卓球部のうさぎ

おきな

卓球部のうさぎ

 「ほのちゃんを動物に例えたら、うさぎか、クマやな!」

帆華ほのかはなんで、という顔をする。

「うさぎ飼ってるからかなあ。クマは、ほら、これこれ。」

日心にこちゃんは帆華のかばんに付いている防犯ブザーを指さした。「くまのがっこう」のジャッキーの顔が引っ張るところになっていて、小学生のときから使っているものだ。

 ふとした拍子にすごい音が鳴ってしまって、周りの男子が「不審者?!」などと騒ぎ出し、そして帆華が慌てて、震える手で消すということを何度も繰り返してきた、いわば戦友だった。マジックテープのベルトを付けていないと、走っただけでも鳴ってしまう。

 そんなことを考えている暇もなく、日心ちゃんたちはいろんな子や先生に動物を当てはめていった。この日は試合の本番だった。自転車で並んで会場に行くとき、先頭がすごいスピードで走るので、早く会場に着いて、毎回暇を持て余していた。だから、あっち向いてホイなどのいろんなゲームで時間を潰したのだ。


 帆華たちは卓球部だった。全校生徒300人程度の中学校の、2年生が8人、1年生が2人の小さい部活で、ほぼ毎日、男子卓球部が使っている格技場を一緒に使わせてもらっていた。当然、男子とも普通に練習していて、帆華は、「絶対力の差で負けるに決まっとるやん」と思っていた。他の女子たちは思っていないようだったけど。

 しかも、男子の方の顧問の先生が、走ることが好きで、男子も一緒に部活のウォーミングアップとして走らされていたのを、女子も毎日付き合わされていたのだ。テニスコートと体育館を8周。距離にして約2キロ。15周、約4キロのときもあったし、女子の顧問の先生の気分で、周数は変わっていたけど、よく走れとったもんやな、と今は思う。

 帆華は、運動が得意ではなかった。でも、小6のとき、「運動はしといた方がいいやろ」と思って、運動部の卓球部に入った。1つ上の先輩も2人しかいなくて、部員が少なかったから毎回試合に出ることはできたし、走るのが苦痛でも、最後の方には慣れてしまっていたし、部活で新しい友達もできて、家が近い3人、帆華と日心ちゃんと青葉あおばちゃんで一緒に行ったり帰ったりすることもできたし、まあまあな選択だったかな、と思っている。


 でも、帆華が急に行けなくなったときがあった。


 帆華の中2の夏休みは、一度も学校で卓球をしなかった。学校には行ったものの、格技場に入れなかったりしてトイレに3時間こもったこともあった。部員のみんなや先生たちの顔が、ぺらぺらの1枚の紙になってしまったように、地球上の全ての人間が信じられなくなった。逆皆勤賞取ってもた、といろんな人に言った。一番勝ちやすい、夏休み中の試合も、前日には行くと言っていたけど、朝起きてみると無理だった。だから棄権した。帆華は地球上の全ての人間、ということは自分も含むな、と思った。遺書も書いた。外に出ることがなかったので、車に轢かれるというよりは、マンションの8階に住んでいるので、飛び降りることを想定していた。地獄の日々だった。帆華の部屋から見る空は、いつもどんよりとしていた。できれば、思い出したくもない。


 唯一の理解者はうさぎのきなこだった。どうせ死ぬなら、この子を撫でてからにしよう、と心に誓っていた。家にいても、何もすることがなかったのでずっと、きなこを撫でていた。その毛並みは、いつも帆華を落ち着かせてくれていた。

