第10話 悪夢は何色ですか?

 ——今でも妹は血の海に沈んでいる。

 音のない世界の中でも、周りが騒がしいのが分かる。それを不思議に思わないのは、きっとそれが記憶の断片だからだろう。

 見えない壁に囲まれているかように、喧騒を遠くに感じる。モザイク柄の石畳に広がる血の水たまりの中で、静かに眠る妹。お気に入りだと大切に着ていた淡い薄紅色のワンピースは、鮮やかな紅色に染まってしまい、元の色など分からないと知らんぷりをしている。

 石畳の隙間をなぞりながら、伝ってゆっくりと広がる赤い水が、石畳の一枚一枚の形を強調している。色違いの石畳の上を、同じ色だけ踏んで楽しそうに歩く妹の姿が、ぼんやりと浮かび上がっては消え、別の場所に浮かび上がり消えていく。

 徐々に熱が零れ行く妹の傍で、彼はただ茫然と座り込む事しかできない。

 今の彼であれば、きっと刺された傷口を布で押さえる事ぐらいはするし、即座に携帯端末で救急車を呼ぶだろう。

 ……けれど、今でも彼は血の海で眠る妹を、ただ眺めているだけなのだ。

 ——なんて無力なのだろう。

 その後悔は降り続けて、嵩を増して彼の夢を真っ赤な記憶の中へと沈めていく。

 息ができなくなり、苦しさでもがき苦しみ、やがて意識が遠のいていく。

 ——そこでカガリは目を覚ました。


 ギリギリまで水の中で息を止めていたような錯覚を覚えながら、カガリは空気を求めて激しく呼吸を繰り返す。着ていたシャツと半ズボンが汗でぐっしょりと濡れていて、本当に水の中に居た様にすら見える。

 暦ではすでに冬だというのに、と口にはせずに悪態をつく。汗で濡れた布が、カガリの体にべっとりと張り付く事に不快感を覚えながらも、ゆっくりと呼吸を整えていく。

 ベットの上で座り込んだまま、カガリはしばらくの間、何も考える事も無く呼吸を繰り返していた。

 ……自宅で眠るといつもこうなる。

 カガリがあまり自宅に帰りたがらない理由の一つが、悪夢を見て疲弊してしまうから。まったく悪夢を見ないというわけではないのだが、仮眠室で横になった方が、よほど穏やかな眠りにつける。

 自宅は本来は力を抜いて、心も体も癒す事ができる場所である筈だというのに、カガリからすれば眠りに堕ちればほぼ確実に悪夢を見る場所。良い印象が全くない。

 もしかして場所や雰囲気が悪いのかと、何度か引っ越しを繰り返したが状況は変わらなかった。結局はカガリの心の問題で、それこそ幽霊に憑かれたように、彼の心を蝕んでいく。

 他人の気配があればマシになる事に気が付き、出来るだけ仮眠室で睡眠をとるようになった。

 自宅で眠る時は夢など見ないほど、深い眠りにつくために睡眠薬を飲むようにしている。だが、この日は薬のストックが残り少ない事もあり、飲む回数を減らしていたのだが、疲労感も手伝ってベットに倒れこんでそのまま眠ってしまった。

「……病院に行かないと」

 処方箋無しで買える睡眠薬は効き目が薄い。強めの睡眠薬を薬剤師から処方されるためには、病院を受診して処方箋を貰わなければならない。

 ベットで上半身を起こした状態で、そんな事をぼーっと考えていたカガリは唐突に我に返り、寒さを感じて体を震わせた。濡れた服が容赦なくカガリの体温を奪っていた事に気が付き、着替えなければと思うのだが、体を重く感じてしまい、すぐに行動に移れない。

 着替えをするという作業を面倒くさ体内でどんなものを吐き出したいと思いながら、澱んだ物を吐き出したいと思いながら、大きなため息を吐いた。


 その日は、偶然に休暇が取れていた。けれど、休日の外出に興味を持てないカガリには、一日部屋に引きこもって体力回復に努めるか、必要と思う専門書や論文に目を通すための時間だ。

