#3 人事を尽くして奇跡を招く

 秀治の目の前に絶望の光景が現れる、その暫く前。

 

 鬼娘は昨日の失態を引きずっていた。樹の枝に寝転び、考え込んでいた。

「さてはて、どうしたものか」

 口笛を吹きつつ、空しくぼやく。たとえ自由になったとしても、昔のように暴れることは叶わない。では、契約を更新するのか。

「ないな。あの腑抜けと契約したところで、なに一つ得られそうにない。御免こうむる」

 と、つぶやいたところで彼女は気付く。これは思考の袋小路というやつだ。ならばどうするか。一旦思考を、止めるしかない。

「行くか」

 彼女は和装である。しかし千年も暮せば、その程度は些事でしかない。次の瞬間、鬼娘の姿は消えていた。角山の山野を、駆け巡りに飛び出したのだ。二周三周と山を駆ければ、やがて疲れが身体を満たす。一眠りする。目覚めた頃には、日も西に傾いていて。

「なーにやってるんだかね、私は」

 自嘲気味に、鬼は呟く。西日を浴びる。数刻を無為にした後悔が、彼女から察知力を奪っていた。気付かなかった。気付けなかった。は下から、近付いていた。

「うわあああっ!?」

 鬼娘は、見えない何かに四肢を絡め取られた。そのまま一息に、地面へと叩き付けられる。仰向けに落ち、背中を強く打った。

「かはっ!」

 肺の空気が、一気にこぼれる。口がパクパクと蠢き、呼吸がままならない。はその間に、娘の身体を拘束していく。

「かはっ……。はなっ……せっ……!」

 なんとか呼吸を取り戻した時には、既に手足が縛られていた。解こうと、引きちぎろうと、暴れたものの。拘束はギチギチと響くばかりで。

「いったいなんだってんだい……」

 下手人、動機。そして目的。思考を巡らせる。考える。しかし彼女の耳に、不穏な囁きが割り込んで来た。

『お前の封印をこれから穿つ』

『お前は自由になる』

『お前には、復讐すべき相手が居る』

「やめろ。やめてくれ。お前は誰だ。私は復讐など望んでいない!」

 鬼娘は、声を張り上げた。同時に、彼女の目が黒い靄を捉えた。いつの間にやら己の身体が、頭部以外のほとんどを取り込まれていた。

『嘘だ。それは弱いお前の妄言だ』

「違う! 違う!違う! お前は何者だ! 姿を現せ!」

 襲い来るドス黒い声。抗う度に思考が引き寄せられる。

 己が歪になっていく。

 己の思考が食われていく。

 己が黒く染まっていく。 

 そしてついに決壊の時が来た。まず封印の塚が、弾けるように破壊された。続けて、鬼娘の身体が大きく跳ねた。塚と山に縛り付けられた契約が解け、封じられていた鬼本来の力が、奔流と化した。その行先は――。

「がはあっ! ……! あああ! ああっ! ぐあああっ!!!」

 決して大きくはない身体で受け止める鬼の力は、とてつもなく重いものだった。己が食われていく。己の身体が軋んでいく。それと同時に。

 ワタシハジユウダ。

 ワタシニハフキュシュウスベキアイテガイル。

 ダレダ。ソイツハダレダッタ。

 ソウダ。『カワノセ』ダ。カワノセノモノハユルサナイ。

 スベテコロシテ、ワタシハジユウニ、ジユウニナル。

 ドス黒い思考が流れ込む。心が。思考が。全てが黒に染まっていく。それまでの思いが、塗り潰される。やがて、全てが。弾けた。


 砂埃。土煙。それらが晴れてくる頃。巨体の影が、のっそりと立ち上がる。高さにしておよそ三メートル。人間からしてみれば、巌のようなものだった。

 コロセ。タオセ。ウチクダケ。スベテヲメツシテジユウニナル。

 鬼の脳内には、呪詛じみた声がこだまする。鬼の身体には、殺意が満ち満ちていく。

 二本の角。

 赤き肌。

 鉄の如き牙と爪。 

 そして、その殺意の目前に立つのは。

「昔話や、絵巻で見聞きするものとは、また違った迫力がある……。何故にまた、このタイミングなのだか」

 川瀬当代。その最後の日に、およそ千年ぶりの事態に遭遇した男。大太刀鬼角砕を背負い、鬼の目の前、数メートル先に立つ男。川瀬秀兼は、オフロードバイクを降りる。刀を抜き、鬼を見据えて構えを取った。