 言葉では表せない何かが、そこにはあった。


 女子卓球部には、あーちゃん、という子がいた。

 彩香あやかの、「あ」を取ってあーちゃんと呼ばれていた。

 先生から見たら、あーちゃんは何も変わったところのない普通の子だったと思う。でも卓球部のみんなは、あーちゃんを軽くいじめていた。

 帆華はそれが嫌いというか、嫌というか、複雑な気持ちだった。

 あーちゃんと帆華は、卓球の強さも同じくらい、走る速さも、帆華が少しだけ速いくらいで、背の高さすら同じくらいだった。だから、いついじめの矛先が自分に向いてもおかしくないと、ずっと思っていた。何ならはじめから、私がいじめられていた可能性もあったな、だって私学校で喋ったことないもん、と思うと、怖くなった。日心ちゃんたちが、これをいじめだと思っていないことにも、腹が立ったし恐怖を覚えた。何度か先生たちに、それとなく伝えたこともあった。でも現状は全く変わらなかった。


 実は帆華も、あーちゃんのことは好きではなかった。でも、それ以上に、いじめているときの日心ちゃんたちが嫌いだった。急に優しくしたり、急に無視したりする。先生からは絶対に分からないように、あーちゃんのことは隠語で呼ぶ。


 日心ちゃんたちが嫌で、それに同調せざるを得ない自分も嫌で、帆華は部活に行けなくなった。


 家では、帆華は流暢に喋ることができた。弟と漫才コンビを組んどるみたいや、といつも思う。でも、学校のことを考えると途端に喋れなくなる。喋れないときは、息が詰まって、苦しい。


 まだ本格的に部活に行けなくなっていない、夏休みのはじめの方の朝、帆華は部活に行こうとして早起きして、家を出た。いつも3人で待ち合わせしていたので、できたら一緒に行きたい、と思っていた。

 家を出ると、日心ちゃんと青葉ちゃんが見えた。そこに行くには、一旦カーブした道を通らないといけない。カーブに差し掛かって2人が見えなくなると、緊張して、足が動かなくなってくる。

 待ち合わせ場所に着いてみると、2人はもうどこかへ消えていた。2人からも、帆華のことは見えていたはずなのに。帆華は、見知らぬ人にすら変に思われたくなくて、家にまっすぐ帰らずに、信号を家と反対の方に渡ってみたりして、くねくね帰った。とても惨めだった。

 帰ってから、家族に「行ったらおらんかった」と言ったら泣いてしまった。フローリングに直に座って泣いていると、ケージから出ていたきなこが寄ってきた。いつもは何を考えているのか分からない、女王様のようなうさぎなのに、このときは心配してくれているように見えた。


 夏休みが終わった。

 部活中心の生活はなくなったけど、クラスには帆華を含めて5人の女子卓球部がいた。日心ちゃんもあーちゃんもいた。男子もたくさんいた。みんな、帆華が部活に来ていなかったことを知っている。もともと男子には、卓球が弱いこととか、のろまなことをからかわれていたので、慣れていたが、女子のみんなに何をされるのか分からない。心を殺して教室に入るか、先生に反抗して教室以外のどこかにいるか、の2択だった。休む選択肢はなかった。家族にだけは、これ以上迷惑や心配をかけたくなかった。


 帆華は、教室に入る方を選んだ。男子はやっぱり、「ほんまあいつ謎やわ」とからかってきたけど、こんなのはどうでもよかったので、1学期と同じように無視を貫いた。帆華には、幸い部活以外の友達もいたので、その子たち、詩織しおりちゃんや響子きょうこちゃんといるか、1人でいた。詩織ちゃんは、日心ちゃんと塾が同じだったので、何か感づいているようだった。でも、何も言わないでいてくれた。

 女子卓球部のみんなはというと、何か言いたそうな顔でこっちを見て、何も言わずにまた話し始める、ということを繰り返していた。帆華は、「絶対陰口や。いじめる対象変えたんかな」と思ったが、あーちゃんはそこにはいなくて、いつものように1人でいたので、もういっそ、あーちゃんと仲良くなろうかな、と思ったときもあった。いつまで経っても、あーちゃんを好きになることはなかったけど。


