#2 人には人の考えがある

 朝の光が降り注ぐ、川瀬家の庭。木々に止まる鳥がさえずり、朝のひんやりとした空気や朝露とともに、のどかな空気を醸し出す。

「キエアアア!!!」

 だがそののどかさは蛮声と、続く剣戟の音によって無惨にも引き裂かれた。小鳥が驚き、木から散り散りに飛び出していく。

 ふらちな音の元凶は、川瀬家備え付けの道場にあった。日課にして伝統たる、朝稽古が行われているのだ。

「メエエエン!」

 秀治は雄叫びを上げて敵手の面を狙った。しかしその剣閃は、いともあっさりかわされてしまう。竹刀は空しく、床を叩いた。

「剣先に迷いが見えるぞ!」

 道着のみを纏った老境の男性が、無防備になった面を叩く。秀治の祖父、秀兼ひでかねである。

「ぐっ!」

 面を見事に決められ、秀治は唸った。防具のお陰でダメージは少ないが、こうも好き勝手にされては怒りが募る。

「おあああ!!!」

「甘い!」

 強い怒りは気を乱す。乱れた気のままに突っ込んだ剣先は、秀治の思惑をあっさりと開示していた。当然、祖父に見破られていた。竹刀はあっさりと竹刀で擦り上げられ、またしても面を引っ叩かれた。

「くそっ!」

「ほれ、掛かって来い!」

 およそ二十メートル四方の道場に、祖父と孫の声がこだまする。道場の壁には、竹刀の他にも木刀、練習用の槍、薙刀等、多くの武器が掛けられていた。他にも、難しそうな字の書かれた掛け軸や、神棚が飾られている。そうした中でも異彩を放つのが、神棚の下に安置された大太刀だ。一族に伝わる当主の証にして、角噛御前を打ち据えたとされる名剣、『鬼角砕おにつのくだき』である。

 しかし秀治は、その鬼角砕に違和感を抱いていた。彼が鬼角砕に視線を向ける際、鈍く光って見えることがままあるのだ。そして、今も。

「あっ……」

「また鈍っておるぞ!」

 一方的に打ち据えられる中、秀治は一瞬、鬼角砕に意識を飛ばした。当然それを見逃す秀兼ではない。容赦なく、面に一撃を叩き込む。一本だ。

「くっ! ……まだまだぁ!」

 秀治は慌てて意識を引き戻し、中段に構え直す。しかし。

「もうよい。今日はここまでとする」

「爺ちゃ……」

「明日までにその迷い、振り切って来い」

 祖父は一方的に稽古を締め、秀治を置いて去っていった。


 ***


 シャワーを浴び、道着を着替え、朝食を済ませた後。自室のふすまを固く閉める。部屋の片隅にかけてある、日めくりカレンダーを一枚破く。その下には、大きな『30』の表示があった。

「どうしたものだか」

 破いたカレンダーをゴミ箱に投げ捨て、秀治は畳に寝転んだ。

 覚悟を決めてしまえば済む話だ。だがそれには踏ん切りが付かない。

 では継承を断ってしまえば良いのでは? そうもいかない。祖父は齢八〇を越えてしまった。今でこそ元気に日々を営んでいるが、いつなにが起きても不思議ではない。その時に継承が成るのか。秀治には分からなかった。

 ハッキリ言ってしまえば、一族の責務を自分の代で絶やすのには抵抗がある。

 それに、一度拒否してしまうと、そのままズルズルと逃げてしまいかねない。その辺りは、あの鬼の言うことがもっともなのだ。

「いっそ、本当に願い下げ……いや、ダメだ」

 秀治は思わず極論を口に出してしまう。だが、すぐに自分で打ち消した。

 昨日の鬼のあの表情。あれ程切ない表情は、見たことがなかった。だからこそ、彼女を解放するわけにはいかなかった。

「堂々巡りかぁ……」

 見上げた天井に眠気を誘われつつ、秀治はぼやいた。なにか状況が一変するようなことでもあれば別だが、このままでは。

「らちが明かないな……」

 確信をぼやく。状況を変えるには、行動と他者の視点が必要だ。しかしあの三匹にせよ鬼にせよ、昨日の今日で会うには体裁が悪かった。

「爺ちゃん……」

 最後の手段を思い浮かべて、やはり首を振った。たしかに、一度話をするべきなのは事実だ。事実なのだが、自分の迷いを知られるのも恥ずかしかった。なにより。

「こんな悩みを打ち明けたって、どうせ鼻で笑われるだけだっての……」

 最近めっきり話をしていない祖父の、いかめしい表情が脳裏に浮かぶ。そうして延々と考えを巡らせている内、彼の意識は遠のいていった。


 ***

 