「とはいえ、流石に文献通り『はっきり見えよる』。ならばやってやれないことはあるまいて。川瀬当代、川瀬秀兼。推して参る!」

 川瀬秀兼。長年に渡る人と鬼の契約。その最後の担い手は。一縷の望みを抱いて、殺意と狂気に染まった鬼姫へと挑んだ。


 ***


 そして――

「爺ちゃん! おい、爺ちゃん!」

 息せき切って駆け寄る川瀬秀治。しかし祖父はピクリとも動かない。秀治の呼び声は、空しく角山にこだまする。

「ガアアアッッッ!」

 殺意に染まった鬼の咆哮が、彼の叫びを打ち消して轟いた。そのままゆっくりと、秀治たちに向かって動き出す。

「ち、畜生! やらせるもんか!」

 状況に流されるままだとはいえ、秀治は動いた。祖父と宝刀を回収し、肺が破裂してもかまわないほどの猛ダッシュで、道端の森へと飛び込んだ。ひとまずの安全を確保し、祖父を横たえる。息があることを確認して、胸をなでおろした。

 どうする。一体どうする。

 荒い呼吸もそのままに、秀治の思考は加速する。近くの木の根元にうずくまり、頭を抱えて考え込む。

 あの鬼が出ている以上、封印が破られたのは明白。つまり、鬼と川瀬の契約は解除されてしまった。そして今、祖父は死の淵にある。鬼そのものは、なんとかやり過ごせている。しかし、いずれは見つかるだろう。その先は――想像せずとも、分かってしまった。ならば、逃げるか。

「それはダメだ」

 先走った自分の思考に、思わずつぶやく。あんな姿をした鬼を、街へと向かわせる。それはもはや、川瀬自体の敗北だった。と、すれば。

「挑むしか、ないのか」

 ほとんどそれしかない選択肢をつぶやき、一族の宝刀を強く握った。祖父にあしらわれる程度の自分が、あの鬼を相手に。それは。

「死ぬ」

 あっさりと、結末が見えた。だが挑まなければ、コトはもっと最悪になってしまう。

「どうすれば……」

「やるしかねえだろ」

「え」

 思考のどん詰まりに、一つ声が響いた。顔を上げると、いつでも身近に響いた、三つの声がいた。

「ねえ、いつまでまよってるの?」

「腹を括らぬか。契約もなにもない。鬼を止めねば、川瀬は街の者に永遠に恨まれるぞ」

「一蔵、二平、三吉……」

 思考のどん詰まりを貫くように、彼らはそこに立っていた。よく分かったねという言葉を、ぐっと飲み込む。だって彼らは、いつでも身近にいたのだから。

「さあ、行くぞ。早くしないと全員まとめてお陀仏だ」

「そうだよ! ところで、『おだぶつ』ってなに?」

「二平。それは後でゆっくりとだ。礼は要らぬ。早く立て」

「分かった……」

 足に力を込め、立ち上がる。既に辺りは暗かった。恐らくは不利。いや、そもそも無理のある戦いだ。手足が震える。視界が狭まる。しかしその片隅に、鈍い光が灯った。

「ごめん爺ちゃん。刀、借りるよ?」

 未だ目覚めない祖父に詫びて、秀治はもう一度刀を握った。一見何の変哲もない大太刀。しかし彼の目には、今もほのかに光って見える。重みがずしりと、手にのしかかる。意識が冴えるような感覚。秀治の震えは静かに止まった。


 ***


 鬼は、無理に森へと踏み込むことはしなかった。

 『カワノセ』の忌み名を名乗った無謀な老人は、既に痛め付けた。なにもせずとも、その内息絶えるだろう。

 その老人をさらって行ったわっぱも同じだ。隠れたままでは何も出来ない。

 あのような無様に陥った同類を見て、なおも勝利の手法を思い付けるか。不可能。よって死に体。むしろ森に踏み込むほうがリスクが大きい。小回りが利かない分だけ、不意討ちを許す可能性がある。

