第7話 七枝(ナナシ)エピローグ

 テンはとある建物の前で立ち止まった。

 古いが趣きがある木造の建物。入口の上には看板が打ち付けられている。


 ――『食事処・酒処』――


 なんとなく、敷居が高い。ナナシにはそう感じられた。建物自体が醸し出す雰囲気が上品なのである。しかしテンは気にする事なく、ガラガラと引き違いの戸を開けて入っていった。仕方なく、ナナシもそれに続く。


「ごめんよ~、昼の部は終わっちまったんだ。また日暮れから店開けるから、また来とくれよ!」


 すると、カウンターテーブルの奥、恐らく厨房だろう。艶っぽい女の声が響いた。


「悪ぃな。客じゃねえよ。ちょっと頼みがある」


 奥から出てきた声の主に、テンは気安く声をかけた。


「あら? あらあら? テンじゃないのさ! 久しぶりだねぇ? 何年ぶりだい? 大きくなっちゃって! いい男になったじゃないのさ!」


 声の主は、三十路を一歩踏み超えたくらいの、しっとりとした色気のある美人だった。

 アップにした黒髪のうなじからは後れ毛が。左の目尻には小さなホクロが。少し厚めの唇には鮮やかな紅が。大きく開いた胸元には深い谷間が。やや垂れ気味の切れ長の瞳から繰り出すのは必殺の流し目。


(何この色気でできたようなおばさんは!)


 ナナシは内心驚愕していた。生まれてこの方、こんな色香を持った人間は見た事がない。すると、突然女の視線が自分に向いた。ナナシは思わず身体が硬直してしまう。


「随分と可愛らしい子を拾ってきたじゃないかぁ? この子の面倒を見ればいいのかい?」


 ナナシを一瞥した女は、事情は全て察しているとでもいった様子でテンに言った。


「ああ。住み込み、賄い、給金付きで頼む」


 テンも、ずけずけと好待遇を要求するものだ。ナナシは一周回って尊敬の眼差しでテンを見る。


「随分と吹っ掛けるじゃないかぁ? ま、いいさね。看板娘が欲しかったところさ。アンタ、名前は?」


 ここまでくると、流石にナナシも話の流れは理解した。テンが働き口とねぐら、両方を斡旋してくれたのだ。


「はい! あたし、七枝といいます! ナナって呼んで下さい! 何も出来ませんが、一生懸命頑張ります!」


 そんなナナシの受け答えに、女は満足気に頷いた。


「うん、いい子じゃないか。アタシはこの店の女将で、ノンって言うのさ。宜しく頼むよ。この店はみんな『ノン酒場』って呼んでるよ」

「はい! あ、テン、何から何までありがとう! この服、洗って返すから、後で取りに――テン?」


 ナナシとノンが互いに自己紹介を終えた時、テンの姿は消えていた。


***


「ナナ。あんた、どういう経緯でテンと知り合ったんだい?」


 ノンの質問に、ナナシは淡々と答えた。淡々と答えたはずなのに、なぜかそのブルーの瞳からは涙が溢れて止まらない。


「アイツは気儘な風来坊さ。ふらっと現れてはいつの間にかいなくなる。前にアイツがここに現れたのは五年も前だったかねえ……」


 ナナシの話を聞いていたノンも、昔を思い出したのか、遠い目をしている。


「アイツはね、裏の世界じゃちっとは知られた男でね。目ん玉飛び出るような報酬を要求する代わりに、どんな悪党でも斬って捨てる。人知れず闇に蠢くクズ共を片付ける、街の『掃除屋』ってやつさ。裏稼業だからね。アイツと深く関わると危険があるかもしれない。だからアイツは誰とも親しくなろうとはしないのさ」

「……目ん玉飛び出るって、どれくらいですか? あたし、命まで助けられちゃったから、一生懸命働いて、お金を渡さないと……」


 それを聞いたノンはカラカラと笑った。


「助けられた? 働いて返す? 無理無理。アイツ、ナナの為に何人斬ったんだい?」


 ナナシは、テンが自警団の前で取り出した・・・・・死体の数を思い出す。自分を攫った連中と同じ数。


「多分、六人……です」

「そりゃあ、一生かかっても無理だね。けどさ、アイツはプロだ。報酬無しに仕事なんかやりゃあしない。心当たりはないかい?」

「心当たり……」


 ナナシは今までのテンの言動を思い出す。そして一つだけ、思い当たった。


「……揉まれた」

「――は?」

「おっぱい揉まれたんです! 凄く!」


 それを聞いたノンは、テーブルに突っ伏して爆笑した。


「もう、笑い事じゃないですよ? いきなり、『野生の少女が乳を揉まれたそうな目でこっちを見ていた』とか訳分かんない事言って!」


 しかし、一頻り笑い終えたノンは、打って変わって真面目な顔になった。


「アンタ、その時の様子、どんなだった?」

「そう、ですね。ボロボロのドロドロでした」

「だったら、アンタをどうしても助けたかったんだろうねぇ。けど、さっきも言ったように、アイツはプロだ。はした金じゃあ仕事は受けない。そこで、その時のアンタが支払える、唯一のモノを頂いたって事だろうねぇ。アンタなら、自分のその胸、いくらの値段を付ける?」

「そんな! 値段なんて付けられないです……あ!」


 ナナシはそう言って胸を隠したが、自分の台詞にハッとする。

 そんなナナシに向かって妖艶な笑みを浮かべ、ノンが語りかけた。


「気付いたかい? アイツはどうしても助けたい相手がいる時、自分から助けるための理由を作ろうとする。アンタのその立派なモンを揉んだのは照れ隠しみたいなもんさね」


 しかし、ナナシは思う。自分は命を救ってもらった挙句に自由をもらい、衣食住の心配もいらぬ環境さえ与えられた。正直、胸だけでいいの? と思ったりした。


「ま、アイツはそういう不器用なヤツなのさ」

「テンは……一度も『ナナ』って呼んでくれなかったんです。あんなに揉んだのにですよ? 次に会ったら呼んでもらえるように、あたし、頑張ります!」

「ああ、頑張んな!」

「はい!」


 そしてナナシはぐい、と頬に流れる涙を拭い、店の外に出た。そして、空に向かって叫んだ。


「テンのーーーー、ドスケベェーーーーーッ! ちゃんと、服を取りに来なさいよーーーッ!!」


 日も傾きかけた空に、ナナシの叫びはテンまで届いただろうか。


 ――ガラガラガラッ


 ノンが厨房でナナシへ料理の仕込みを教えていた時、店の玄関が開けられる音がした。


「ノンさーん、服屋のねーちゃんからお届け物ですよー? こちらにナナシさんっていますー?」

「はいよ! ナナシならウチの看板娘だけどー?」


 届け物には、ナナシが服屋で見繕ってもらったが購入を遠慮した、洒落た服が数着包まれていた。

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