#04 音楽家の日常

 街の中心からやや外れたところに鎮座するコンサートホールが見えてきた。幼い頃に初めて見た時には、へんちくりんな建物だなあと思っていた。しかしそれから何度も仕事で通っていると、無感動になってしまうものだ。多いときは1年で数十回来たこともある。


「今日は打ち上げもセットなのよね?」

 運転席の永山ながやま香里かおりに確認を求められ、後部座席で幸樹こうきは現実にかえった。

「そうです。あの野方のがた先生ですから」

「気をつけなさいよ」

「わかってます」

 香里の苦笑にため息が混じる。幸樹の笑顔も奇妙に歪んでいた。

 車はホールの敷地に滑り込んだ。


 今日はコンサートホールで、客を入れたコンサート形式の番組収録が行われる。地元を拠点とするそこそこ知られた交響楽団、そこそこ有名な指揮者、そしてピアノとヴァイオリンの奏者がそれぞれ特別ゲストとして参加することになっていた。このピアノ担当のゲストがKO-H-KIコウキというわけだ。テレビ局の企画である。午後はリハーサル、夕方から客を入れての本番だ。


 若手のスタッフに案内され、楽屋に荷物を下ろすと、幸樹と香里はすぐ挨拶まわりを始めた。もちろん打ち合わせも練習も行っているので、今日が初顔合わせという相手は現場の番組スタッフを除けばごく少数だが、それでも「今日はよろしくお願いします」という意味合いだ。最初に向かったのはテレビ局のスタッフのところである。立場上、プロデューサーの方がKO-H-KIの楽屋を訪れてもおかしくなかったが、彼らが頭を下げる相手はKO-H-KI自身ではなく、その背後に見える七光りの残照であることを、幸樹はよくわきまえていた。まだ自身はそこまでのスケールを手に入れていないのだ。まだ。


「KO-H-KIですぅ、今日はよろしくお願いしま~す」

「ああ、これはどうも、こちらこそよろしくお願いしますよ」

 男性プロデューサーがにこやかに応じながら、KO-H-KIに握手を求めてきた。ひげをきちんと剃っているけれど、生やしたらとても濃いひげになるだろうと思われる。手の離せるスタッフたちが彼の背後でそれぞれに、よろしくお願いしまーすと礼をしてきた。彼らにはセッティングという仕事があるので到着の挨拶はその程度にして、幸樹は香里を伴って廊下へ出た。


 幸樹が素の自分を出せるのは、自分ひとりのときか、あるいは「射水いみず音楽事務所」のスタッフしか周囲にいないときだけだった。それ以外の人物には、仕事仲間も友人も含めて、芸名の「KO-H-KI」とそのキャラで通している。さきほどのテレビ局の音楽スタッフとも何度も仕事をしているが、彼らの前では、打ち合わせも飲み会も含めて、素の幸樹を見せたことはない。KO-H-KIのキャラクターを素だと思われているかどうかは知らないが。


 幸樹と香里は、次いで指揮者の野方圭介けいすけの楽屋を訪れた。野方とは幼少時からの知り合いで、少々苦手意識があるのだが、避けて通るわけにもいかない。ドアをノックして「どうぞ」と言われたので開けると、幸運にもと言うべきか、野方は収録スタッフと何か打ち合わせている最中だった。ありゃ、と思うより早く、野方が顔を上げて「ああ、よろしく」と手を振ったので、お取込み中ならばと一礼して退散した。


「――香里さん、行ってしまいましょう」

「そうね」

 ふたりは心なしか気合いを入れ、楽屋の並ぶ廊下を歩きだした。オーケストラの団員たちはステージに集まり始めており、椅子に座ってみたり、楽器の調整や音出しなどを、それぞれに行っていた。もちろんまだ全員はそろっていないが、ひとまずの挨拶だけまとめてさせてもらおうと考えたのだった。

「KO-H-KIですぅ、皆さん今日はよろしくお願いしますぅ~」

「お願いしまーす」

 団員たちも礼を返した。コンサートマスターの八重樫やえがしの態度も当たり障りのないものだったことに一安心して、幸樹と香里は早々とステージを後にする。彼にからまれたくなかったからこそ、団員たちへの挨拶はステージでまとめてさせてもらいたかった、ようなものだ。さすがの八重樫も、多くの団員がいるところでは、おかしな振る舞いに出にくかったものと思われる。


 ……KO-H-KIは、八重樫に「言い寄られて」いた。

 幸樹はいわゆる「ストレート」である。恋愛対象は男性でなく女性だ――恋愛感情を持つことになれば、だが。しかしKO-H-KIの「キャラ」は、男性を相手にしており、メディアでもたびたびそんな発言もしている。だからそういう人だと思い込まれて、言い寄られることも少なくなかった。もっとも、見る人が見れば「装っているだけ」だとはあっさり看破されるだろうが。それでも芸能界に生息する手段として、大なり小なりなんらかのキャラをかぶっている人は数多いから、こいつはそういうキャラで攻めていくのだろう、くらいにしか思われていないはずだ。


 が。


「これも、セクハラ、というべきかな」

 たびたび、そんな思いにとらわれる。もっとも幸樹の場合は、自分で意識してそういうキャラを演じているのだから、セクハラだと言っても通用しないかもしれない。だがストレートな中身の感性から言わせてもらえば「キモチワルイ」である。装っていても、本能をねじ伏せて男性の「相手」などしたくない。それは間違いなく、「仕事」の範疇ではないはずだ。

