第11話 傍に居ても良いですか?

 少し肌寒くなってきた空の下、カガリとメイはベンチに座って談笑をしていた。

 カガリはいつものスラックスにワイシャツに白衣。メイは白色のチュニック、赤が鮮やかなチェックのスカート、薄手のコートを羽織り、二人の手にはそれぞれ缶コーヒーと紅茶のペットボトルが収まっている。

 場所は病院の屋上で、憩いの場所として開放されている。この日は天気が良く、風が少し冷たいが、降り注ぐ日光のお陰で心地良い小春日和。その事もあり、ちらほらと患者や見舞客が見受けられ、楽しそうに散歩や談笑をしていた。

「お医者様は昼でも夕方でも、気怠そうな顔をしていますね。もう少し、日に当たって体を休めた方がいいです」

 メイは隣に座るカガリの横顔を見ながら苦笑を浮かべる。同じベンチに座る二人の間には、子供がギリギリ座れるぐらいの距離が空いている。

 その距離がカガリからの気遣いと罪悪感によるものだと、メイは何となくだが察していた。だから、彼女からはそれ以上距離を縮める事はしないと決めていた。

 メイは充分にカガリに近づいたと思っている。後は、カガリが自分の意志でメイとの距離をどうするか決めなければいけない。

「……これでも、マシになったと言われているんだがな」

 苦笑を浮かべたカガリは、手に持っていた缶コーヒーに口を付けながら、フェンス越しの景色に視線を向けている。どこを見るべきか分からず、とりあえずは正面を向いておくことにしたのだが、こういった時に、自身の対人関係の経験値の無さを嘆かずにはいられない。

「確かに、最初に出会った頃より、ずっと顔色が良いですし、——生きている感じがします」

 メイは手の中にある紅茶のペットボトルに視線を落とし、視認する事の出来ない温もりを見つめながら、出会った頃のカガリの表情を脳裏に浮かべる。

 ——それは君の方だろう。

 儚げに微笑むメイの横顔に、思わず出かかったその言葉をカガリは寸前の所で飲み込んだ。それはメイにとっては繊細に扱わなければならない、表面上は塞がったように見える傷跡。表面が皮膚で覆われただけで、まだその下では傷はじくじくと痛んでいる筈の事。

 そんな事をうっかりと忘れてしまっていた自分を、カガリは酷く恥じる。少女が穏やかな顔で笑うものだから、その傷の事を失念してしまった。本来であれば、大人であるカガリが、もっと配慮しなければならない筈だというのに。

「お医者様は、私よりも長く生きて貰わないと困ります」

「……何か、前よりも難易度が上がっていないか?」

 少なくとも、前に話した時はメイが高齢者と呼ばれる年までは——、という内容だった筈だ。歳と男性と女性などの違いからすれば、それはなかなかに難しい。

「難易度を上げたいのであれば、そちらもそれなりの得点を重ねてハードモードをクリアしてからにしてくれ」

「——私、既に人生がハードモードだと思いますが?」

「……頼むから、自虐ネタをサラッと突っ込まないでくれ。反応に困る」

 たまにメイからの返事は、対処に困るものが混ぜ込まれる。油断していると、それが的確に緩んだカガリの尻を叩いてくる。

 彼女なりの叱咤激励であり、思いやりだという事はカガリも理解している。自身の事を疎かにしがちなカガリが、少しでも自分自身の事を気にかけてくれるようにと、メイからのお願いなのだ。

「……そういえば、前に友人と映画を見に行ったとか言っていたな」

 何となく会話の間が空いたので、カガリは前に聞いた話題を振ってみる事にした。不意に投げかけられた話題ではあったが、メイは以前にした会話の事を思い出して、傍に置いていた手提げかばんから本を取り出した。

