第10話 鈴音(リンネ)①

 テンは目の前の少女がとった奇異な行動に首を傾げる。しかし彼は尻を向けている少女に近付いていった。


(来たっ! 昨日のようにはいかないんだから!)


 少女はタイミングを計っている。一歩。二歩。テンが自分の尻に向かって近付いて来る。


(今よ!)


「たあっ!」


 少女は気合の掛け声と共に後方に向けて蹴りを放った。テンの横っ面にドンピシャで決まるかと思われた後ろ回し蹴り。

 だが、少女の脚はテンの右手によって遮られていた。


「へえ……中々鋭いケリだな。お前、何かやってんのか?」


 少女の足首を掴んだままのテンが少女に問う。ショートパンツからスラリと伸びた脚は筋肉質で、それなりに鍛えているように見受けられる。そこから放たれた蹴りの威力は、護身術レベルであれば十分合格点を叩き出せるものだった。


「……くっ。別に何もやってないよ。父ちゃんと一緒に山へ狩りに行くくらいさ」


 乾坤一擲の蹴りをあっさりとテンに止められ、少女は憎々し気にテンを睨みつけながら言った。

 しかしテンは、その鋭い視線を平然と受け止める。


「ふむ……」

「あ……」


 少女はヤバい! そう思った。テンは視線の意味を勝手に解釈して、とんでもない行動に出る事を昨日身をもって思い知らされている。何しろ昨日は尻を触られているのだ。しかも、撫でるとか揉むといった生易しいものではない。『ギュムッ』という擬音が聞こえそうなほどに鷲掴みにされたのだから。

 そして今、少女は足首を掴まれ片足立ちの状態。まともな抵抗など出来よう訳もない。


「うぅ……」


 こうなってしまっては、少女は自分に逆転の目は無い事を理解する。吊り気味の眉尻は下がり、勝気な瞳は途端に弱々しくなる。

 テンはそんな少女の事など知らぬとばかりに、足首を掴んだ右手で、ひょい、と空中に放り投げた。

 確かに筋肉質で引き締まった身体をしているテンだが、発育途上の少女とは言え、人間一人を軽々と片手で放り投げるとは恐るべき膂力である。


「え? え? きゃああああっ!」


 いきなり宙に放り投げられ、重力に逆らえずに落下するだけしかできない少女は堪らず悲鳴をあげた。むしろ、それしか出来なかったと言うべきか。

 少女は落下の衝撃に備えて身を固くする。


 ――ぽふ


「へ?」


 少女は思わず間抜けな声をあげてしまった。なぜなら、予想していた衝撃が襲ってこなかったのだから。


「え? え? なんで?」

「だってよ、野生のボクッ娘がお姫様抱っこされたそうな目でこっち見てたか――」

「見てないからッ!!」


 そう、少女はお姫様抱っこの体勢で、しっかりテンにキャッチされていた。ちなみに彼女の両腕はしっかりとテンの首に巻きついていたりする。


「……で、なんでお前はそうやって絡んで来るんだよ?」


 抱き抱えられたまま、頬を染めている少女に向かい、テンは問い質した。


「……お前じゃない。ボクには鈴音リンネっていう名前があるんだ!」


 しかし少女はテンの問いに答えるよりも、お前呼ばわりが気に入らなかったようだ。ここでテンはゆっくりと少女を地面に降ろしてやった。

 自分の首に回された少女の腕が、僅かだが離れる事を躊躇した事などテンが気付く訳もなく、再びテンは少女に聞く。


「輪廻?」

「あ! 今絶対生まれ変わる方を想像したでしょ! 違うの。鈴の音と書いてリンネ!」

「そうか、分かったよボクッ娘」


 お姫様抱っこから解放された少女はリンネと名乗った。まあ、名乗ったところでテンのほうが受け入れるかどうかはまた別の話だが。

 結局、自分の呼び名が『ボクッ娘』で登録されてしまった事を嘆きつつも、リンネはテンに絡む理由をポツリポツリと話し始めた。


「父ちゃんが山に狩りに行って、もう五日も戻って来ないんだ。父ちゃんも腕のいい猟師だけど、一緒に行ったおっちゃんもいい猟師だった」


 リンネが言うには、腕利きの猟師が二人で山に入り、五日も戻って来ないのはおかしい。絶対に何かトラブルに巻き込まれたに違いない。

 そう思ったリンネは、父親を追い山に入ろうかと思ったのだが、父と共に山に入り猟の手伝いをする事も多かった彼女は、自分一人で山へ行く事の愚かさを理解していた。慣れ親しんだ山と言えども、決して甘く見てはならないのである。


「けど、誰も一緒に行ってくれる人がいないんだ。腕利きだった父ちゃん達が戻らないんじゃ誰が行ってもミイラ取りがミイラになるって……」

「そうか。でもなんでお前は尻を掴まれたそうな目で俺を見てたんだ?」

「見てないってば! ほんっとにやりにくいわね、この男はっ!」


 ボケているのか本気なのか、掴みどころのないテンの反応に眉間を押さえつつも、リンネは苦しい胸の内を吐露した。

 同行者を探すも、誰も首を縦に振ってくれずに途方に暮れていた所でテンを見掛けた事。いかにも腕が立ちそうなテンに護衛を頼んでみようと思って見ていたら、目が合った途端に尻を掴まれた事。リベンジしようとしてお姫様抱っこされた事。


「何だと!? じゃあボクッ娘はお姫様抱っこして欲しかったんじゃねえのか!?」

「……はぁ」


 どうやら本気で勘違いしていたらしいテンの反応に、リンネはため息しか出ない。

 その時、一羽のカラスがテン達のところへと舞い降りて来た。


「キャッ」


 リンネはバサバサと翼をはためかせながら降りてくるカラスに驚き、思わずテンにしがみついてしまう。しかしテンは左の掌を空に掲げた。


(コイツは西に放ったヤツだな)


 どうやらテンは、自らが放ったカラスの個体差を識別出来ているらしい。もっとも、カラスの姿をしているとは言え本来は『式』だ。テンによって何かしらの仕込みはされているのだろう。

 テンの左手目掛けて舞い降りてくるカラスは、テンの掌直前で鳥の形をした紙きれへと姿を変える。


「……え? ちょっ、何ソレ?」

「……便利なんだよ」


 カラスが紙きれへと変化した事に対する驚きもそうだが、その紙きれがテンの左手に吸い込まれるように消えてしまったのを見た事がリンネの思考を混乱させた。


「いや、便利ってさ、アンタそれ絶対普通じゃな――」

「便利なんだから問題ねえだろ。それよりも、お前の親父さんが入った山ってのはどっちだ?」


 この時点でテンは予め放っておいたカラスの目から見た情報を得ていた。


「えっと、ここから西に行った所にある山だよ。ほら、あそこに見えるだろ?」


 リンネの話を途中で遮ったテンの質問に、彼女は少しだけ不貞腐れた顔で答えた。そしてリンネが指さした先には、標高にして三百メートルに届くかどうかといった山が見える。慣れたベテランの猟師が遭難したとは考えにくい規模の山だ。


(確かにコイツの言う通り、トラブルに巻き込まれたって訳か。しかし、こんな人里の近くにまで縄張りを広げてやがるのか……)


 リンネが指し示した山を見て、暫し思案に沈むテン。そしてリンネに向き直る。その視線はリンネが一瞬恐怖するほど鋭いものだった。


「俺が山に行こう。親父さんの特徴は何かあるか?」


 その言葉に、リンネの瞳に光が灯った。


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