第9話 幸せはどんな色だと思いますか?

 その連絡は、カガリの仮眠室で休憩時にきた。

 仮眠のために目を瞑ってベットで横になっていたのだが、眠気は感じるというのに目を瞑るとどうしてかその眠気が引いてしまい、夢の中へと落ちる事が出来ずにいた。

 ……眠りたいのに、眠れない。

 その状況自体はよくある事なので、睡眠は諦めて目を閉じて脳を休めて、体力の回復に詰める事にした。

 ぼんやりと呆けていた所に突然のバイブ音はなかなかの衝撃で、耳に直接音を流されたような錯覚さえしてしまい、吃驚してしまった。

 夢と現の狭間で揺蕩うのを止めて、カガリは目を閉じたまま枕もとの携帯端末を掴んだ。

 カガリに連絡を取りたがる人間は限られており、最近はこの時間帯に電話をかけてくるのは大概一人しかいない。

 カガリは目を閉じたまま、相手を確認する事も無く通話ボタンを押して耳に当てると、やはり予想通りの相手の声が聞こえてきた。

「——こんばんは、お医者様。お時間は宜しいでしょうか?」

 凛とした少女の声が、カガリの意識を一気に覚醒へと導いていく。本来であれば、折角の睡眠時間を邪魔されたことに多少なりとも不満を覚えてしまうのだが、この少女に限ってはそれが殆ど無い。

「……ああ、大丈夫だ。休憩中だからな」

 いつもよりも少し気怠そうな声が出てしまった事に、カガリは少し不安になったのだが、幸いにも対面ではなく機械越しという事もあって、少女には悟られずに済んだ。

「ありがとうございます。……少し、お医者様の声が聞きたくなってしまいました」

 メイは時折、カガリの声が聞きたくなったと電話をかけてくる事がある。基本的には仕事の邪魔をしたくないのか、前以って休みだと聞いていた日か、用事がある日にしかかけてこないようにしている。

「……今日、学校の友人と、映画を見に行ってきました」

 不定の電話の場合は、メイが何らかの不安を覚えたか、よほど嬉しい事があって誰かに伝えたい時などで、子供らしく感情を一人で抱えきれなくなった時が殆どだ。保護者にも定期的に電話をして自分の近況を話しているし、カウンセラーにも定期連絡をしているので、カガリにかけてくる時は私的な事が多い。

「映画、か……。長い事見に行っていないな」

 基本的には休日は部屋に籠って寝てだらだらとしているか、医療関係の論文などを読んだりしているため、あまりメディア関連には詳しくない。

 最近はメイに勧められた本を読む事が増えてきたのだが、それはあくまでメイの好みや気分に依存しているので、流行とはほとんど関係が無い。

「私も久しぶりでした。友人が家族から映画のチケットを譲り受けたので、折角だからと誘ってくれました」

 友人という言葉で、カガリの脳裏に島原という名前が浮かんできた。

 以前に学校生活の話をした際に気が合う寮生と友人になれたと、弾んだ声で報告された事があった。

 その時も嬉しい感情を誰かと共有したくて連絡をしてきたし、その友人の話題の際は基本的には明るい声をしている事が多いのだが、今のメイの声には抑揚が無い。

 メイは悪い感情ほど、自分の中に溜めこもうとする傾向があるとカガリは思っていたし、その辺りはカウンセラーのマリも同意見だった。

「……凄く、楽しかったです。映画も原作の小説を読んでいたので、内容自体は把握していましたが、映画で見るのは小説とはまた違って、その違いも面白かったです」

 消灯時間を迎えてしまえば、病院は一気に静まり返って、廃墟にも似た退廃的な雰囲気と、死に近い故の冷たい空気が漂ってくる。

 長く伸びる廊下は足音を響かせて、時折病室の中から人の気配や声が漏れ聞こえ、それがむしろ不安を煽ってくるのだ。

 仮眠室の中にいるのはカガリ一人。あまり人の気配が得意でないカガリが休息できるようにと、彼が当直の際には、複数ある仮眠室の内の一つをわざわざ空けておいてくれている。

 一昔前まではその事を疑問に思わなかったのだが、最近になってそれが周りにいる同僚達のカガリへの気遣いだと気が付いた。

 今更過ぎて、同僚達には礼を言えずにいるが、そのうち機会があれば礼を言いたいと思い続けている。

 携帯端末越しにメイの声を聞いて内容を把握しながら、頭の中では別の事を考えている事に気が付いて、カガリは自分がやはり睡眠不足だと把握した。

「……何となく、周りの時間が過ぎていくのを感じてしまって……。私はちゃんと周りと同じような速さで歩けているでしょうか……?」

「——……大丈夫だ。多少は、歩き方や通っている道が違うかもしれないが、君は同じ方向に向かって確実に歩いていると、俺は思っている。あくまで、俺一個人の感想だが……」