「以前に話した映画の原作の小説です。泣ける恋愛小説といった内容ですが、それなりに面白いと、私は思いました」

 差し出された本を見て、カガリも脇に置いていた紙袋の中から、メイから借りていたライトノベルを取り出して、差し出されていた本と交換するように返却をした。

「色々とありがとう。正直、小説を読もうと思っても、種類がありすぎて手が出ないんだよ」

 カガリも中学生や高校生の時は、何も考えずに流行りの作品や有名な作家の物を読んでいたのだが、今となっては流行を追うのも、有名作家の増えた作品を読むのも億劫になってしまう。

「私もそれも程詳しいわけではないのですが、一応は注目されている作品は目を通すことにしています。ジャンル自体はあまりこだわりはありませんので。今回は島原さんが誘って下さった際に、丁度その本を読んでいたので、タイミングが良かったです」

 メイから受け取った本を再び紙袋の中へとしまい、カガリは偶に話に出てくる島原という友人の事を、この際なので尋ねてみる事にした。

「島原って子とは、やっぱり趣味があったりするのか?」

 カガリには女の子同士の付き合い方は分からないし、どういった話題で盛り上がるのかはおぼろげに想像する事しかできない。

「ええ。仲よくして頂いています。趣味嗜好は似ているところは多いとは思います。それなりに流行を知っていて、一般常識と良識を持ち合わせていて、気遣いのできる人で、踏み込みすぎない程よい距離間で付き合える方ですね」

「……女子の方が早熟とは言うが、そんな処世術を身につけているとは……」

 中学生で、既にそこまで空気を読んで付き合いをするものなのかと、カガリは素直に驚いてしまう。

「彼女は、同級生よりもしっかりしていると思います。元々、それなりに良い家庭の生徒が多いので、基礎と礼儀はしっかりしていますから。……例外もいますが」

 そもそも日本人は和を尊ぶ国民性をしている。なあなあ、事なかれ主義と言えばそうなのかもしれないが、程度さえ弁えれば争い後は少なくなるし、お互いの話し合いで妥協点を見つけて解決する事が出来る。

 そこまで空気が読めなくても、それとなく分かる情報だけでも、それなりの人間関係は築ける。

 だが、やはり数十人単位のクラスの中には、どうしても上手く付き合えない、苦手だと思う人間はでてきてしまう。

「……悪口を言う様で、あまり良くはないのでしょうが、空気を読めなさすぎるというか、自己中心が過ぎるというか、ポジティブが過ぎるというか……」

 年相応の可愛らしい眉を顰めて、メイはため息を吐いた。

「少し前に編入してきた方なのですが、空気を読めない上に、自分が常識だと思っている節がありまして……」

「……ああ、あれだな。同じ言語を話しているのに、話が通じない相手という事か……。あれだよな。最初から違う言語を話していれば諦めがつくのに、なまじ同じ言語を話して一般的な知識もあるから、話が通じない事がもどかしいやら腹立たしいやらで、こっちが疲れて終わるんだな」

 同じ国、同じ地域、同じような一般家庭で、同じ学校に通っている筈だというのに、どうしてか言葉の意味を理解できない相手がいる。

「まあ、日本人の曖昧な反応や答え方が悪い時もあるんだが、はっきり言葉にしていても通じない相手はいるよな。予定があって頼みを断ると、いじわるだの性格が悪いとか言われる」

 医者をしていると、そういった性格の人間と顔を突き合わせなければならない時は幾らでもある。もとより、医者は勉強ばかりで人間性を育てなかったり、変わった性格をしている者も多い。仕事ができるからと言って、人格者だとは限らない。

「特に医者はいい大学を出て、聖職者みたいに思われている節があるからな。そこに胡坐をかいて相手を見下したり、自分が全ての中心だと思っている人間は結構いるな。そういう相手には、大概話が通じない。自分の意見に反対する相手は、頭がおかしいか常識知らずだと、本気で思っている」

