#22 引き裂かれて ※
その日、
ソファの裏側にもたれこんで座りこみ、幸樹はそのままうずくまっていた。
奇妙な音がしているなと気づいたら、自分の上下の歯が間断なくぶつかり合う音だった。
目の前の壁が、床が、視界の中でゆっくりと揺れている。右へ、左へ。――乗っている船が沈みかけたら、こんな光景が見られるのだろうか。
……知られた。おおやけにされてしまった。
父の裏の顔。暴力を受けてきた自分。父に暴力をふるわれ、母に見捨てられた自分。自分の正体が、本当はどうしようもなく、生きている価値もない人間だということ。
これまで、事務所にも隠してきたつもりだった。香里あたりは疑惑を持っていたかもしれない、彼女を通して事務所にも話が上がっているかもしれない。だが幸樹は絶対に認めなかった。けがの理由はごまかして、父にされたとは絶対に言わなかった。学生なら口実はいくらでもある。たとえ額を割られたけがであっても。事務所の人たちの目の前で暴行されたことはない。疑惑を持ちはしても、確証はなかったはずだ。
だが。
終わりだ。もう終わりだ。なにもかも。何が? ……何が終わるのだろう? ……なにもかもだ。ずっと自分が守ってきた秘密。ここまで守り通してきた秘密。射水家の秘密。音楽家・射水
……それで何が起こるというのか?
一方で、すべてを冷たく突き放す自分がいた。オレは最初から、だめな人間だった。今いきなりだめになったわけじゃない。化けの皮がはがれただけだ。もう取り繕う必要はないじゃないか? なんなら、あの記者たちの前で泣き叫んで土下座するか? オレは生きている価値もないほどの人間なんです、どうかオレのだめさ加減を許してください――。
……どうして。
どうして……優しかった父の顔ばかりが思い出されるのだろう。
素面でさえあれば、厳しくはあっても優しかった父。風呂上がりに、年齢相応に出っ張った腹をゆすりながら、キッチンで冷たい麦茶を飲み干しては「ぐはーっ」と言っていた父。息子が音大に合格したと聞いて、夕食で「まあ飲め飲め」とビールを勧めてきた父――あの晩だけは、飲んでも暴れなかったな、あの人。
いい父親だった。
いい父親でもあったのだ。
「幸樹!」
びくんと顔を上げた。別人のように豹変した父が、真っ赤な顔でこぶしをたたきつけてくる。慣れたはずなのに、痛みというのはなぜなかなか消えないものなのだろう。
ああ……マーブル模様が見える。悪趣味な色合わせの……ゆっくりと渦を巻くように……。
父が見える。自分自身が見える。その光景はゆっくりと揺れている。幸樹の意識が、ゆらあ~っと揺れている。殴りつけられ、父の足元にうずくまる子ども。父はさらに片足を上げて、子どもの体を蹴りつける…………。
ちくしょう、
ちくしょう、
ちくしょう、
ああああああああああああ、
……坂下は顔を上げた。叫び声が聞こえたのだ。悲鳴とも、怒りとも、笑い声ともつかない――あるいはその全部か。とにかく尋常でない声だった。応接間のドアを引き開けた。幸樹が猛り狂っていた。ソファをひっくり返し、ローテーブルを蹴り倒し、棚の上におかれた時計や装飾品をたたき落とし始めた。
「幸樹くん……、やめろ!」
坂下は後ろから幸樹に組みついた。暴風はやまない。坂下は幸樹ごと、背中から後ろへひっくり返り、あおむけの体勢になった。無理やりあおむけにされた幸樹が四肢をばたつかせる。坂下はそっと顔をそむけた。見ていられなかった。幸樹の瞳から、あまりにも悲しい想いが流れ落ちているのを見てしまったから……。
幸樹は声を殺した。それでも嗚咽を、涙を、おさえきることはできなかった。
「父さん、父さん、父さん…………」
どうして……それでも、オレは。
父さん……………………。
にじんでいく世界で、天井が、照明が、奇抜な色のマーブル模様に染まり、ゆっくりと揺れ動く……。
声に出したのはそれだけだった。だが坂下は間違いなく、心が引き裂かれる慟哭というものを、はじめて聞いた。
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