 しかし、その日は珍しく予定が入っていた。カガリとしてはどちらでもいいのだが、長年世話になった相手と、睡眠薬の処方箋のためには致し方がない

 最低限の身だしなみを整えて、シャツの上からジャケットを羽織り、スラックスに足を通す。財布の中身に、十分な現金と保険証やカードの類が入っている事を確認してから、財布を上着の内ポケットにしまい、自宅の部屋の鍵を手に取り部屋を出た。

 マンションの部屋の扉をしっかりと施錠した後、カガリは気怠そうに欠伸をしながらエレベーターのボタンを押した。

 平日の昼の中途半端な時間という事もあり、人とすれ違う事は殆ど無い。わざとそういう時間帯を狙ってはいるのだが、カガリ自身は人が嫌いというわけではない。ただ、昔周りから可哀想という視線を向けられ続けたせいで、人の視線というモノが異様に気になり、複数の視線に長時間晒されると気疲れしてしまう。

 医者であれば基本的には患者と向き合い、看護師と会話する程度だ。緊急外来に詰めていると、沢山の人間がいるのだが、皆が慌ただしく動き回り、目の前の事に手いっぱい。他人の視線など気にする暇など無い。

「……俺はどれぐらいの徳がつめているのか」

 少女の願いのために、彼女が天国とやらに行くことを手伝うのはやぶさかではない。彼女が真面目に考えて、生きていくために必要だというのであれば、カガリは幾らでも手助けをしてやりたいと思っている。

——だが、少女は甘く囁くのだ。

——「一緒に天国へ行きましょう。最後に二人で天国へ行ければ良いのです」

 天使の様な微笑みで、妖精の様に無邪気に、悪魔の様に魅力的に、カガリの手を取り、手を引いて導こうとする。

 本当にあの少女は質が悪い。

 カガリは天国など信じてはいない。仮にあったとしても、自分がそこに行けるほど綺麗な人間だとはどうしても思えない。

 ——酷く身勝手で、我儘だ。

 ——巻き込まないで欲しい。

 ——だというのに、その柔らかく、温かい手を振りほどく事ができない。


「——俺、ロリコンの気があるんでしょうか……?」

「それを私に聞く——?」

 カガリが話している間、口元に微笑みを浮かべて固まっていたマリが、がっくりと肩を落として項垂れる。

「……カウンセラーでしょう」

 カウンセリングにはそういった趣味趣向など、他人の迷惑になりそうなものを改善するために通う事もある。

「……確かに、私はカウンセラーです。けど、長い付き合いの二十代後半の男に、そんな告白をいきなりされた身にもなって……?」

 マリはカガリが高校生の頃からの付き合いだ。進路の相談も受けたし、どんなに忙しくても、こうして定期的に会って話を聞いている。

 ……実は睡眠薬目当てだという事には目を瞑る。

「まあ、一回りも違う少女の事が気になると聞けば、それを疑ってしまうのも仕方がないけれど……。少なくとも、今まではそんな気は無かったでしょう?倒錯的な性癖である可能性は低いと思います。——同い年の彼女がいた時期もありましたよね?」

「……まあ、いましたね。長続きしませんでしたし……。今、思うと、ただ人肌が恋しかっただけの様な気がします」

 ぼんやりと天井を見上げながら、カガリは歴代の彼女を思い出してみたが、顔はぼんやりとしているし、声などは完全に忘却の彼方だ。本人を目の前にしても、とっさに思い出せるかどうか怪しい。

「……偶に思うけど、貴方は私にぶっちゃけすぎると思うの……。いえ、カウンセラー冥利に尽きるんだけどね……」

 信用をしてくれているという証なので、マリとしてはとても嬉しい限りではあるのだが、医者になると決めた時も、両親よりも先にマリに唐突に報告してきたのだ。それとなく医者の事情や大学の事を聞いてきたとか、匂わせるような前振りは一切なく、ある日唐突に宣言された。

