#03 夜の底
「………帰るわ」
サロンのテーブルやソファを起こすのを手伝ってから、
「そうしてください」
ためらいもなく、幸樹はそう応じた。
自分で言いだしたことながら香里は、自身の体の動きに、潤滑油を切らしたかのようなひっかかりを知覚した。
「ご飯ちゃんと……あ、吐いたんだっけ……食べられる分は食べるのよ。明日が本番だからね。お昼より少し早目に迎えに来るから、昼ご飯早めに食べておくのよ」
「はい」
息子の世話を焼く母親みたいね、と香里は苦笑しかけた。香里自身に、離婚歴はあるが子どもはいない。
香里はバッグをつかむと、サロンのすぐそばの大きな玄関から出た。幸樹はふたつの門のセキュリティをリモートで解除してから、見送りに後を追う。
すでに夕闇が地上に舞い降りていた。屋敷の外壁や前庭に備えられた明かりが、光の弱まりを検知して、周囲を守るように照らしている。香里の車はガレージではなく、前庭の片すみに停めたままだ。前庭をぐるりと走って向きを変えると、運転席の窓から軽く手を挙げて、車はゆっくりと内門を過ぎ、外灯に縁どられた丘の道を下っていく。テールランプが赤く尾を引いて視界から消えると、幸樹は、のんびりというよりよろめくに近い動作で、前庭を横切って玄関に向かった。
現在幸樹がひとりで暮らしている
前庭には特に何も置かれていない。先ほど香里がしたように、車のロータリーとして利用するためだ。内門を外から入ってくると、丘の頂上にかまえる邸宅の、広い玄関と、1階部分に取りこまれた広いガレージの扉が目につく。ガレージを挟むように左右に、ふたつの玄関が設けられていて、広い方の玄関は向かって右側だ。左側にある小さな玄関はプライベート用で、そばに水撒き用の水栓とホースが置かれている。
幸樹は、香里を送り出した、仕事用の広い玄関に戻り、戸締りをした。モニターで、庭の前の内門と、丘のふもとの外門を、香里の車が通過していなくなっていることを確認し、ふたつの門を閉じてセキュリティをかける操作を行う。
人の気配のなくなったサロンを、好きなのか嫌いなのか、幸樹は自分でもよくわからない。
射水隆二は、自宅にも音楽スタジオを併設し、ここに仕事仲間を集めて、演奏や収録ができるように設計を行った。必要とあれば、ここに数日間缶詰めになってでも作業ができるようにだ。だからこのサロンは、音楽スタジオに隣接していて、ひと仕事終えた仲間たちがくつろぐ場でもあったのだ。そんなときは、ひどく賑やかだった。防音に気を配った設計のため、プライベートの空間まで騒ぎが伝わってきてやかましい、という心配はない。むしろ、射水隆二の息子と同時に弟子でもある幸樹は、同席する機会もよくあった。オーディオ機器はもちろん、ミニキッチン、冷蔵庫、電子レンジ、シャワールーム、ランドリーも完備され、廊下に出ればすぐトイレもある。ビリヤード台やダーツの的さえあった。こうした場での飲食にはケータリングを利用していたので、射水夫人が顔を出すことはほとんどなかった。一泊する気満々の男性たちは遠慮なく飲み、陽気に酔っぱらった。いちばんやかましく笑っていたのが射水隆二その人だった。小学生くらいまでの幸樹は、父によってその場で紹介されても、うるさい酔っ払いのおっさんばかりだなあ、としか思えなかったが。
――父亡き今、このサロンがにぎわう機会も、激減した。ここで仕事をすることが、なくはないが、さすがにまだ射水隆二ほどの仕事はできない。幸樹が主体になってここで夜通し騒いだのは、音大の仲間が集まったときが一番多いのではないだろうか。
幸樹は軽く頭を振って、照明を落とし、サロンのドアを閉めた。廊下の奥のドアから、プライベートのスペースに入る。射水隆二とその家族の、日常生活の場だ。「やや豪奢だが、ごく普通の生活空間」そのままである。
香里にああは言われたが、やはり食欲はあまりない。冷蔵庫を開けて、作り置きのきんぴらごぼうを数本つまんでくわえ、リビングのテレビをつけた。立ったまま、ニュースをぼさっとながめているうち、バラエティ番組になってしまったので、テレビを消した。ニュースの内容は全然頭に残らなかった。いつしか窓の外は日光の残滓を完全に失い、庭の明かりがかろうじて抵抗を続けている。屋敷の仕事用スペースは樹木に囲まれているが、プライベートスペースの方は木々がひらけ、市街地の明かりが小さな箱に詰め込んだ宝石のように息づいている。幸樹はカーテンを閉め、プライベート用の小さな玄関の戸締りを確かめて、2階へ上がった。浴室でバスタオルをつかみ出す。バルコニーのすぐ近くで、3階部分から張り出しており、壁2面と天井がガラス張りで、眺望を満喫しながら露天風呂気分を味わえる。ひと仕事終えた後、射水隆二はここで存分にリラックスしたかったのである。だが今夜の幸樹は面倒な気分が強く、簡単にシャワーですませてしまった。キッチンで冷たい麦茶を注いだグラスを手に、幸樹は寝室に引き揚げた。
両親ともいなくなったとき、幸樹は音大生だった。3人家族にも広い、父の仕事相手もほとんど来なくなった家を、幸樹は手放すことも考えた。何よりこの家にはいろいろなものが染みつきすぎている。……しかし音大生としては、性能のよい音楽スタジオが自宅にあるのはやはり、抗いがたい魅力だった。もはや音楽の世界に2本目の脚をつっこみかけており、今から音大をやめて別の生き方を求めるにも躊躇した。そもそも音楽に携わる生き方そのものは嫌いではないし、幼い頃からあまりにも身近にあったものだった。幸樹自身、幼い頃から個室のほかに、自分専用の防音室とピアノを与えられて育ったのだ。結局、そのまま射水邸に暮らし続けることを選んだ。音大を出て、本格的に音楽の仕事を始めたとき、やはりスタッフや関係者を気楽に呼べる環境は重宝した。だから幸樹は今も、広い屋敷にひとりで暮らしている。仕事の関係者で、プライベートのスペースに出入りを許可しているのはマネージャーだけだ。
それでもまだ、この屋敷を手放した方がよかったのでは、という考えが頭をもたげる。見慣れた部屋。幼い頃からずっと使っている部屋。……陥没を修繕して塗り直した壁。幾度か買い替えたラグ。清掃業者から追加料金を請求された床。配置を変更した家具。歪んで使いものにならなくなり、数年ほったらかしたままの内鍵――これはいい加減撤去してもいいかもしれない。いや、もう明日にしよう。ひと口飲んだグラスをサイドテーブルにおろし、幸樹はベッドに潜りこんだ。
疲れ切った頭の中の綿に、ゆっくりと、マーブル模様がしみ込んでくる。補色というのか、見ているだけで気分が悪くなるほど、ひどい色合いだ。のろのろと回る……誰かが頭の芯をつかんで、ひきずり回そうとしている……やがてその手は握りしめられ、力をこめて……やめてくれ……もうオレを解放してくれ…………。
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