第4話 夢を見ますか?

「……最近は、家族で過ごす夢を見るんです」

 メイは目の前に座るカウンセラーの女性、細川マリに抑揚のない声で言った。

 懐かしさと嬉しさと寂しさと、世の中の不条理に対して、それらの感情が入り混じり、少女の心を圧迫している。そのせいで感情が押し込められ、少女から人間らしさが感じられなくなっている。

 よくできた精巧な人形の様に、ガラス玉のように無機質な瞳には、カウンセラーも景色の一つとしてしか映っていない。少女からすれば、ほとんど独り言と変わらない。

 けれど、そうやって溜まっている感情を吐き出させて、自分の心に向き合わせるのが目的なため、マリは時折相槌を打ちながら話を聞いていた。

 どう対応するにしろ、結局の所は少女自身がどうにかするしかない。

 カウンセリングを始めた頃は、火事の夢ばかり見て眠るのが恐ろしいと話していた。それに比べれば随分と落ち着いてきたのだと、マリはほっと胸を撫で下ろした。

「昔の思い出であったり、何気ない日常の時間だったりするんですが、夢の中の私は、両親が目の前にいる事に疑問を持っているんです」

「……疑問?」

「はい。何でお父さんとお母さんは、目の前にいるんだろう?って、理由は思いつかないのに、漠然とそう思っている」

 目の前の光景が幻なのだと、頭の隅に残っているせいか、メイはその幸せな夢に浸る事が出来ずにいた。

 普通の人が当たり前に持っている日常の光景が、メイにとっては非日常でしかなく、夢の中ですら、それに疑問を抱いてしまう。

「……ふと目が覚めて、寮の天井を見た瞬間に、ああ、あれは夢だったんだと、ぼんやりと思うんです」

 感情のないメイの姿は、酷く歪で、——そして美しい、とそんな感想を持ったマリは心の中でため息を吐く。

 完成された物を美しいと思うのと同時に、酷く歪でギリギリのバランスで維持されている物も美しい、と思うのは自分だけだろうかと、マリは自問自答をしてみたが、彼女の心は晴れない。

「……それに、夢の中で、両親は確かに口を動かして、しゃべっている筈だというのに、……声が、分からないんです。……こう、……文章の吹き出しを見ているような、話の内容は分かるのに、会話をしている筈なのに、どう話しているのかが分からない」

 メイは顔を俯けて、テーブルの上に置かれたカップの中、お茶の凪いだ水面を見つめる。水面に映る自分の顔を仮面の様だと、ぼんやりと思う。

「——一般的に、人は声から忘れていくと言われているの。だから、声が思い出せないこと自体は、おかしい事ではないから」

 決して忘れていく事が薄情なわけでも、おかしいわけでもなくて、それは当たり前の自然現象なのだとマリは少女に伝える。彼女が両親の不幸は自分の不信心のせいではないかと、悩んでいる事を知っているためだ。

「——他に、気になる事は無い?」

 しばらく無言が続いたため、重苦しい話はこれぐらいにした方がいいと思い、マリはそれとなく話題をふってみると、メイは顔を上げて、少し恥ずかしそうに視線を向けてくる。

「……たまに、お医者様の夢を見ます。大概は屋上で話している夢ですが……」

 さっきとは打って変わって、年頃の少女らしいあどけない表情を、マリは微笑ましく思う。序でに言えば、そのお医者様とやらに心当たりがあった。

「ああ、……もしかして、十文字君?」

 その質問に少女はおずおずと頷く。能面の様に無表情だった顔に、温もりと血の色が戻っていく。

「この前、ハロウィンの次の日に、お菓子が届いたんです。綺麗な細工のガラス瓶に入った飴なんです。メッセージカードには、トリートと書いてありました。凄く果物の風味と味がして、とても美味しいので、食べきってしまわないように、少しずつ気を付けて味わっています」

 とても嬉しそうに微笑みながら話すメイの姿に、マリはきっと飴を食べている時もこんな顔をしているんだろうと、その光景が簡単に想像できた。

 まるで人形に命が宿る瞬間を見ているようで、マリは何となく感動の様な物を覚えた。

 少しずつだが、過去と向き合い、それを昇華して、折り合いをつけて、ゆっくりと顔を上げて歩き出した少女の心の強さに、マリは心の中で称賛を送った。


「——あの子の様子はどうですか?」

 開口一番に言い放った台詞に、カウンセラーの女性は大仰なため息を吐いた。

「今は、貴方が患者の筈だけれど?」

 最近はこのやり取りをするのが定番になってきていて、自身が彼女の患者の一人である事をおざなりにしている。それはそれで頭が痛かったり、ようやく他者に興味を持ち始めた事を喜ばしく思ったりと忙しい。