 ……おそらくは他人であるマリに宣言する事で、自分への宣誓、戒めとしたのだろうが。

 それでもマリは嬉しかった。患者から向けれる信頼と、カガリが罪悪感に駆られた末の行動だったとはいえ、未来に目を向けて歩き始めてくれたのだから。

 ……いい加減に、その背負った十字架は降ろしていいと思うのだが、降ろしたら降ろしたで、その場で磔にでもなって自分を罰しそうで怖い。

 そんな心中をつゆほども表情には見せずに、少し大げさに分かりやすい反応を見せた。

「まあ、最終的には貴方とメイさんが決める事だもの。——もちろん無理強いや犯罪はご法度だけど」

 マリは苦笑を浮かべて、自分の管轄外だと肩を竦める。

「——あの子は、子供です。ただ、苦しい時に傍に居たのが、たまたま俺だっただけ……。大人になって、広い世界を見れば、……きっともっと良い相手にだって出会える。保育園や幼稚園の時に、担当の先生を好きになるのと大差ない。周りに居なかったタイプの大人だから、美化されているだけです」

 子供に言い聞かせるような模範解答を口にする自分がおかしくて、カガリは自嘲を顔ににじませる。

 そういえば、前にも似たような事をメイ相手にして、彼女に痛い所を突かれたなと、カガリは懐かしさを感じた。

「……大人になるのって、何て言うか常識によって平均化される事を言うのかなって、今ふと思い付いてしまいました」

 唐突な発言だったが、マリは先ほどのカガリの発言を思い出して、確かによく聞く文言だなと思ってしまう。

「——確かにそうかもね。でも、逆に安定して落ち着いたとも言える。……これも良く使われる文言だけど、女の子は男が主よりも成熟が早い。だから、何時までも子供だと侮っていると、痛い目を見るのは貴方だと思う」

 特にメイは早熟だと、マリは悲しくなってしまう。本来であればまだ大人になる過程で、大人や未来に夢を見ていてもいい年頃だ。

 確かに両親を火事で亡くすという悲劇には見舞われたが、幸いメイの周りには面倒見のいい善人が揃っていてくれたおかげもあり、育成環境自体は悪くはない。

「——先の事は誰にも分からないけれど、案外悪くない結果になると思うの。例え、あの子が大人になって、別の世界を見てしまったとしても、きっと貴方にとって、その経験は決して無駄にはならない筈。……まあ、人生の先輩からのアドバイス」

 にやりと意味深に笑うマリに、カガリはきょとんとした表情で目を瞬かせている。いつも気怠そうに表情に乏しいカガリにしては、かなり珍しい反応だ。少し前よりもずっと表情が豊かになったカガリを見る事ができたと、マリは嬉しそうに笑った。


 無事に睡眠薬の処方箋を入手する事ができたカガリは、さっそく薬を手に入れるために薬局へと向かう。

 病院が提携している薬局であれば、処方箋さえあればどの薬局でもいいのだが、普通は一番近い場所を選ぶだろうし、カガリも例外ではない。

 マリが勤め先に一番近い薬局を訪れて、既に顔見知りになった薬剤師に処方箋を渡した。

 院に併設された薬局は横幅はそこまで広くは無いが、奥に長い作りになっている。入ってすぐに受付カウンターと、待合のためのスペースがあり、ソファーや観葉植物やウォーターサーバ―が設置されている。傍には横に長い二段の本棚が置かれており、雑誌や絵本や写真集などが並べられている。

 客が入ると入室音が鳴り、奥の部屋から薬剤師が現れて処方箋を受け取る。それをざっと確認した薬剤師は、客に少し待つように言うと奥の部屋へと戻る。

 カガリはソファーに座り、何をするでもなく宙を眺めてぼーっとする。いつもはせせこましく動き回っているからか、この何もない時間が何となく心地よい。

 幸いほかに客はおらず、大して時間はかからない筈なので、本に手を出すのは止めた。

 一昔前は、医者はとりあえず大量の薬を処方していたが、昨今はそれは良くない事だと規制された。だというのに、やたら薬を欲しがる患者もいるから困りものだ。必要最低限しか薬を処方しようとしない医者をののしり、少ないから薬を寄越せ、昔はもっとくれたと駄々をこねるのだ。