 毎晩、学校のことを考えては帆華は憂鬱になった。担任の先生も何も助けてくれなかったし、顧問の先生も同じだった。やっぱり誰も信じられる気がしなかった。母も父も嫌いになった。なんにも分かってないくせに、が頭の中の口癖になった。実際に口に出すことは結局1回もなかった。重松清さんの「青い鳥」に影響されていた帆華は、私を取り巻く環境は、取り返しのつかないくらいに変わってしまっていた、と思った。


 人生終わった、と思っていた帆華にも転機が訪れた。大好きな、部活のコーチに会ってしまって、部活に戻りたい気持ちが出てきて、9月の最後、帆華は卓球部に復帰したのだ。復帰するときは、違うクラスだった青葉ちゃんが手伝ってくれた。久しぶりの卓球は楽しかったし、先生にも他の部員にも、「ほのちゃんほんまに休んどったん?全然衰えてないやん!」と言われた。皮肉っぽくはなかった。帆華は素直に受け止めて笑った。


 帆華が復帰してからも、先生は前と同じように試合に出させてくれた。一番心に残っているのは、2年生の2月にあった団体戦だ。 

 卓球の団体戦というのは、シングルスが2つあって、ダブルスが1つあって、またシングルスが2つある。それはオーダーといって、相手チームと向き合う前に決める。全て別の選手が出て、合計6人で5戦するということだ。帆華は手足が長いというだけでカットマンという戦法だったので、全然強くないのに、コーチが面白い試合が見たかったのか、1戦目は一番最後のシングルスに入れられた。

 1戦目、エースの青葉ちゃんと2番手の寧々ねねちゃんが試合をしている中、卓球台が2台しかなかったので、帆華は待機していた。青葉ちゃんがストレートで勝って、寧々ちゃんもそれに続いた。ここでダブルスが勝てば、3−0なのであとは試合をしなくてもいい。帆華はどきどきしながら、ダブルスの試合を見ていた。でも、時間がかかるダブルスの前に、その隣でシングルスの試合をしていた部長の日心ちゃんが勝ったのだ。これで決着はついた。帆華は、1戦目は不戦勝だった。

 コーチが、また次もラストに入れるで、と言ってきた。

 2戦目は、帆華まで番が回ってきた。ということは、2−2で、帆華が勝ってしまわないとチームが負けるということだ。帆華は自分の番がくるまで、緊張しすぎて、寒いのにジャージも着ずに、後ろの方を歩き回っていた。しかし、帆華の相手もあまり強くない子だった。少し危ない場面もあったが、帆華の頑張りで2戦目も勝つことができた。コーチや先生やみんなに褒められて、帆華も嬉しかった。

 3戦目はまた、コーチが勢いに乗って帆華をラストに入れた。結果は帆華にくる前に負けてしまったが、リーグは1位通過で決勝トーナメントに行くことができた。

 そして、お昼はお弁当をみんなで食べて、気持ちを高めたところで決勝トーナメントの1戦目が始まった。この試合も危ないところだった。また、帆華がラストに入れられて、2−2で帆華にも順番が回ってきた。また帆華と同じくらいの相手だった。五分五分の試合を制したのは、帆華だった。これにはみんなが感動した。ベスト8に入れたからだ。次勝ったらベスト4やで、とみんな思っていたし、勝てるのではないかと思っていた。

 ここまでの相手は、くじ引きの運がよかったので、いわゆる強豪校ではなかった。でも、ベスト4決定戦で当たったのは、双子で小さいときから卓球をしていた2人がいて、その2人のおかげでここまで勝ってきたような学校だった。でも、コーチは何を思ったか、また帆華をラストに入れた。終わってから、本気で勝ちにいくならその選択は間違っとったやろ、と帆華は思っていたし、みんなもそうだと思う。なぜなら、帆華の学校は最後にエースを入れる必要があるからだ。帆華みたいにあまり強くない子で、最初の2戦に来るであろうその双子をやり過ごして、ダブルスからで勝ちにいけばいい。でも、コーチはそれをしなかった。

