#29 自分を見つめる ※

 結局のところ、父を、射水いみず隆二りゅうじをどう思えばいいのか。母を、射水真理子まりこをどう思えばいいのか。幸樹こうきにはまだ割り切った結論が出せない。というより、結論を出せるときが来るのだろうか。


 ただ、今になってふと思うことがある。父もまた、幼い頃に、自身の親から虐待されていたのだろうかと。幸樹の父方の祖父母は、幸樹が幼い頃に亡くなっている。だから確かめようがない。祖父母に会った記憶はとてもおぼろげではあるものの、「怖い」と感じた覚えはない。だが人の本性はわからないものだ。射水隆二の家庭での所業を、日本人のほとんどが知らず、気さくで陽気で偉大な音楽家だと信じていたように。


 伯母は、週刊書春カクシュンの記事が出てからというもの、ぱったりと連絡してこなくなった。もしかすると、面倒事になると思われたのかもしれないし、伯母宅にも取材する記者が押しかけた可能性もある。望外の収穫だった。ほとぼりが冷めないうちに、固定電話の番号を変更した方がいいかもしれない。今のうちなら言い訳も立つ。


 赤ちゃんのうちに亡くなった兄(幸樹が生まれる前のことなので、兄という実感もあまり持てないのだが)のことも、どう考えればいいのかわからない。取材記者にぶつけられたように、「最悪の可能性」はある。だが、本当に、小さな子どもにありがちな「事故」かもしれないのだ。もうわかりようがない。30年も前のことで、当の兄も父も亡く、母は沈黙を選んだ。ならば答えは幸樹自身の中にしかない。何を信じるか、だ。少なくとも、新しい事実が出てくるまでは。


 母にしても、もしかすると自身の命を絶っているのでは――という懸念は、いつもある。人生をやり直すつもりで家を出たのだとしても、その後気持ちが変わることは大いにありえた。母が心身に負った傷は深すぎる。しかし、母がそうしたとして……不思議に、居ても立っても居られないほどの不安には襲われない幸樹だった。もし今、母が遺体で発見されたという知らせが来たとしても、やっぱりそうかとしか思わないだろうなと、考えている自分がいる。心配しているのか、慕っているのか、嫌っているのか、見捨てているのか、考えたくないのか、それすらも定かでない。


 両親を赦すことができるだろうか。わからない。父に対しては、いろいろな感情が混じり合いすぎて、分析することさえ容易ではない。母に対しては、判断材料が足りなさすぎるように思う。しかし、もうどちらも、幸樹のそばにはいない。父は世を去り、母は生きていたとしても二度と会うことはないだろう。これもまた、答えは幸樹の中にしかない。だが幸樹は、自分の心に、どこから手を付ければいいのかわからない。


 記者会見で話した「言葉で説明しようがない」というのは、言いくるめるための表現ではない。本当のことだった。どう語ればいいのか、見当がつかないのだ。

 けれども……。

 碧衣のメッセージを読んだとき、幸樹はふと、自分が音楽家であることを思い出したのだった。


 ――今のこの気持ちを、曲にしてみたら……。


 自分はやはり、救いがたい音楽家なのだろうと思う。言葉よりも音楽にした方が、自分の想いをより正確に表現できると思ったのだから。


 しかし、「RYUJI」の作曲作業は、「音楽家KO-H-KIコウキの感性」と、「虐待被害者射水幸樹の感情」の、真っ向からのぶつかり合いだった。父に関する記憶――嬉しかったこと、幸せだと思ったこと、賞賛したこと、恐ろしかったこと、理解に苦しんだこと、絶望したこと、悲しかったこと、虚しさに支配されたこと……。ずっと苦しんできた。高校生になった頃に暴力がやんだといっても、それは後になって振り返ってみればの話で、当時はなんの確信もなく、いつまたあの暴力が自分や母に向くかと、無理やり飲み込まされた鉛を無理やり吐き戻させられるような日々が続いていた。自分の中に圧縮された父の記憶を引き出すうち、幸樹は幾度も荒れた。金属的に笑い転げ、意味のわからない涙を流し、わめくというより咆哮し、家具をひっくり返し、嘔吐し、抜け殻になってただ座りこんだ。無軌道なジェットコースターの中で、幸樹はほんのいくつか、はっきりとした真実を拾った。


 オレはやっぱり、音楽家・射水隆二を、偉大だと思い、尊敬している――。


 父は息子が幼い頃から、音楽の道に進むことを期待していた。1歳になる前に、おもちゃのピアノを買い与えた。息子が、音楽はやりたくないと思えば、父親にそう言えばよかった。中学校では運動部に入りたいと、相談したように。少なくとも素面のときの父は、息子の言葉にとりあえず耳を傾けてくれる人間だった。だが幸樹はそうしなかった。

 楽しかったからだ。幸樹自身が、音楽が好きだったからだ。父に音楽のコーチをしてもらうことが、嬉しかったからだ。厳しかったけれど、間違いなく成長する自分を実感できたからだ。父が敷いたレールかもしれない。それでも幸樹は自分で望んで、そのレールに乗った。音楽界へのデビュー曲は、古びて壊れてしまったおもちゃのピアノをイメージした「おもちゃのピアノのための合奏曲」だった。


 オレは間違いなく、射水隆二の一番弟子だ。そのことだけは、はっきりと言える。

 だからオレは……やっぱり、音楽家でありたい。


 それが、今見つけられる、幸樹のゆるぎない結論だった。

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