#09 暴君 ※

 幼い頃の幸樹こうきは、いつもの父と、人格の豹変した父の間で、どうすればいいのか苦悩した。昼間はピアノやヴァイオリンの成果を褒めてくれたのに、夜に人格が変わると意味のわからないことで責め立て、殴りつけてくる。幸樹はまったく理解できないことで謝罪しなくてはならなかったし、謝罪したところで結果は同じだった。そして朝になると、父は昨夜のことを覚えていないように思えた。幸樹は、昨夜父に怒られた振る舞いを直そうとびくびくして過ごしていたが、どんなに気を付けても父の意味不明の叱責はなくならなかった。後になって考えれば当然である。父は幸樹に落ち度があるという理由で怒っていたのではなく、怒る目的で難癖をつけていたのだから。だが当時の幸樹にわかるはずがなかった。父は「こういうもの」として受け止め、順応していかなくては、生きていけなかった。幸樹は次第に「なぜ父は怒鳴って暴力をふるうのか」を考えることを、あきらめていった。考えても意味がないことだけは理解した。父の言い分をわかろうと努力することに疲れ果てた。


 中学校に入って間もない頃、幸樹はホームセンターに行き、自室のドアにつけるための内鍵を購入した。父の不在を狙って、ドライバーで取り付けた。なるべく目につきにくいように、できるだけドアの下方、開けようとする際に邪魔になるバランスぎりぎりに取り付けた。普段はできるだけドアを開け放しにして、父に気づかれないように工夫した。夜、父が家で晩酌していることに気づくと、そっと自室にこもり、内鍵をかけた。ほどなく父が怒鳴りながら、どたどたと歩いてきた。がつん、とドアが悲鳴を上げた。ノックですらない、がんがんとたたく音。がつん、がつん、と内鍵が抵抗する。もはや言葉としても聞き取れない、吠えるような声。酔っているため容赦がない。幸樹は部屋の片すみでふるえていたが、そっと防音室に入って、ドアを閉め、滑り落ちるように座りこんだ。あの内鍵が壊れたら終わりだ。あそこまで父を怒らせてしまったのだ。今日は殺されるかもしれない……。

 ふるえが止まらない。歯の音が鳴り止まない。全身に服がべったりと貼りつく。がくがくと視界が揺れ、気持ちの悪い色合いのマーブル模様が意識に広がっていく。涙なのか汗なのかわからないものがぬるりと滑り落ちる。防音室では外の様子がわからない。今このドアをそっと開いて、すぐ外に父が待ち構えていたら……。

 どのくらいの時間が経ったのかわからない。窓もなく、時計もない。電気もつけていない。音も通らない暗闇の中で、身も心もこわばっていた。乾燥しきった関節を無理に動かし、痛む肘をのばして、ごくわずかにドアを開けた。個室の中が見えた。心臓がぎしぎしと鳴っている。10数えてから、ゆっくりとドアを広げる。音が聞こえない。幸樹は立ち上がれず、四つん這いの姿勢のまま、おそるおそる防音室から抜け出した。――父はいなかった。内鍵はがんばり抜いてくれた。普段聞いたこともなかった目覚まし時計の秒針が、ちっ、ちっ、と鳴っていた。幸樹はまだ息を殺したまま、内鍵の下りたドアから離れた隅に、丸くなって座った。あの向こうで父が様子をうかがっているのではと思えてならなかった。10分経った頃、どうやらいないようだと思うことができた。そのかわり――母がどんな目に遭っているだろうかと思い至ると、全身がすくんだ。だが、せっかく通り過ぎた嵐に追いすがることには、身の毛がよだった。摩耗しきった神経がもたなかった。部屋の隅にうずくまったまま、ひと晩を過ごした。首が痛かったけれど、もうベッドまで動く力もなかった。眠ったのか眠っていないのかわからない。意識の奥でマーブル模様がゆっくりと渦を巻いていた。ドアががつんがつんと鳴る音がしたようではっと頭を上げたが、ドアは沈黙していた。夢だったのかどうか不明なままだった。ようやく差しはじめた朝の光が、カーテンの隙間から床にゆがんだ形で横たわっていた。その朝父は、記憶を無くしたかのように、むしゃむしゃと朝食をほおばっていた。母は……片目がはれ上がり、腕に湿布を貼った状態になって、疲れたように幸樹を見た。喉の奥に鉛の味がした。


 父が数日間家を空けるのを待って、再びホームセンターに行った。予備の内鍵をもうひとつ、そして自分専用のドライバーのセットを購入した。内鍵が壊れたらすぐにでも取り換えられるように。


 中学生になっていつの間にか、幸樹の身長は父を追い越した。その気になれば力づくで父に対抗できたかもしれない。しかし、幼少期からほどこされた呪縛は、体格に関係なく、一瞬で幸樹の自由を奪う。内鍵を取り付けてからも、うっかり逃げ遅れると、父の暴力の犠牲にされた。黒ずんだ視界がゆっくり揺れるのを知覚しながら、父の意味不明の罵詈雑言を浴びせられ、殴られ、蹴られ、叩きつけられた。心が凍りつき、抵抗とか逃亡という発想にも行動にも、接続できなかった。


 それでもさすがに高校生ともなれば、父は幸樹に暴力をふるってこなくなった。かわりに父は、母をターゲットにした。幸樹は、父が在宅か不在か、あるいは晩酌の有無にかかわらず、自分の夕食や入浴がすむと、部屋にこもって内鍵をかけるのが習慣になっていた。翌朝起きて食事に出ていくと、母が新しい傷をつくっていることがあって、胸の内がえぐられるように思った。ある晩、父の怒声がしたので、幸樹は胸が騒ぐのをおさえてそっと、階段を降りた。父に押された烙印が、思考と神経を縛り上げる。だが今なら父に対抗できるかもしれない。母を助けられるかもしれない。まさに幸樹がリビングに顔を出した瞬間だった。父は、母の右の耳たぶを引っぱり、口を寄せて、すさまじい怒鳴り声を上げた。母は全身を硬直させ、意識を失って床に崩れ落ちた。ただごとではないと悟った幸樹は、母を助け起こし、救急車を呼んだ。門と玄関を開け、母に呼びかけ、救命士への説明を行い、母に付き添って病院に行った。父がどうしていたのか、まったく覚えていない。


 それ以来母は、右耳の聴力を失った。

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