 最初の2戦は、予想通り強い2人が来た。立ち向かったのは、青葉ちゃんと寧々ちゃん。青葉ちゃんは勝てたが、寧々ちゃんは負けてしまった。ここで重要なのはダブルスだ。なんとか勝って2−1。ここで次の子が勝てば、また帆華は不戦勝になる。でもあっさり負けてしまった。ということは、また帆華に全てがのしかかった。また相手は同じくらいの選手だった。帆華は全ての試合が終わったあとで、思ってはいけないけど、いっそのことならみんな負けてたらよかったのに、と思った。惜しいセットもあったが、1セットも取れず負けてしまったのだ。

 並んで挨拶をしたあと、応援してくれていたみんなのお母さんたちにお礼を言う決まりがある。帆華の母はいなかったが、男子が3人ほどいた。みんなで「ありがとうございました!」と叫んだあと、その男子たちが「泣くなよ!」と言ってきて、もう日心ちゃんと青葉ちゃんと寧々ちゃんは泣いていた。帆華はそれには気づかなかった。男子に見られたくない涙をこらえるのに必死で、すぐに自分の荷物を取ろうと後ろを振り返ってしゃがんだ。するといろいろなものが溢れてきた。勝てなかった悔しさ、私のせいでごめんという気持ち、プレッシャーからの開放感。それらは全て涙となった。後輩が来てくれて、お気に入りだったタオルをかけてくれた。先生にもみんなにも、「ほのちゃんも泣いてる」と言われた。


 そこから約半年、最後の大会まで、帆華はあまり休まず部活に行って、無事引退した。勉強もして、志望校にも合格した。合格発表のあと、いつもは近寄ってこないきなこが「おめでとう」と言っているように足にまとわりついてきた。うさぎはよっぽどのことがないと鳴かない。言葉以外の手段でコミュニケーションを取るのは、学校での帆華と同じだった。小1のときからずっと一緒にいるきなこが、帆華にとっては一番の友達だった。


 その1年後、帆華が高2になる少し前、きなこが亡くなって、食卓から左を見るといつもいた茶色い生き物がいないことが、帆華にとってすごく寂しかった。


 青葉ちゃんは、帆華の気持ちをいつも汲み取って、代わりに言ってくれていた。喋れない帆華のために、意思疎通のためのサインも考えてくれた。卒業してから、帆華とは一度も会っていない。連絡先は交換していたが、高2になってからは全く話していない。


 大切なものは、なくしてから気づくんや、と帆華はようやく気づいた。あのとき、きなこがいなかったら、私は死んでたかもしれん。あのとき、青葉ちゃんがいなかったら、私は一生、みんなと卓球ができんかったかもしれん。もっと、撫でてあげられていれば。もっと、感謝が伝えられていれば。帆華に残るのは後悔ばかり。


 帆華は耐えられなくなって、高校の先生と話をした。高校デビューで、帆華は喋れるようになっていた。先生はこう言った。

「うさぎのことも、友達のことも、後悔はしてええけど、後悔ばっかりじゃあかん。優しくしてくれたのに、そんなことしか思い出せんのやったら、2人に失礼やろ。そんなに未練があるんやったら、いい思い出がたくさんあるはず。大事なのは、それに気づくことや。できれば、自分にできなかったことを思い出すんじゃなくて、相手がしてくれたこと、嬉しかったことを思い出したらいいやんか。友達に関しては、もう会えんわけじゃないし、まだお礼は言えるで。自分ええやつやなあ。」

「そうや、青葉ちゃんに、声でお礼言ったことないわ。今なら言える。きっと。絶対。家も近いし、10分だけでもお願いしよ。無理だったら電話でもええ。先生、ありがとう。私、今から連絡してみる。」

「おう。頑張ってき。」


 青葉ちゃんに連絡してから学校を出て、走って家に帰る。どうしても鼓動が高鳴る。エレベーターで携帯を見ると、返事が来ていた。部屋に入ってから見よう、と思って電源を落とす。


 自分を取り巻く環境は、自分で変えられる。たとえ、未知な10代でも。エレベーターを降りると、秋の涼しい風が帆華を包み込んだ。

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