第6話 許す事が出来ますか?
その日、カガリは出勤して早々に同僚——高山ノブチカからの謝罪を受ける事となった。
医局の自分の席に座った途端に、隣の席にいたノブチカに深々と頭を下げられた。
「——この前は失礼な事をしました。ごめんなさい!」
あくまで談笑程度の声量ではあったが、医局にいる者達は大半がこの前のいざこざを知っているため、自然と視線がカガリとノブチカに集中してしまう。
一瞬の間の無音の時間を気にも留めず——というよりは気付かないままに、ノブチカは謝罪を続ける。
「……実はさ、彼女にクリスマスの予定の相談した時に、シフトを代わって貰えなかった事を話し逃れで話したんだけど……」
その時の光景が脳裏をよぎったのか、ノブチカの表情が曇っていく。
「……相手が自分の要求を呑まなかったからといって、相手を非難するのは間違っている。そもそも相手には相手の生活があり、相手が俺の頼みを聞く義務はない。相手は赤の他人で、貴方のために生きているわけではない。——こんこんと説教された……」
がっくりと肩を落とすノブチカを、カガリは無言でまじまじと見てしまう。
カガリの中では、ノブチカは明るく、社交的で、押しが強く、自分に甘く、悪く言えば自己中な人間だと思っていた。
「……見通しの甘い俺が悪い。けれど仕事であれば仕方がないから、別の時間に二人でクリスマスを祝おうという事で、彼女とは落ち着いたけど……」
どうやら存外、ノブチカの彼女は真面目で常識人らしいことに、カガリは少し驚いていた。
ノブチカの彼女の話は、偶に会話の話題の中でちらほら出ていたので、その存在自体はカガリも知っていた。優男な見た目をしているので、何年も同じ女性と交際しているらしい事を意外に思っていた。
ノブチカの性格からすれば、口うるさい相手とは付き合いたがらないだろうし、おそらくはノブチカと似たような性格だろうと、勝手に決めつけて話す事も無く、そのまま放置していた。
「罰として、デート先の牧場の馬に般若心経を聞かせ終わるまで、全然許してくれなくて……」
「——いや、ちょっと待て。さすがに聞き流すには強すぎるだろう。なぜ、馬に般若心経?」
謝罪が始まってから口を挟まずに、黙って聞き手に回っていたカガリだったが、流石に思わず突っ込んでしまった。
話を遮ってしまった事をに苦々しく思っていたカガリをよそに、ノブチカは気分を害した様子もなく、素直にカガリの質問に答えてくれる。
「——ああ、俺の彼女は、彼女基準で許せない事があると、禊というか……、課題?みたいなものを提案してくるんだ」
「……何というか……、罰則の意図が分からないんだが?」
戸惑うカガリをよそに、ノブチカはいつもと変わらない様子で、むしろどことなく嬉しそうに語り始める。
「ああ、あれだよ。『馬の耳にも念仏』とかいう諺があるだろう?馬にありがたい教えを伝えても理解できないから無駄。理解できない者や理解する気が無い者を説得しようとしても無駄、とかいう意味の。まあ、一種の意趣返しみたいなものだよ」
彼女の話をできてうれしいのか、ノブチカの表情は明るく、いつも通りの彼のテンションに戻っていた。
「ちなみに、今までできつかったのは、二階から目薬を入れるチャレンジと、無茶をして怪我をした際に、治療の前に塩を傷口に擦りこまれた事だな」
どちらも諺の中にあり、思い通りにいかずにもどかしいという意味の『二階から目薬』。『傷口に塩を塗る』というのは、単純に傷ついている相手に追い打ちをかける事。もしくは、良くない状況の時にさらに悪い事が起きる、などの意味がある。
「昔にさ、どうしても上手くいかない事があって、その時に周りに当たり散らしたり、物を壊したことがあったんだ。その時に、彼女にすっごく叱られたことがあって。二階から目薬を入れられるまで口を聞いてくれなかった……」
沈痛な面持ちのノブチカに対して、カガリの方は冗談として笑うべきか同情するべきか、非常に反応に困っていた。
「時間が経ってさ、自分が悪かったと思って、彼女に謝りに行ったんだけど、家の二階のベランダから目薬を無言でたらしてきたんだ。……ぶっちゃっけ、最初は意味が分からなかった」
だろうな、と心の中で同意しながら、カガリはとりあえず苦笑するしか反応が思いつかなかった。
「そうしたら、端末にメッセージが送られてきて、『目薬を目で受け止められたら許す』て書いてあって。『ちなみに、嘘の申告をした場合は、ただで済むと思わないでください』。——むしろ目を見開きすぎて、目が乾燥してすごく痛かった」
正直に言えば、相当面倒くさい相手だというのに、彼女の事を話すノブチカはとても幸せそうに微笑んでいる。
——ああ、よほど大切な相手なのか。
そんな彼の様子が、カガリには微笑ましく思うのと同時に、酷く羨ましかった。
——考え方ひとつで、見える世界は変わってくる。
そんな事を昔誰かに言われたなと、カガリはぼんやりと思い出しながら、すっかり日が落ちた暗い空に浮かぶ月を見上げていた。
カガリは元より人付き合いが良い方ではなかったが、昔はもう少しましではあった。昔からの友人も数人は居たし、学校で新たに友人を数人ばかりだが増やすこともあった。