「女性って、たいへんなんだな」

 ふとそんな風に思ったりもする。女性という、自身でどうしようもない理由で、性的な嫌がらせをされる――その不快感を、つい最近まで、まともに受け止めてすらもらえなかったのだ。意にそまない相手から無理やり迫られたり、下品な冗談を言われて、反応まで楽しまれるなんて、幸樹ですら吐き気がする。


 しかし、もっとも気鬱な相手の挨拶が無事に終わったことで、幸樹の足取りはやや軽くなった。これでようやくあの人の楽屋を、安心して訪れることができる。ヴァイオリン独奏を担当するヴァイオリニストの楽屋だ。ノックすると、ふわりとする印象の声が応じ、幸樹はドアを開けた。


 篠崎しのざき碧衣あおいは、平服のままスコアを確認していた。


「あら、コウキくん。……永山さんでしたね、こんにちは」

 涼やかな響きが耳に心地よい。

 彼女に対してももちろん、「幸樹」ではなく「KO-H-KI」だ。しかし、彼女が呼びかける名前は「コウキくん」に聞こえてしまうのだ。何らかの欲目、なのだろうか。


 篠崎碧衣。日本有数のヴァイオリニスト。幸樹の2つ年上。さらさらした髪を伸ばして、整いすぎない程度にまとめている。本当は肩くらいの長さにしたいけれど「ヴァイオリンの演奏に支障が出そうだから」伸ばすか切るか悩んだ結果、伸ばすことにしたという。平服だと、「仕事ができるけどバリバリした雰囲気を見せない優秀な会社員」風の、てきぱきした挙措を穏やかでふんわりした空気でコーティングした印象だ。つんつんしていないが凜とした顔立ちの美女である。会社員の男性と結婚して、本来の姓は山口やまぐちに変わっているが、ヴァイオリニストとしてはそのまま旧姓で通している。子どもは確か、まだ小学校に上がっていなかったはずだ。一時期仕事をセーブして、育児に専念していた。


「今日はよろしくお願いしますぅ、碧衣さん」

 幸樹は笑顔を作って、高い声を発する。同じ音楽の世界に身を置いている者同士、今回の仕事以前からそれなりに親交もあり、気心もまあまあ知れている。仕事の必要性もあってメッセージアプリでのやりとりもしているが、「基本うちのダンナも見ていると思ってね」と釘をしっかり刺されている。

「こちらこそよろしくね、コウキくん」

 碧衣はにこりと笑った。さわやかで、とてもすてきな笑顔だ。


 ……陽だまり。


「今日の調子はどう?」

「ん~、あんまり眠れなかったし、食欲もなかったですねぇ」

「あら、コウキくんも緊張するんだ」

「どうにも気がかりでェ」

 嘘、ではない。話の流れの解釈の仕方は人それぞれだ。

「碧衣さんこそいかがですかぁ」

「んん、今日は調子いいわよ、ガッツリ整えてきたわ」

「いや~ん、さすがプロぉ」

「あなただってプロでしょ」

「まだ修行中でぇす」

「なに言ってるのよ」

 ああ……ずっとこうしていたい。

 この人の笑顔を見ていたい。

 たとえ、この人が見ているオレが、本当のオレじゃないとしても。


 だけど…………。


 ……断ち切るように、幸樹はほどほどで辞去した。まだリハーサルもあるのだから、邪魔になってはいけない。幸樹自身にも準備がある。自分の楽屋に戻ってくると、香里は腰も下ろさず、手早く打ち合わせをした。彼女は一旦事務所に戻ることになっているのだ。


「あ、そうだ幸樹、琵琶びわって弾けたわよね」

「弾けますよぉ。それが何か」

 楽屋ではいつ誰が入ってくるかわからないので、KO-H-KIの振る舞いのままである。

「NHH(日本放送法人)のね、教育チャンネルの番組企画で、打診があってね。和楽器の特集なんですって」

「琵琶も琴も三味線も、尺八もいけますよぉ」

 幸樹は、オーケストラで用いられる楽器をほとんど演奏できる。そればかりか、ギター、ベース、ドラムス、さらに和楽器も、たいがいこなすことができる。父に厳しく仕込まれたのだ。演奏の技量は、たとえば碧衣のような、それぞれの楽器のスペシャリストにはさすがにかなわない。それでも、どの楽器もほぼ一定の水準以上に弾きこなすことができるし、いろいろな楽器の音色や奏法を知り尽くしていることは、作曲の上で強力な武器であった。「金管楽器をメインにした曲を作ってほしい」という依頼さえあるほどだ。ピアノの調律さえ父に教わった。ただ、普段の調律はプロにまかせていたが。父は「自分で調律する時間があるなら、ほかの用事に回した方がいい」というのが持論だった。自分で調律する技術を持っているのは、あくまでも非常事態のため、なのである。


「じゃ、それも伝えていいかしら」

「もちろんですよぉ。スケジュールさえ合えば大丈夫だと思いますぅ」

「了解。じゃ、詳しい打ち合わせ進めておくわね……今日の迎えは、連絡ちょうだい」

「はぁい、お疲れ様ですぅ、よろしくお願いしまぁす~」

 少々困った表情をしながらも、香里は足早に楽屋を去って行った。幸樹は軽く首を傾けて思案した。琵琶か……弾けるが、さすがに日常的に触れる楽器ではないから、ちょっとブランクが長い。おさらいしておいた方がいいかも……いや、あの様子だと、楽器が確定してからの方がいいか。脳内で「保留」ボックスに押し込んで、幸樹は切り替えた。現在最優先すべきは、この後のリハーサルと本番だ。聴衆の前でNGなんてみっともないことはしたくなかった。

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