闇にぼんやりと浮かび上がり、整った顔立ちをしているからか、凪いだコジロウの瞳はガラス玉のように美しい。

 いつも穏やかな微笑みを称えて、柔らかい物腰で丁寧に接する姿しか見ていないせいか、何の感情も無く静かに見ているコジロウは儚げで、今にも居なくなってしまいそうに思えてしまう。

 その感覚をカガリは以前に、他者に対して感じた事があると思い出した。誰だっただろうかと鈍く思い思考で努力をしていると、コジロウはゆっくりと瞬きをした。

 次の瞬間には、コジロウはいつもと変わらない微笑みを浮かべて、何となく嬉しそうに目を細めた。

「——十文字先生が私の顔を見て話してくれるのを、私は嬉しいと思っています」

 何となく、小学校の教師が低学年の生徒を誉めている映像が、ぼんやりとカガリの脳裏に浮かぶ。

 コジロウの穏やかに諭す物言いは、まさにそれに類する物なのだろう。どこが悪かったか誤りを指摘し、改善点を教え、それが達成されたのであれば素直に褒める。分かりやすく、遠回りでも、時間が掛かったとしても待っていてくれる。けれど本人が自分で過ちに気が付く事と、それ相応の努力を求める。

「……コミュ障が少しでも改善されたのであれば、俺としても嬉しい限りだよ」

 いい年をした大人が、一回りは若い少女に背中を押されて、年下の後輩に褒められるという状況は、正直な所は情けない限りではあるが、それでも自分が人間としてマシになったことは喜ばしい。

「増田先生は、小児科の方が向いているのでは?」

 きょとんとした表情のコジロウは子供っぽいなと、そんな事を思いながらカガリからの言葉に、少し間をおいてコジロウは少し照れたように微笑んだ。

「カウンセラーの次は小児科医ですか?……一応は誉め言葉として受け取っておきますね」

 その様子を眺めながら、カガリは自分は人間関係に恵まれていたのだなと、今更ながらに思った。


 今日の分の仕事を終えたマリは、椅子の柔らかなクッションのついた背凭れに、今日の分の疲労が足された背中を預けた。

 カウンセリングの施術と、書類仕事で長時間座る事になるので、椅子にはそれ相応の費用を掛けて質の良い物を購入している。おかげで、安い椅子に腰かけていた若い頃よりも、はるかに負担は軽減されている。だとしても、ずっと座って書類とにらみ合っていれば、肩と腰にそれなりの負担は掛かる。

 少しでも血流を良くして、肩こりを軽減するために、マリは両腕を上げて背筋をグイっと伸ばす。多少は固まっていた筋肉がほぐれたが、それと共にやってくる軽い眩暈を受け流しながら、マリはぼんやりと仕事机の上に置かれた資料を眺めていた。


 ——とある事件の大まかな概要、それによって精神的損傷を追った患者たちを個別にまとめたファイル。

 犯行場所は、白昼堂々、繁華街の歩道での事。

 犯人は、当時二十代後半の青年。

 犯行理由は、好意を持った女性に覚えていてもらうため。

 青年はある女性に好意を抱いた。犯行現場となった場所で、偶然に出会った女性。

 普通であればナンパだと思われようとも声をかけるか、それとなく知り合いになっるなどの努力はせずに、青年はただ、女性を見つめているだけだった。

 青年の頭の中は女性で満たされた。けれど当の女性は青年の事を知らない。それを青年は不公平だと憤り、自分という存在を女性の記憶に刻み付けるために、犯行へと及んだ。

 方法は、女性の目の前で、たまたま通りかかった通行人を鋭いサバイバルナイフで刺す事。決して女性や彼女の関係者には手を出さない。女性を刺せば彼女は死んでしまう。彼女の親しい者達を刺せば、女性に恨まれてしまう。

 だから、女性の前で、無関係の通行人を襲った。

 実際に、強制的に目撃者になった女性は、未だに事件の記憶に苦しんでいる。犯人の顔も、犯行の瞬間も、陰惨な犯行現場の光景も、全て鮮明に覚えている。

 被害者は八人。死亡者四名。重傷者三名。軽傷者一名。


 犯人は長期間の裁判を経て、最近ようやく死刑が確定した。

 世の中にあちこちある死刑反対の人権派団体たちや、心神喪失による無罪との訴えなどが原因で、最高裁までもつれ込んだ。

 確かに一般的には考えられない犯行理由。犯人の頭がおかしいとしか思えないだろう。

 もちろん当時の世間を騒がせ、連日テレビのニュースや新聞の報道合戦が行われ、その成り行きを国民が見守っていた。

 粗方犯人の個人情報が出尽くすと、今度は被害者やその関係者たちにまで、記者による取材の波が押し寄せる事になった。

 特に、未成年で犠牲になった少女たちの家族は、事件の凄惨さと被害者遺族の悲しみを伝えるには打ってつけだろう。

 対応は様々で、積極的に取材を受けて、犯人の罰を少しでも重くしようとしたり、自分の家族がどれほど素晴らしい人間だったかを広めたり。大切な人を偲びたいからと、取材を頑なに断るものもいた。

 マリは、その被害者家族の精神的な痛みを少しでも軽くするために、何人かのカウンセリングを受け持つことになった。

 患者たちは入れ代わり立ち代わり、受け持つ相手が変わりはしたが、当時からずっと付き合いのある患者は数人いる。

 ——目の前で死にゆく妹に何もできず、己の無力さと罪悪感に苦しむ者。

 ——姉に庇われて、身体的には無傷だったが、その姉を失い、凄惨な現場に精神的な傷を負ってしまった者。

 ——自らも重傷を負い、我が子を失い、心を病んでしまった者。

 ——家族を失った悲しみも癒えぬまま、連日記者に追い掛け回されて、家に引きこもってしまった者。

 沢山の人間の人生に影響を及ぼした事件で、今も事件の日になると献花台が用意され、黙とうが捧げられる。

 結果的に、犯人の目的は達成されてしまっている。

 凄惨な記憶と、世の中に蔓延した情報が、その事件を忘れる事を許しはしないだろう。

 マリ個人でいえば、忘れる事は悪い事ではないと思っている。失われてしまった人間は戻ってこない。例え、どれだけその人間を愛していても、覚えていても、求めていても、彼らが生き返る事はない。

 忘れる事が二度目の死だというし、忘れられることは辛く悲しい事だ。けれど、それらを忘れないという事は、ずっと同じ苦しみの重責を抱えていく事。

 忘れていく事を望まなくとも、忘れてしまう。

 忘れる事を望んでも、忘れる事が出来ない。

 忘れる事を責め、忘れない事を責め。

「——どちらが良い事なのか……」

 取材報道もそうだ。事件に関する事を事細かに知りたい人も、取材を受けて世の中に情報を発信する事を望む人も、逆にすべての情報を断ち切って俗世から離れたいと願う人もいる。

 ——人間は多くの矛盾をはらんで生きている。

 それが正しいか間違っているかなど、本当の所は誰にも分からない。その基準は時代によって移り変わり、常識は国や文化で違ってくる。

 そもそもその善悪すら、人間が作った物なのだから、それが矛盾するのは当たり前の事。

 マリはずっと考えている。事件の事を少しでも忘れさせるのが正しいのか、それを乗り越えるように促すのか、それとも正面から向き合わせて悩ませ続けるのか。

「……もし、神様がいるのであれば、私に答えをくれないかな……」

 マリの訴えは、部屋の中で空気に溶けて消えていった。

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