 狂気と殺意に溢れているにもかかわらず、角噛御前は酷く冷静冷徹であった。否、逆かもしれぬ。殺意に狂っているからこそ、遊びがないのか。

 サア、ヤマヲオリヨウ。

 ヤマヲオリテスベテヲホロボソウ。

 オニノジユウハココカラハジマルノダ。

 鬼は高らかにわらった。もはや己の前に敵は居ない。このままゆるりと山を降り、街を恐怖に陥れ、鬼の復活を高らかに叫ぶのだ。彼女はゆっくりと、大地を踏みにじる感触を味わうように、歩き出した。


 そんな鬼の行動と前後して。秀治と三吉は細心の注意を払い、鬼の姿を追うべく森を進んでいた。

 『鬼角砕』の、秀治にしか見えぬ光が。彼を導いていた。時折焦りから足がもつれるが、致命的な失敗は訪れなかった。三吉をサポートとして頭に乗せ、道を急ぐ。三吉には古老ゆえの知恵がある。血気盛んな一蔵や、幼い二平。彼らを連れて行くよりも、かなり心強かった。そして鬼を追うさなか。秀治は、少し前のやり取りを思い返していた。

『背後を取って不意討ちかあ……。単純だけど、大丈夫かな?』

『何を言ってやがる。旦那は、旦那の爺さんに勝ったことがないんだろう? 真正面から突っ込んだって、ただただおっ死ぬ。それだけだ』

『しんじゃだめ!』

『二平、静かに。古来より鬼と正面を切って戦い、勝ちを得た人間などそうそう聞いいたことはない。ならば、一番可能性のある手に懸けるのが最善だ』

 不意討ちは、一蔵からの提案だった。尻込みをする己に叩き付けられたのは、魂を奮い立たせる朋友の声。励まされ、鬼角砕を握り締める。

 そういえば。初代は、あの角噛御前を相手に、契約を結ばせたお方は。

 湧き上がる、小さな疑問。しかし秀治は首を振り、前を見据えた。友に対して、頼みを告げる。

『三吉、申し訳ないけど一緒に来て欲しい。二人は……爺ちゃんを……お願い』

『雑妖の身じゃ出来ることは少ねえが、まあやってやんよ』

『まかせて! おきるようにおーえんしてる!』

『良かろう。怖気ついても、許さぬぞ?』

 いつも通り返って来る声に、秀治は心を新たにした。そうだ。やらねばならない。やらねば、何もかもが終わってしまう。

「そうだ。やらねばならない」

 思考が現在へと戻って来る。あえて声に出し、はやる心を抑えこんで足を動かす。するととうとう、視界に鬼の姿が映り込んだ。頭の上から、声がする。

「そろそろ頃合いだ。準備はいいか?」

 思えば鬼へと向けて急ぐ間も、この老雑妖は冷静だった。現在に至るまでの、人には分からぬ過酷な経験が、そうさせるのか。

「行ける。もう迷わない」

 秀治は意を決した。彼の目には、鬼の広い背中が見えていた。つい昨日までは白かった肌。血のような朱色に染まっていた。絹のようだった白髪も、一本一本が棘のように太くなっていた。

 あれが、本来の鬼か。秀治の喉が、ゴクリと鳴った。息が荒い。上を向き、深呼吸をして整える。この手が通る確証はない。卑怯だという思いを、必死に押し殺す。

 三吉に小さく別れを告げ、宝刀を抜く。両手で、強く握った。鬼の威容に負けぬ為。鬼の鉄肌を貫くが為。

「やるぞ」

 口の中だけでつぶやき、決意とともに足を踏み出した。あくまで静かに。木立を抜け、声もなく。一陣の風と化して、鬼へと向かう。

 鬼の目が、自分を向いた。気付かれたことを悟る。だが戻れない。戻る訳にはいかない。鬼の身体が翻り、勢いの付いた拳が向かってくる。反射的に、目をつぶってしまった。

「あ」

 詰んだ。そんな思いが、声に出た。このまま拳に潰されて、死ぬ。そう思っていた。だが、そうはならなかった。

「~~~~~っ!」

 言葉にし難い、野太い唸り声が耳に入った。そっと薄目を開ける。鬼の拳が、中空で静止していた。もう少しだけ目を開く。途端、まばゆさに目を焼かれた。一族の宝刀が。『鬼角砕』が。いつもよりもはるかに強く、鋭く光っていた。鬼の拳、その前面に、バリアのようなものを張っていた。