「そう言われてしまうと、医者や教師を目指すのが怖くなってしまいます。なんだか、変人になってしまう気がして……」

 現役の医者を前にして、変人呼ばわりするのもどうかとは思うが、実際問題、カガリは愛想のない変人の分類だと自覚があるので、その辺りは流す事にする。

「個人的な意見にはなりますが、医者も人間で、生活するためにはお金を稼がないといけません。ですから、彼らを神聖視するのも、理想を押し付けるのもどうかと思います。結局の所は、人間のする事でしかない。その事を当人もそれ以外の人達も、肝に銘じなければいけないと思います」

「——肝に銘じておくよ。確かに、結局は人間のする事、というのは心理だな。自分の行動を振り返るのは大切な事だな」

「——ええ。お医者様も人間です。私も人間です。だから、間違いも犯すし、迷う事もある。その辺りの価値観が、島原さんとは合うと感じています。だからこそ、友人になりたいと思いえる方です」

 友人が語りをするメイは無邪気であどけない。実年齢よりも幼く感じられるのは、むしろカガリに安心を与えてくれる。

「私も、変わり者と言えばそうでしょうし、お医者様も人の事は言えないのでは?」

 いたずらっぽい笑みを口に浮かべたメイが、カガリの方に顔を向けて首を傾げる。

「……まあ、人付き合いが良いとは言えないな」

 その問いかけに対して、カガリはばつが悪そうに視線を逸らす。

「私が言うのもなんですが、連携が必要な職業において、人間関係を円滑にすることも、仕事の内ではないかと思います」

 少女の人間関係を心配しておいて、当の大人のカガリが人付き合いが苦手では立つ瀬がない。仕事がらみであれば、必要な相手の顔や名前を覚える事は自然と出来るのだが、それ以外の私用で出会った人間の事は、かなり曖昧にしか覚えていない。住んでいるマンションのお隣さんの顔ですら曖昧だ。偶に部屋の傍であって軽い挨拶を交わす事もあり、引っ越してからそれなりの付き合いになる筈なのだが、本人が話しかけてくれれば分かるのだろうが、人込みの中から見つけろと言われても、見つけられそうにない。

「私、記憶は良いと自負しています。ですから、お医者様の同僚の方はある程度は覚えています。……皆さん、私に気を使ってくれていますし、お医者様の事を心配なさっています」

「……まじか……」

 仕事の必要な事以外は、ほとんど会話した記憶はなかったのだが、最近になって同僚達がカガリの健康を気遣ってくれている事に、ようやく気が付ついた。

「もちろん、一患者である私に、直接そういった事をおっしゃったわけではありませんが、私にはそう見えてしまうのです」

 毎日顔を突き合わせていた筈だというのに、表情をほとんど認識できていなかった。個人の識別以外の意味で、彼らの顔を見ようと思った事がなかった。ここ半年ほどで、周りの同僚たちの性格などをおおよそ把握し、時折意味のない雑談を交わす機会が増えた。

 カガリの中で、彼らが顔見知りから知人、もしくは仕事仲間へと変化していった。同僚という集団ではなく、個の人間として記憶に残るようになった。

「先生方の中で一番お医者様が顔色が悪いし、草臥れていらっしゃいます。出会った頃よりはずっと良くなったとは思いますが、それでもお医者様はどこか無理をなさっているように、私には見えてしまいます」

 痛い所つかれたカガリが恐る恐る視線をメイの方へと向けると、彼女は寂しそうに微笑んでいる。真っ直ぐに伸びた華奢な背に、白く滑らかな肌。しっとりとした艶やかな黒髪から覗く命の宿った瞳に、戸惑った表情をする男が映りこんでいる。

「お医者様が頑張る事で、誰かが助かるのは分かります。けれど、頑張りすぎるお医者様を心配してしまうのは、先生方がお医者様の仲間だからだと思います。休憩時間に他愛のない話をするぐらい、誰も咎めはしないと思いますよ」

