#23 地獄
「
「……いらない」
幸樹はリビングの床に座ったまま、見向きもしなかった。チャーハンの匂いはしていたし、空腹という自覚はあったが、食欲には結び付かない。完全に断線していた。
「食べなさい!」
香里は幸樹の腕をつかんで、テーブルに無理やり引きずって行った。幸樹は抵抗しなかった。食べたくはないが、拒否するでもない。自分がほぼ完全に抜け殻になっているのがわかる。抜け殻に食事は必要ない。必要ないのに……。椅子につく。斜め前に座った香里がこちらを見ている。食べるまで解放してくれないのだ。
「いただきます」
ひとさじすくって、口に押し込む。おいしくないというより、味がしない。感じられない。味覚が職場放棄している。
「ごちそうさま」
5、6回もスプーンを口に運んだあたりで、幸樹は打ち切った。
「まだ残ってるわよ」
「本当にもう無理です、すみません」
強引に席を立ち、またリビングの片すみに座りこむのを、香里はため息をついて眺めた。……自分の個室に極力戻ろうとしない。リビングで座りこみ、そのままリビングの床で眠る。生気というものがまったくない。
この子は……どうなってしまうのだろう…………。
背も高く体格も香里よりずっと大きいのに、力をなくして香里にずるずると引きずられている。あまりにも深い心の傷。父に虐げられながらも、父と同じ世界で生きるという選択を、なぜと追及するつもりはない。
けれど、いつまでも「KO-H-KIはショックを受けていて質問には応じられない」で通すことはできない。幸樹に、どうしたいのかと確かめる必要がある。虐待の烙印にいまだ苦しめられ続けている被害者をひきずり起こして、「とっとと決めろ」と。
射水隆二はもう故人だ。しかし、遺された楽曲の影響の巨大さははかり知れない。彼の権威も名誉も失墜するのだから、その楽曲を使用している関係者から莫大な損害賠償請求が来ることを想像するのは容易なことだった。支払義務は順当に、事務所ということになるだろう。射水隆二の個人事務所であり、現在はKO-H-KIの個人事務所でもある。巡り巡って、KO-H-KIの上げた収益が、損害賠償に充てられるということになる。虐待加害者によって発生した損害賠償を、当の被害者が負うことになるのだ。そして、「妻と子どもを虐待していた射水隆二の息子」の楽曲が、今後どれだけ世間に受け入れられるかは未知数だ。もちろんKO-H-KIはまったくの被害者なのだが、イメージを大切にしたい企業や団体が香里と同じ見解に立ってくれるとは限らない。
事務所の人が数人、ひそかに転職を考えていることにも、香里は気づいていた。
事務所も……だめかもしれない。
射水
……今それをしたら、幸樹の心を完全に破壊しかねないのではないだろうか……。
「あ……」
香里は小さく驚いた。自分が、手の甲に涙をこぼしていたことに、はじめて気づいた。
――こんな……こんな残酷な話が、…………。
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