 今、メイが感じている感覚にはカガリ自身覚えがあった。

 最初の頃は、一日が酷く長く苦痛なものに感じていた。ある程度落ち着いてくると、周りの時間が異様に早く過ぎていくような錯覚を覚えた。

 時間の流れは皆平等な筈だというのに、自分だけが別の時間の中に置いてけぼりにされたような気がして、足早に通り過ぎていく人間達が酷く羨ましく思えた。

 数秒の空白の時間の後、携帯端末の向こうでメイが深呼吸をするのが聞こえてくる。

「……今度、映画の原作小説を貸しますね。大筋の流れは似た作品もありますが、……私個人としては、主人公が臆病なのが人間らしくて、結構好きです」

 急な話題変更ではあったが、メイが自分で心の整理を付けられたのであればそれでいいので、カガリはそちらの話題へと移行する。

「——ああ、楽しみに待っている。俺は優柔不断で、自分で選ぶのは得意ではないから、誰かから勧められた方が楽でいい」

「はい。次の定期健診がもうすぐなので、その日に少しだけ、時間を作って頂けますか?」

「——ああ、分かった。前に借りた本も返す。ライトノベルなんて、久しぶりに読んだよ。……多分、学生の頃に読んだっきりだな」

 メイが退院して寮に入ってからは、月に数回あるメイの定期健診の後に、時間の都合がお互いついた時に数十分ほど会う事にしていた。

 お互いの生活の邪魔にならないように、周りから要らぬ心配や非難されないように、会話をするためというよりは、お互いの顔を見る事で相手の無事を確認し合い、僅かでも同じ時の流れを共有するために。


「前は、俺の方が都合がつかなかったからな。今回は、多分大丈夫だ」

 急患が入ったためそちらを優先しなければならず、カガリはメイに約束を中止する旨だけを伝えて、そのまま仕事に没頭していた。

 患者の容態によってかかる時間がまちまちなため、メイは素直に帰宅をしたのだが、その日の夜にはカガリから謝罪の電話がかかってきた。

 機械越しの会話でも、カガリが疲弊しているのが伝わってきたので、メイは彼を批判する事も拗ねる事もせず、——けれど、すぐに通話を終わらせることも出来なかった。

 カガリの迷惑にはなりたくないと思うのと同じぐらいに、メイはカガリと他愛のない会話をしたかった。

 ——僅かな時間でもいいから、同じ時の中にいる事を感じたかった。

 メイは自分がカガリに甘えているという事が頭で分かっていても、幼い心はそれについていく事が出来ないでいた。

 ……本当に、心というものはままならない。

 いつも通りに、カガリの休憩時間が終わるまでの間、メイはお互いの近況やお勧めの本の話をし続けた。

 カガリとの短い会話を楽しんだ後は、とても充足感に満ちている。たが、同時に罪悪感で息苦しさを覚えてしまう。嬉しい事で胸がいっぱいになると、元々中に存在し続けている負の感情と合わさり、容量オーバーを起こしてしまう。