「——分かってはいると思うけど、患者のプライバシーを守るのは医者の務めです。……少なくとも、悪夢にうなされる回数は少しずつ減っているとだけ」

 約十年も付き合いがある患者には、多少は思い入れがあり、多少は甘くなるのは仕方が無いと、マリは自身に言い訳をする。

 そんな彼女の悩みなど気づきもせずに、カガリの口角が僅かに上がり、目つきが少し柔らかくなる。

 下手をすれば自分と同年代にも思えるほど、草臥れて疲れてきっていたカガリが、最近は年相応の活力を取り戻しつつある。

 ……それも、あの子のお陰か。

 精神科医として、カウンセラーとして、カガリに関わってきたというのに、マリに出来たのは、ただ彼が生きていけるように誘導する事だけだった。ほとんど自傷行為に近く、長く険しい巡礼の旅に送り出したようなものだと分かっていても、それで彼が生きて歩いてくれるのならと、彼女はその苦行へと背中を押した。

 地図も導も持たずに、ただひたすらに足を動かして道を歩いていただけの、彼の巡礼の旅の到達点が、遠く朧げにだが見えてきたのかもしれない。その事が、マリにとってはとても重要な事だった。

「——貴方はどう?少しは、顔色が良くなったみたいだけど、相変わらずの社畜生活なの?」

 カガリの上司とはそれなりに付き合いがあるため、彼の仕事ぶりはそれとなく伝わってくる。

「……ぼちぼちです。最近は年のせいか、無理が体に響くので、少しだけ抑えるようにしています」

「それは嫌味なのかしら。二十代後半の貴方がそうだと、三十代半ばの私はどうなるのかしら?」

「……細川先生は、いつも若くてお美しいと思いますよ」

 カガリにしてみれば精一杯のお世辞に、マリは呆れてため息を吐いた。これで年頃の少女と、上手く人間関係を構築出来ているのか、女性として疑わしく思う。

「——まあ、いいわ。……ところで、貴方はもう知っている事だとは思うけど……」

 マリは言葉を選びながら、今日の本題へと話を切り替えていく。カガリも薄々は察していたのか、ほとんど表情を変えることなく、静かに頷く。

「——『あいつ』の刑が、ようやく確定したという話ですよね」

 感情が失われた能面の様な顔を見ながら、マリは小さく頷く。

「事件の際の犯人の精神状態、心神耗弱だったかどうか、責任能力はあったかどうか……、長い時間が掛かったけど、ようやく刑が確定した」

 その話題は、カガリの心を瞬時に凍らすのには十分だった。自分の事だというのに、意識がぼんやりとしていて、遠い出来事を画面越しに見ているかのような錯覚すら覚える。

 激情のままに怒り、嘆き、喜んだりする事も無く、他人事のように淡々と話すカガリは、とある少女を思い起こさせる。

 古傷はじくじくと痛み、長い年をかけて完治することなく、彼の心を苛んでいる。

 露骨に病むよりは、社会生活を送れているだけましなのだろうが、これはこれで問題だろう。

 ——むしろ、少女よりも厄介かもしれない。

 その事は口に出さずに、マリはカガリの空虚な濁った瞳を見つめる事しかできなかった。


「——個人的な意見だけれど、やばい人間を大雑把に分類すると、四通りに分かれると思っているの」

 重苦しい話題を続けるのも疲れるため、マリはそれとなく別の話題へと変えていく。カガリもそれに気が付き、大人しくその話を拝聴する事にする。

「——まずは、産まれた時からやばい人間。これは、遺伝子的な物であったり、才能や性格であったり、——兎に角、生まれついてのやばい人間。サイコパスの一種みたいなもの。サイコパスな人間が、全てやらかす訳ではないから、あくまでやらかしてしまう人間」

 何故、あんなに良い両親から、こんな人間が生まれたのか謎と言われるような人間性。生まれついての資質。

「まあ、どんなに豊かで安定していて、教育が行き届いた社会でも、一定数は頭がおかしい人間はいますから」

 日本は世界の中でも有数の技術大国で、義務教育のお陰で一定水準の学力、倫理観、常識などが国民に行き届いている。そのおかげで、間違いなく平和な国と呼べるものとなっている。

 それでもなお、犯罪は無くならないし、理解できない倫理観の欠けた犯罪者は出てくる。

「——次は、育った環境によって生まれるやばい人間。これは生まれた土地や文化や家庭環境によるもの。やっぱりこれも、倫理観や常識によるものだとは思う。日本では普通だけれど、他の国は危険行為で無謀な行為だったりもする」

 たまに言われている事だが、ハワイは日本人が多くて、言葉などには困らないため勘違いするものが、あそこはアメリカで、銃大国の一部なのだ。

 オリンピックを発展途上国で行った際は、その違いに皆が驚く事となった。

 貴金属を持ち歩けば強盗に遭うし、ホテルに荷物を置いておけば、従業員に盗まれる可能性がある。携帯端末の価値が人の命よりも高いのかと。

「日本人がどんな時でも、並んで列を作り、順番を待つのは当たり前ですが、外国の人達からすれば、驚く事らしいですから。災害の時ですらそれを守る事に感動されていましたね」

