#11 作曲家の華麗な仕事
「ごめんください……幸樹?」
問いつつも靴を脱いで、勝手知ったる射水邸に上がりこむ。玄関すぐそばのサロンに首をつっこんだ。カーテンがおろされたままで薄暗い。そんな中でも幸樹はいることがあるので、香里は目をこらした――今日はいないようだ。
「幸樹?」
隣接する音楽スタジオも無人だ。香里はあちこちのぞいた末、廊下の奥のドアから射水邸のプライベートスペースへ入りこんだ。
「失礼します。幸樹、いる?」
リビングに顔を突き出してみた。ここにも……いた。ソファに行儀悪くうつ伏せになった姿勢で、幸樹が眉をしかめ、紙片に書き殴っている。周囲には、書き殴られた紙片、ぐしゃぐしゃに丸められた紙片、それらが無頓着に投げ捨てられている。テーブルの上にはスマホとタブレットが置いてあるが、紙片に半ば以上埋もれていた。
「幸樹」
香里は呼びかけた。――返事はない。
「幸樹!」
襟首をつかんで小さく揺さぶる。幸樹はびっくりして顔を上げた。
「あ……香里さん」
「……また没頭していたのね。お昼は?」
「まだです……」
「……朝は?」
「…………食べて、ません……」
「もう…………」
ショルダーバッグをおろして、香里はため息を蹴飛ばした。
「いくら『降りてきてる』からって……」
「昨夜から気になってたモチーフがあって」
「昨夜から?」
「……作曲始めたのは、今朝からですけど」
ずっと食事を抜いていたらしく、幸樹の返答には力がない。
「それでずっと、ここで作曲?」
「降りてきてたもので……」
「……とにかく食べなさい。休憩。なんか作ってあげるから」
「ちょっとこのフレーズだけ」
「できたら呼ぶから。そしたら作曲は休憩。いいわね!」
「…………はい」
返事には力がなかった。今朝から食事を抜いているためか、香里の剣幕におされてのことか。
作曲だけでなく、作詞や小説や絵、映画やコミックのシーン、さまざまな種類の企画に至るまで、クリエイティブな内容について、アイデアが不意に出てくることを「降りてくる」と呼称する人は多い。「降りて」きているときは、何をおいてもすぐそれをメモ程度でも記録しておこう、とする人も珍しくない。幸樹にもその傾向があった。
昨夜見た、
「今日は何か」
炊飯器に残っていた白米、ちくわの味噌汁、野菜炒め、きんぴらごぼうと漬物、といったありあわせのメニューをぱくつきながら、幸樹は今になってたずねた。香里は一緒に食べるどころか、椅子にもかけず、つくづくと幸樹を見やっていた。そもそも一膳しか用意していない。
「特にないわ。様子見に来ただけ。来てよかったわ、食事もしてないなんて」
幸樹はきまり悪く下を向いた。ひと言もない。
「……すみません」
「まったく、音楽のことになると見境ないんだから。子どもみたいね」
そういうところがお父さんに……言いかけて、香里は危うく破砕した。
「ええと……あ、あのNHHの件は」
「連絡しといた。回答待ち」
「あ、そうですか」
「明日の予定、わかってるわよね」
「はい」
「没頭するのもいいけど、夜はちゃんと寝なさいよ。明日しんどくなるから」
「わかってます」
「本当かしら」
「……………………」
作曲に夢中になるあまり、次の予定を頭からすっ飛ばしていた――「前科」が複数ある身としては、黙るしかなかった。
「じゃね。明日7時半に迎えに来るから」
「あ、はい」
「見送りはいいから、食べなさい」
「……はい」
香里はさっさとリビングを後にした。来た時と逆に通って、靴を残した広い玄関から射水邸を後にする。門をふたつとも自分で開け閉めして、丘から通りへと車を乗り入れる。
……あの子はまだ、地獄でのたうち回っているのかもしれない……。
香里にとって、幸樹はいまだに「あの子」だった。かつて香里は射水
だから射水家の闇も感じ取っていた。
ときおり幸樹がケガをして、ひどく暗い――というより、凍結した表情をしていた。理由を聞くと、友だちとケンカした、学校帰りに転んだ、体育でヘマをした……と並べたが、どうにも腑に落ちない感触が強かった。しかし幸樹は、それ以上を語ろうとしなかった。そしてときたま顔を合わせる幸樹の母、つまり射水隆二の妻が、同じようにけがをしていることがあり、同じように顔が凍りつき、同じように口をつぐんでいたこと……。
香里の心に、ゆっくりと侵入してくるものがあった。水に落とした墨汁のように、ちぢれながら、だが確実に、ゆっくりと、ゆっくりと……。
不吉な予感が。
けれども……確証はなく、幸樹は頑として、同じ言い訳を繰り返すばかりだった。
香里にとって、射水隆二は、幸樹の父親というだけでなく、重要な仕事相手だった。確証もないまま、「かもしれない」裏の顔を告発することは、巨大なリスクだった。告発は、爆発的な破壊をもたらすことが目に見えていた。――確証のないもののために。
……いいえ……確証があったとして、私は幸樹を守るために、行動できただろうか……。日本の音楽界にそびえる巨樹を、根っこから無理やり引き倒すようなまねが……。
何より、その余波を真っ先にこうむるのが、幸樹とその母ではなかったか。たとえ、ある脅威からは解放されるのだとしても。彼らの生活に、取り返しのつかない亀裂が入り、粉々に砕けてしまうことを予測するのは容易なことだった。
……怖かったのだ。自分が行動を起こすことが、巨大な爆発を誘発するのだと思うと。
しかし今、自身の中に渦巻く怒りと悲しみと虚しさを持て余し、自宅で感情に振り回されて暴れる幸樹を見てしまうと、……後悔が積もっていく。
どうすればよかったのだろう。
どうすればいいのだろう。
私が……幸樹を、あそこまで追いつめてしまったのか。
だから時折、用事がなくとも、幸樹の様子を見に行かずにはいられない。
そして幸樹の、怒りにまかせて家具を蹴り倒す姿よりも、今日のように穏やかに過ごすさまの方に、苦い涙がこみ上げそうになる。
あの子は今も、……地獄の中で、助けを求めているのでは……。
……車は、射水音楽事務所の入居するビルの駐車場へ吸い込まれた。
「……よし」
幸樹はソファから起き上がった。テーブルからタブレットを「発掘」して引き寄せる。本格的にピアノを弾く前に、キーボードのアプリを使って、曲に肉付けをしていくのだ。ピアノを弾きながらでは記録しにくいことは、知り過ぎるほど知っている。タイトルは……ミッドナイトにすると、碧衣さんには俗っぽすぎるな。あえて「イブニング・パール」とか、どうだろうか。
シンクに置きっぱなしの食器のことは、もうすっかり忘却の彼方だった。
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