今では年始年末の挨拶と、お中元やお歳暮、偶に携帯端末でのメッセージのやり取りをする程度で、休日にどこかへ遊びに行くことはほとんどなくなった。
妹が殺された後、暫くの間クラスメイトは気遣ってくれたし、友人達もカガリの様子を窺いながらも、元通りの日常生活へと誘おうとしてくれていた。
そんな周りの気遣いにカガリは気が付いていたし、彼らの気持ちをくんで少しずつだが元通りに振舞うようにした。
けれど、結局は、ただ周りの望みに合わせて、過去の自分を思い出しながらなぞって行動していただけにすぎず、どこか舞台で役を演じているような、他人事のような錯覚すら覚えた。
頭のネジが数本足りないという言葉があるが、おそらくはカガリのネジは事件の際にごっそりと失われてしまったのだろうと、やはりどこか他人事だった。
苦しいのも、痛いのも確かに自分自身だというのに、それを肉体的には辛い事だと分かっているのに、心は酷く凪いでいた。
——苦しいに、苦しくない。
——痛いのに、痛くない。
——悲しいのに、悲しくない。
体と心がちぐはぐで、矛盾だらけで、何が正解で間違いなのか分からなくなっていた。
ある時、唐突に、きっかけは分からないが、もし、自分があの時に何かできていたらという思いが形を作っていった。その日から、カガリは何かをできる人間になるために、医者を志すことにした。
別に誰かを救いたいわけでも、誰かに感謝されたいわけでもなく、ただそうしてみようと思い至った。
……今にして思えば、何もしないで生きている自分の事が許せなかったのだろうと、他人事の様に思い返していた。
普通に人間は、生きていく事に理由など求めはしない。産まれてきて、育ち、生きてきたのだから、生きている限り続けるだけ。
けれど、カガリにはそれが出来なくなった。自分が生きていていく理由が、生きていていい理由が明確に欲しかった。
——「最後に二人で天国に行ければいいんです」と、ふと、メイの言葉が脳裏をよぎる。
……最後、が人生の終わりを意味するのであれば、確実にカガリの方が先に死ぬことになる。天寿を全うするという、正しい順番を守ればの話にはなるが。
メイにその言葉を言われてから、ずっと自分の人生の終着点を考えるようになった。
今まではただ歩き続ける事だけを考えていた。目的地など無く、ただ足を止める事なく歩き続ける事が、カガリにとって一番重要な事だった。
だからがむしゃらに勉強をして医者になり、ただ目の前にある事だけ集中をして、ただひたすらに他人を患者を治療してきた。
患者を全員救えたわけではなく、どうしても助からない患者は出てくる。それでも、出来る限りの治療を施し続けた。それが自分の責務だと思ったからだ。
カガリは手に持っていた缶コーヒーの残りを飲み干す。少し顔を上げて、口の中に甘さと風味が広がるのを感じながら、空に浮かぶ月を見つめる。
——ある所に、ウサギとサルとキツネがいた。その三匹の前に弱った老人が現れて、食べ物を求めた。
サルは木の実を、キツネは魚を獲ってきたのだが、ウサギは頑張っても老人が食べられる物を手に入れられなかった。
悩んだ末に、ウサギは自分を食べるように言って火に飛び込んだ。
実は老人は神様で、三匹の行いを試そうとしていた。神様はそんなウサギを憐れんで、月の中に蘇らせて、皆のお手本とした。
その神様は仏教の中の帝釈天と呼ばれていて、月にウサギがいるという話は仏教由来のものだ。
この話を聞いた時、正直に言えばカガリには意味が分からなかった。
自分を犠牲にして他人を救うという行為を現しているのだろうが、先ほどまで会話していた相手が火に飛び込むのを止めなかった事も、火に飛び込んだウサギをすぐに助けなかった事も、何より自分を食べさせようとしたウサギが理解できなかった。
少なくともサルとキツネが食料を獲ってきてくれたのだから、ウサギは自分が出来る事——例えば清潔な水を汲んでくることも出来た。実際問題、人間は水を飲まなければ数日ともたないし、食べ物を食べるにしても、水があった方が呑み込みやすい筈だ。
世界観は分からないが、動物が人間と同じような知性を持って生活しているのであれば、命が等価値だったはずだ。
命を一つ犠牲にしてまで、それをする必要があったのだろうか?むしろ仲間を失って、傷つくかもしれないサルとキツネの事は考えなかったのだろうか?それは所謂自己満足、親切の押し付けとしか思えなかった。
大人となったカガリが思うに、——ウサギは元より生きる事に疲れてていて、誰かのために自身を犠牲にするという、死ぬための大義名分を求めていたのではないかと、そんな事を考えてしまう。
「……結局、神様はウサギの献身に応えて、焼けたウサギを食べたのか……?蘇らせたというのであれば、ウサギの願いを聞き入れずに、自らの持つ善性に基づいて行動したのか……」
——ウサギの献身は、正しいものだったのだろうか?
……自分の事も、周りの事も顧みることなく、自分の思う正しい事をし続ける。自分のしている行為は、本当に正しい事なのだろうか?
月のウサギの話を読んだ頃の自分が今の自分を見て、どういう感想を抱くのだろう?
カガリは独り、真っ暗な世界に浮かぶ月を見上げていた。
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