 中には、保険を適用して安く手に入れた薬を売りさばいて、稼いでいた者までいた。

 確かに、薬を貰いに行くのも医者に掛かるのにも、手間と時間と金銭が掛かるから回数を減らしたいのは分かる。けれど、医者側からすれば、法律でそう決められているし、刻一刻と変化する患者に合わせた治療を行うためには必要な事だ。

 素人の患者が自分にはもっと必要だと訴えた所で、それを真に受ける医者はほとんどいない。

 昔はこうだったと愚痴大会をしている老人を時折見かけるが、昔の方がおかしかったのだ。もはや薬中毒と言っても過言ではない事を、恥ずかしげも無くべらべら話しているのを見かけると、昔はどれだけ混沌としていたのだろうと、呆れて頭が痛くなってくる。

 やがて薬剤師に呼ばれたカガリは紙袋を受け取る。手渡される際に薬の簡単な説明、世間話、仕事を頑張ってくれと励まされる。それらに適当に受け答えをして、会計を済ませて店を後にした。

 自動ドアを潜り、外の日差しを浴びて歩きながら、カガリはこの後の予定を考えていた。

 せっかく休日に外に出たのだから、このまま必要な物を買いに近くの大型量販店に寄ろうかと思い、そちらへと足を向ける事にした。

「——十文字さん……?」

 名前を呼ばれたカガリは、反射的にそちらを向く。すると、そこには同僚の増田コジロウがいた。

 カガリの職場の後輩で、物腰が柔らかく礼儀正しい。人当たりも良く、人と接するときはいつも柔和な微笑みを浮かべており、他の同僚や患者たちからも慕われている。

 仕事一辺倒であまり人付き合いをしないカガリにも、他の職場の同僚と同じように礼節を持って接してくれる。

「……増田さん。こんにちは。増田さんも今日は非番ですか?」

「いえ。体調不良で半休を取りました。軽い風邪の様なので、風邪薬を買いに出た帰りです」

「……ああ、何というか、自分の知り合いだらけの病院で、診察を受けるのはちょっと気が引けますよね」

 病院勤めをしているコジロウが、わざわざドラックストアで市販の風邪薬を購入した理由は、カガリの予想が的中していた。

「ふふっ——。ですよね。オレも学生の頃からそうなんです。自分がバイトしている店では出来るだけ買い物をしない様にしていました。店の人が嫌なわけではないんですが、仕事と私生活を出来るだけ分けたかったんですよ」

「ああー。分かります。バイトをするならば住居から近い所が良いけど、そうするとそこで買い物がしづらくなるし、生活圏がかぶるのが嫌で、少し離れた所にある店でバイトをしていました。自意識過剰、と言われるとそうなのかもしれませんが……」

 わざわざ遠い店に数十分自転車を漕いで向かった事を思い出し、カガリはふと、今まさにその状況なのではないかと思いいたってしまった。

 話の内容からコジロウもほぼ同時に、似たような考えに至ったらしく、カガリとコジロウの視線がそれとなく合い、苦笑してから逸らされた。

「……何か、すみません」

「……いえ、これはお互いさま、というモノでしょう」

 軽く頭を下げたコジロウに、カガリも同じように頭を下げて、再び視線が合ってしまう。そこでカガリはコジロウが体調不良で早退している事を思い出して、話を切り上げる事にした。

「ああー……。とりあえずは、お大事に、というべきでしょうか?」

「ふふっ。ええ、十文字さんも、お大事に」

 カガリが話を終わらせようとしているのを察したのか、コジロウは穏やかな微笑みを浮かべる。

 何となく、カガリは寄り道をする気分ではなくなってしまい、大人しく自宅に戻って読書でもするかと、この日の予定を決めた。

 二人は軽い挨拶をして、それぞれ帰路についた。

 

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