 けれど、その日は夢を見る事も無く深い眠りに落ちていく事が出来た。

 ……そして、今日も、きっと、ぐっすりと眠れるはず。

 カガリの声を聞きながら、メイはそんな事を考えていた。

「お医者様なのですから、患者さんを優先する事が正しいと私は思います。……それに、ちゃんと埋め合わせに沢山話してくれました」

 物分かりの良い台詞を口にしながらも、メイは出来る事であれば、カガリに会って直接色んな事を話したいと思ってしまうの事を止められない。

「……世の中はままならない事ばかりですね」

 思わず零れてしまったメイの言葉に対して、カガリが苦笑するのが分かった。

「せめて、成人してから世の中の事を語って欲しいんだが」

 成人してから——、その言葉で、メイは不意に漠然とした不安を覚えてしまう。

 ……自分はちゃんと『大人』になれるのだろうか。

 そんなメイの思いを知ってか知らずか、カガリは優しくけれど力強い声で言い聞かせるように、はっきりとした声で言葉を紡ぐ。

「——大丈夫。きっと、俺なんかよりもずっと素敵な『大人』になるさ」


 メイとの通話が終わり、カガリは仰向けに寝たままゆっくりと息を吐き出しながら、先ほど話した前回の出来事を思い出す。

 周りの同僚にそれとなく話し、少しの間仕事から抜けさせてもらおうとしていた最中に、緊急連絡が入ってしまった。

 カガリは迷うことなく患者の受け入れを許可して、すぐさま準備に取り掛かった。その際にメイに中止の連絡を短い文章で伝えると、すぐに短い返事が送られてきた。

 申し訳なく思いながらも、カガリはすぐに余計な思いを振り払い、医者としての顔を作り上げた。

 ——火災による熱傷。一酸化炭素中毒。

 何時かのメイを思い出させるような症状に、カガリの脳裏に一瞬少女の顔が浮かんだが、すぐさま思考の隅に追いやって処置を開始した。

 幸いな事に、近所の住民がすぐに気が付いて通報をしてくれたおかげで、患者は一命をとりとめた。

 目の前にいる患者の家族は別の病院に運ばれたらしく、その場では容態を確認することは出来なかった。後日、意識を取り戻し容態が安定した患者の元には警察が訪れて、火災の件の事情聴取を行われた。

 それとなく同僚達から伝え聞いた話によると、その火災は人為的なもので、ここ一年近く定期的に似たような火災が起きていて、同一犯による犯行ではないかと疑われているらしい。

 ——ここ一年の間に起きた火災という言葉に、カガリの感が警鐘を鳴らしてくる。気が付かないように、必死に別の事を考えようとするが、浮かぶのは嫌な想像ばかり。

 ——もし、メイの家族を奪った火災に、犯人がいるのだとしたら?

 カガリは嫌な想像を自分の意志で止める事が出来ずに、次から次へと考えてしまう。不安、怒り、嘆き、悔恨、負の感情がどんどん湧き出してくる。

 少し前までは自分の事をこなしていくだけで精一杯だった。医療は日進月歩。次から次へと論文が発表されていき、新しい技術、新しい医療機器が生まれている。それらから追いていかれないように、一人でも多くの患者を救うために、ただひたすら進み続けてきた。

 けれど、メイに出会ってから、カガリは自分を客観的に鑑みる様になっていった。メイとの約束をできるだけ守ってやりたいと思い始めると、少なくともそれなりに長生きをしなければいけないと気が付き、せめて一般人程度の健康を維持しなければと思うようになった。

 カガリの知人達はそのことに安堵して喜んでいた。それほどまでに、自分は周りにいらぬ心配や不安を覚えさせてしまっていたのかと、申し訳なく思ってしまった。

 長年に渡りカガリのカウンセリングを担当してくれているマリは、「ようやく、自分と向き合う事が出来るようになった」と、目を細めて物寂しそうに微笑んでいた。

 「他人のふりを見て、我ふりを治せ」という諺があるが、まさにその通りだと、カガリは他人事の様に感心してしまう。

 過去の自分と同じように、自分の行動のせいで大切な家族が失われてしまったと、一人で必死に耐えて震えていたメイを見て、昔の自分と、亡くなってしまった妹の面影を同時に幻視をしてしまった。

「……いい加減に、過去とけりを付けないといけないのかもな……」

 誰かではなく、自分に対して問いかけるカガリの瞼の裏に映った妹とメイの姿が重なって見えた。


 カガリとの通話を終えて、ベットの縁に座っていたメイは一息つくと、じわじわと迫ってくる睡魔に追い立てられながら、もぞもぞと布団の中へと潜り込む。その手には、今しがたまで使用していた携帯端末が宝物のように握られている。電源を落としたばかりの機械は熱を帯び、それがとても暖かくて心強く思えてくる。

 メイは布団に包まりながら、机の上に置かれた飴の入ったガラス瓶に視線をやる。開封した時よりも嵩が少し減り、上の方には空白が出来ている。

 メイにとって、その飴は自分への贈り物だ。自分にとって良い事や、何かを頑張った時に食べる事にしている。

 キラキラと透き通る飴が瓶の中から無くなった分だけ、その空の部分にはメイにとっての良い思い出が入れられている。

 だから、嫌な事があった時や、失敗してしまった時は決して食べない事にしている。その綺麗なガラスの瓶の中には、綺麗な色をした思い出だけを詰めておきたい。

 今朝は、イクと映画を見に行く前に一つ食べた。友人との外出はとても楽しみで、嬉しい事だったから。

 けれど、帰ってからは口にしていない。

 イクとの外出は楽しかった。けれど、それと同時に、世界から自分がおいていかれる様な錯覚を覚えてしまって、胸が苦しくなってしまった。

 せっかくの思い出を良い物で終わらせられなかったのは、ひとえに自分の心の問題で、誘ってくれたイクには申し訳なく思ってしまう。

 けれど、カガリと話した事で、少しだけその胸の中のもやもやとしたものが減ったように感じた。

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