 ……一体どちらが患者なのだろう。

 そんな疑問を持ちながらも、カガリは困った表情で苦笑する。

「……俺の事はお医者様。他の奴らは先生なのか?」

 答えに窮したカガリは情けなく思いながらも話をそらし、脳裏によぎった事を尋ねた。それを素直に受け入れたメイは、目を細めて口元に蠱惑的な微笑みを浮かべる。

「皆さん医者だとは知っています。けれど、私にとってのお医者様は、貴方だけです」

 メイにとってのお医者様。それは彼女を救ってくれた相手に対する敬意の証。

 いつの間にか手に持っていたペットボトルは脇に置かれ、二人の空いていた間を僅かな間だけ縮めるために、メイは手をついて乗り出すように体をカガリに近づける。

 美しい少女からの熱烈な言葉が、容赦なくカガリの体温を上昇させて、思考回路をかき乱していく。

 硬直してしまったカガリの様子に、メイは体を元の位置に戻して、いたずらが成功した子供の様に、口元を押さえて楽しそうに笑う。

「ふふふ——、お医者様、流石に対人スキルが弱すぎます」

「……悪かったな。生憎と仕事第一の社畜なんでね」

 再び元通りになった距離の向こうで、少女の鈴を転がすような愛らしい笑い声を聞きながら、カガリは不機嫌そうに残っていたコーヒーの中身を一気に飲み干した。


 遠くから五時を知らせる鐘の音が響いてくるのが聞こえ、少女と医者はつかの間の逢瀬が終わる。

 気が付けば屋上にはカガリとメイしかおらず、薄暗くぼんやりとした景色の中、入り口付近にある街灯が灯り、静かに夜の訪れを知らせている。

「……見送るか?」

 カガリのぶっきらぼうな気遣いを嬉しく思いながらも、メイは首を横に振って、ベンチから立ち上がった。

「——ありがとうございます。でも、お医者様の時間を、これ以上私が使うのは気が引けます」

 その言葉に嘘は無いが、少しでもカガリとの時間を共有したいという欲が、メイの中でちらちらと揺れている。けれど、節制も大切なものだと自分に言い聞かせて、彼の誘いに断りを入れた。

「——そうか、バスを乗り継げばすぐかもしれないが、十分に気を付けるんだぞ。この時期はすぐに真っ暗になるからな」

 暦上はすでに冬を迎えているこの時期は、油断しているとすぐに真っ暗になってしまう。実際に、今はぼんやりと空が明るい程度で、少女が一人で出歩くのは少し不安を覚えてしまう。

 本当は学校の寮まで送り届けるべきなのだろうと、カガリは逡巡をしていた。少女との事は同僚達も知っている。急患がなければ、話をすれば多少は時間の融通をしてくれると思えるぐらいには、彼らの事を信頼している。

「——はい。真っ直ぐに寮へ戻ります。お医者様もお仕事に戻ってください」

 それをメイは良しとせず、固辞する事はカガリにも分かる。そんな問答をするよりも、少女を真っ直ぐに帰路につかせる方が建設的だ。

 立ち上がろうとするカガリの肩にメイは手を置くと、カガリは困った表情をして素直にベンチへと腰を戻した。自分の意見を無理強いせずに、他人の意思を尊重するというのは大切な事だ。

 だが、カガリの場合は、自分自身への信頼の無さに由来する物だと気が付いているため、メイはそんな後ろ向きな事を追い払えるようにと、まじないの意味を込めて彼に微笑みかける。

「これは個人的な感想になるのですが、途中で呼び名を変えるのは、なかなかハードルが高いと思いませんか?」

 別れの挨拶を口にすると思っていたカガリは、その予想を覆す脈絡のない言葉にポカーンとしてしまう。

「だから、私がお医者様を『お医者様』以外で呼ぶ時は、名前が良いと決めているんです」

 少女の遠回しに好意を伝える告白は、無邪気な微笑みと「さようなら」という言葉で締めくくられ、それを理解したカガリはあまりの衝撃に、暫くの間、その場から動く事が出来なかった。

 

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