【結界術。いやいや、この姿でも行使できるみたいだね】

 秀治の耳が、声を拾った。涼やかで、それでいて強い声だった。

「な、なに……が……?」

 不可解な事態に、怯えた声が出てしまう。しかし事態は、彼の動揺などそっちのけだった。

【いやはや。暫く使ってないと線が細くて大変だったよ。間に合って良かった】

「キサマハ……キサマハーッ!」

 光が『鬼角砕』から離れ、人の形を取り始める。その姿に鬼は叫び、狂乱し、拳を振るう。しかし全てが、結界と思しきものに受け止められていた。

【そして、その姿を見るのもあの時以来だね。『山の鬼』、『渕御前』。いや、今は角噛御前か】

「アアアアアアア! クソッ! アノオリノ……アノトキノウラミィ!」

【恨むか? 恨むよね。でも君は『そう』じゃない。私には分かる】

 秀治は、声を上げられずにへたり込んでしまった。ヒトガタの光は完全に刀と分離した。狩衣姿の男へと変じた光は、鬼の荒れ狂う拳を、するりするりとかわしていく。そのままふわりと、鬼の背後へと男は浮かんだ。

【あの時叩き折った角、ちゃんと生え変わったんだね。良かった良かった。でも今用があるのは、君の角じゃない】

「キサマ……。ヒデミツ……。ヤメロ……!」

 笑みを浮かべたかのような声に、鬼が動揺する。『ヒデミツ』と呼ばれた男は意に介さず、そのまま何事か唱え始めた。

「アアアアア! アアアアア! ウアアアアア!!!」

 朗々とした詠唱が響く。鬼が膝を落とし、悶え始めた。それだけで鬼の無力化に成功しただろう。『ヒデミツ』の視線が、今度は秀治へと向いた。

【はじめまして。その刀を持っているということは、君は私の子孫かね?】

「あ……はい。そうです。川瀬秀治、といいます。貴方、は……もしか、して?」

 腰の抜けたまま、気圧されるままに、秀治は応じた。置きた事態の把握は追いついていないが、狩衣姿の男。その正体にだけは見当がついていた。

【ご明察。君の先祖で川瀬の初代。あの鬼とかつて戦い、契約した本人だ】

「御先祖様。川瀬秀光かわのせひでみつ――」

【いかにも。あの鬼の封印が解けた故、遥か霊界より駆け付けた次第。遅くなってすまなかった】

「は、はあ……」

 秀治は、未だに立ち上がれなかった。

 それほどに、この事態は想定外だった。奇跡が起きたとしか、言いようがなかった。

 秀光は、秀治にも分かるよう、コトのあらましを語ってくれた。


 陰陽の心得があった彼は、現世を去る直前、宝刀を通じてこの世との繋がりを残していた。それこそが、秀治が時折感知する、鈍い光の正体だった。

 ともあれ、繋がりによって秀光は今回の事件を察知した。しかし、千年の間に糸は細くなり、繋ぎ切るまでには時間がかかってしまった。結果、全てが終わる寸前での登場となってしまったのだ。

「……!」

 秀治は、悟る。

 もしも、秀兼と秀治が連れ立って山へ乗り込み、同時に戦いを挑んでいたならば。

 もしも、あの鬼が一気呵成に森に乗り込んでいたならば。

 もしも、秀治が全てを投げ捨て、事態を諦めていたならば。

 きっと全ては、終わっていた。


「ありがとうございます……!」

 秀治は頭を垂れた。もはやそれしかできなかった。だが秀光は、ニコリと笑った。

【我が子孫よ。よく戦ってくれた。だが、現状の彼女は人の手には余る代物だ。故に狂いを解き、身体も整える。今の私は世に言う幽霊だが、その程度は造作もない】

 凛とした声で告げ、秀光は鬼の正面に立った。なんらかの祈りの言葉が、口から紡がれていく。秀治には、その意味が読み取れない。今の川瀬には、その手の知識が受け継がれていないからだ。どちらかと言えば、武芸のみが引き継がれていた。

「ウ、ウアア、ア……」

 鬼のうめきが聞こえる。だが、先刻と比べればあまりにも静かなものだった。そしてそれすらも、徐々に静まっていく。

 鬼の姿は、光に包まれていた。秀治にはなぜか、その光は美しいものに思えた。

「……一体全体、なにが起きたのだ?」

 気が付けば、三吉が隣に立っていた。秀治は一言、真実のみを告げた。

「奇跡が、起きた」


 ~~~~~~~~~~


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