「まあ、あっちでは、災害やデモや事件のたびに、略奪行為が普通に起きるそうだから」

 日本は調和や安定が大切にされている。それを乱す行為は、その群れからはじき出されるかもしれない。そうすれば生活に支障が出てくる。

 どの国よりも、一人では生きていくのが難しい国なのかもしれないと、カガリは思う。

「——病んでやばくなった人間。これは、育ちも多少は関係があるとは思うけど、ある日突然病気にかかって、頭のおかしい人間になる。所謂、脳や精神疾患などの類。周りからすればおかしいけれど、本人はその事に気が付かない。幻覚や幻聴は当人にしか分からないわけだから」

 精神疾患の判断はかなり難しい。それが本当か噓なのか、見抜く手段が医者の知識と勘だより。とりあえず、投薬と入院しかない。

 元より精神も心も形など無いし、千差万別で個人差がありすぎる。肉体的な病気よりも、発見も治療も難しい。

「——で、最後が、やばい普通の人間。これが一番多いと思う」

 最後に述べられた曖昧で大雑把なくくりに、カガリは思わず苦笑してしまう。

「——いっておくけど、普通に一番多くて、身近で、厄介。あれよ、言葉は話せるのに、話が通じない」

「話を聞かない、ではなく?」

 たまに患者にも、医者の話を聞かない人間がいる。こちらが治療法を話しても、専門家でもないというのに何故か納得しない。薬を寄越せと騒ぎ立てる。自分の都合の悪い事は聞き流すので、言った言わないでの騒ぎになったりして、大変厄介だ。

「それも面倒だけど、いくら懇切丁寧に話しても、理解できない人っているでしょう?普通にばれる嘘を吐くし、目先の事ばかり考えて、先の事を全然見えていなかったりして、他人を巻き込んで大事に発展させる。……こういう人間って、普通に社会に紛れているから、一番怖い」

「……ああ、確かに。状況によって、おかしくなる人って、一定数いますね。何かのスイッチでも入ったみたいに、唐突におかしくなる」

 条件は様々で、集団——グループになると、途端に強気になって無理を通そうとする者。自分よりも何か劣っている事を知って、マウントを取ろうとして格下認定をしてくる者。

 カガリは不意に先日の同僚の横柄な態度を思い出して、疲労を吐き出すように大きなため息を吐いた。

「特に日本人は和を重んじて、早々に事を収めようとして、聞き分けの良い方——常識人の方に我慢をさせようとしてしまう。数の多い方、声が多き方へと傾きがちだから」

「……頭のおかしな人には、関わり合いになりたくないですからね」

 用意されていたハーブティーを静かに啜るカガリの様子を、マリは気づかれぬ様にちらりと一瞥する。

 ハーブの香りを楽しむ余裕が出てきたのか、カガリの顔の血色は良く、年相応の活力を取り戻しつつあるが、少し前までは何時も隈を作って顔色も悪かった。マリが何度注意しても、素通りして手ごたえもなく、ふらふらとしていて不安定だった。

 ……貴方は病んでおかしくなったのか、普通におかしかったのか。

 そんな問いかけを口に出さずに、そのまま自分の内へと飲み込む。

 カガリはかつて自らの妹を、身勝手な理由で刺し殺した犯人の動向を追ってはいる様だが、必要最低限であまり興味が見受けられない。

 被害者家族の中には、未だに悲しみに暮れて、嘆きのままに犯人に対する厳罰を望んで行動する者達もいる。

 マリ自身も、カガリの他の被害者家族のカウンセリングを継続的に行い、他人事ながら犯人には悪感情の方が強い。だというのに、どちらかと言えば当事者であるカガリは、心底犯人には興味が無いといった風だ。

 もちろん犯人が裁かれる事は望んでいるだろうが、積極的に関わろうとはしていない。

……彼の感情は、一体どこへと向けられているのか。

 ——カガリがカウンセリングを受け始めた頃、妹が血まみれで地面に倒れている光景ばかり夢に見る、と聞かされた事があった。

 ほとんど独り言に近く、それは相談でも訴えでもない。ただ、心理的なストレスで寝不足になり、判断力が鈍った結果、ポロリと零した言葉だった。

 最後にその夢の話をした際、妹の悲鳴が聞こえるのだと言っていた。

 少女に話した通りに、人は声から忘れていく。それは自然な事で、薄情なわけではなく、ただ、鮮明な記憶が、時を経て思い出となり、本人の中で昇華された結果なのだと、マリは思っている。

 その話を聞いたのは、去年の今頃の話だった。

 少女は約半年ほどで、それをマリに相談してきた。

 十年以上たっても、未だに妹の声を忘れないカガリは、果たしてまともなのだろうか。

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