このお話に出てくる、幹太くんは、クラスのみんなにはどう思われているのか分かりませんが、主人公の瑠莉さんには、「優しくて賢い」と思われています。私が別室で生活していたときに、一緒にその部屋にいた子のうちの1人で、字の読み書きがゆっくりな子がいました。その子は、教室には全く行かず、たまに、気が向いたら別室に登校するスタンスでいて、これまでにたくさん苦労したり、辛いこともあったんだろうな、と私が勝手に思っていました。でも、別室の中ではいつも笑わせてくれる、面白い子でした。別に、勉強をする場所ではなかったから、私が、「あの子は読むのが難しい」ってことを忘れて、筆談してみようかな、と思ったこともありました(緊張して一度もできなかったけど)。だから、一部では、できないことが表面化していても、違う場所に行けば、自分の得意なことが発揮できると思うのです。
もし、泳げないペンギンがいたとして、そのペンギンは、海を前にしてすごくみじめな気持ちになると思います。仲間は普通に海に飛び込んでいくのに、自分は飛び込んだら溺れてしまう、と。それは、喋れない瑠莉さんだったり、読めない幹太くんだったりと同じで、生きていくのに必要な機能が奪われたような状態だと思います。もしかしたら、優しい仲間がいて、魚を分けてくれるかもしれません。それで、「生活できるからこれでいい」と考えるペンギンもいるでしょう。ですが、「自分は助けてもらってばかりだ」と、余計にみじめになるペンギンもいると思います。
私もそうでした。話せない、動けないときに助けてもらって、感謝はしているけどみじめになって、こんな私をどうして助けてくれるんだろう、と思っていました。そんな私に、先生は、「声に出せなくても、文字や、行動で伝えなさい」と言って、まさに"違う道(空を飛ぶこと)"を提案してきました。でも、私はみんなと同じがよかったのです。みんなと同じように、話したかったのです。だから、私は、空を飛ぶことを強制するのはできません。「私には他の道がある」と、空を飛べるようなことを見つけてもいいし、「私は泳ぐのを練習しよう」と、みんなと同じところで生活してもいいです。どっちが楽で、どっちが大変とか、決め方は、人それぞれだと思います。ただ、何かできないことがある人に、「泳げないなら空を飛びなさい」と一律に言ってしまうのは違うのかなと思います。物語ではそこまで書けなかったので、補足です。
「泳げなくても、空を飛んだらいい」というメッセージを、幹太くんは瑠莉さんに言いました。でも、もうこの2人は空を飛んで、2人で助け合うことができていると思います。これはこれでいいし、2人で泳ぎの練習をしてもいいと私は思います。問題は、「泳げなくても、空を飛んだらいい」ことを知らなかったり、何かが引っかかってそう思えなかったりする人がいるかもしれないことです。この世界は、"普通であること"を求めすぎています。「泳げないことなんか関係ない!ほら、みんなと一緒に泳げ!」と言う人は、少なからずいます。そういう人に、「泳げ」と言われたら、言われた人は、「泳ぐ」しか選択肢がなくなるし、他に選択肢があることなんて考えもつかなくなるかもしれません。ただ、知らないだけで、「誰が悪い」とかはないと思いますが、強いて言うなら、"普通"を求めすぎる世界が悪いのではないかな、と私は思います。だからこの物語を書きました。
読んでくださった方の、一人ひとりに自分の意見があると思います。もし、他の人と違う意見だったとしても、いろんな意見を尊重してほしいと思います。