#10 荒廃 ※
父は逮捕されなかった。どうしてかはわからない。金とコネでどうにかしたのだろうか。母自身が父をかばって嘘の事情を話したのだろうか。それとも
家族に対する父の直接的な暴力はやんだ。そのかわり、酔っぱらった父は、リビングやダイニングの家具にあたるようになった。壁を殴りつけ、棚を蹴り、食器や道具を投げ散らした。幸樹も母も、部屋に閉じこもったまま、父を放置した。止める気力もなかった。もうたくさんだと思っていた。早く終わってくれと願うばかりだった。
……幸樹が音大に通い始めてもうすぐ1年が過ぎようとする頃、
父がいなくなった。
父がいなくなった。
……もう、ゆっくりと深く呼吸をして、いいのだ。
部屋に戻るなり大急ぎで内鍵を回さなくても、いいのだ……。
あっという間に月日がすぎた。葬儀、追悼番組、インタビュー、追悼コンサートへの出演、遺品の整理、楽曲の権利等についての協議……そうした日々の間、幸樹と母は、ほぼ無言で暮らしていた。必要最低限のこと以外、何を話せばいいのかわからなかった。そしてある日、――母が消えた。
20歳になった幸樹が、大学から戻ってくると、母の姿はどこにもなく、書置き1枚が残されていた。文言を一字一句正確には覚えていないが、ようやく自由になったので人生をやり直すことにした、幸樹あんたはもう20歳だから大丈夫よね、遠くから成功を祈ってる、射水隆二やあんたの関係者として世に名乗り出ることは絶対にしないから安心して――そんな内容だったはずだ。家の中はきちんと片づけられ、母の身のまわりの品々が消えていたが、射水隆二の財産はほとんど手つかずで残されていた。ああ、書置きには、もう戻って来ないから家に残されたものは好きに処分していい、などとも書いてあったな。
射水隆二は、少なくとも表向きには、偉大な人物だった。それが不慮の事故で亡くなったのだから、国民は大騒ぎとなり、業界はパニックを起こした。当時の内閣総理大臣や文部科学相までが弔問に訪れたほどだ。けれど来客も事務所の人もいなくなると、母が小さく鼻歌を歌うようになったことに、いつしか幸樹は気づいていた。楽しそうな鼻歌ではなく、どこか金属質だった。前触れもなく、母との生活は紙切れ1枚で終わった。母の実家はとうになく、行先に思い当たるところはなかった。事務所は幸樹と相談して、警察に捜索願を出したが、幸樹はあまり乗り気になれなかった。それでも、射水隆二の妻が失踪して、それを放置していたとなれば外聞が悪いのだろう。1年経っても手掛かりはなかった。幸樹は事務所に懇願して、母の捜索願を取り下げることに同意を取り付けた。母はようやく解放された、自由になれたのだ。これ以上射水隆二の影に縛りつけるのはかわいそうじゃないか。母の生き直しを妨害したくない。――今思い返せば支離滅裂な内容に聞こえただろうが、とにかく幸樹に土下座され、事務所はしぶしぶ同意した。けれども土下座するそばから、自分の言っていることが嘘だと、幸樹は気づいていた。
母さんは、オレを捨てたんだ……20代にもなって、こんなことを思うのは、間違っているのかもしれない。しかし、幸樹の胸を率直に貫いたのは、そんな思いだった。
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