 会話の少ない、気だるい食事を終えた後。川瀬秀兼は一人仏間に篭もり、仏壇に手を合わせていた。その真ん中には彼の一人娘、即ち秀治の母でもある秀美ひでみの遺影が飾られている。花のような、笑顔だった。そんな遺影を前に、秀兼は居住まいを正して口を開く。そうすべき理由が、彼にはあった。

「明日、あの子がようやく十五になる。十年間、なにもかもが手探りだった。でもな、なんとか育てるだけは育てられた。後は一族の責務を引き継ぐだけ。この十年、それだけが望みだった」

 つくづく一方的な望みだなと、彼は己を嘲った。達成感と満足の裏には、たった一人の孫に責務を押し付けることへの、罪悪感があった。

「儂は、あの子の育て方を誤ったかもしれん。今朝の態度を見てもそう感じた。お前にも、いろいろと迷惑をかけた。さぞ恨んでいるだろう」

 今朝の鈍い剣先を思い出しつつ、彼は一拍置いた。背筋を伸ばし、改めて遺影を見据えた。娘の笑顔が、心を穿つ。しかし、口から溢れる言葉は止められなかった。

「……秀美。いや、お前だけじゃないな。先祖代々の皆々様。なにとぞ、なにとぞ。此度の継承がつつがなく終わりますよう。御加護を……」

 深々と頭を下げ、縋るように祈る秀兼。孫にはとても、見せられる姿ではなかった。やがて声を押し殺した嗚咽が、部屋から漏れ出した。


 ***


 春先の天津川あまつがわは、桜の花に満ちている。川沿いに植えられた、両岸約千本ずつの桜並木が、道と川を彩り、人々の目を和ませるのだ。中でも昼頃は格別に日当たりが良く、陽気に満ち満ちている。

 そんな景色の中、木立のざわめきに紛れて、三匹の雑妖が思い思いにくつろいでいた。

「まあ相変わらずこの散歩道には人がよくいるもんだぜ。最近、大通りよりも活気に溢れてるんじゃないか?」

 一蔵が大抵の人間には『見えない、聞こえない』のをいいことに、ざっくばらんな感想を漏らした。天津川の両岸には、桜並木に沿って遊歩道が設置されている。ウォーキングやサイクリングのコースとして、天津市民に親しまれていた。

「このどーろは仕方ないよいっちゃん。ねえ、さんちゃん?」

 それを引き継いで三吉に話をふるのは二平だ。その眼に映るのは、対岸の天宮あまみや地区。天宮と津上、二つを合わせて数十年前に成立したのが、今の天津市だった。

「……」

 しかし三吉の反応は鈍かった。無言で川を見ているが、思考がどこかに飛んでいるようだ。

「さんちゃん?」

「ん? あ、ああ。確かにな」

「おいおい爺さん。とうとう耄碌したか? 頼むぜ。まだまだ爺さんを頼らないとキツい時があるんだ」

 二平の呼びかけで意識を取り戻す三吉。そこへ冗談を投げかける一蔵。三吉は頭を振って思考を正した。その姿は、なにかを振り切るようだった。

「どーしたのさ、さんちゃん」

「いや……秀治の奴のことを、ちょっと、な」

「あー。なるほど。そいつはしゃあない」

 二平に問われて、答える三吉。同意した一蔵は、いつの間にか木の上に登っていた。その目に対岸は、どう映っているのだろうか。

「でもさー、もーさぁ。ここまできちゃったらやっちゃったほうがはやくないの?」

「その通りよ」

 二平の疑問を、三吉は肯定した。そして言葉を続ける。

「あ奴は少々考え過ぎておる。まずは義務を義務として諦めるのが当座の対応だろうに、引き継いだら全てが終わると思い込んでしまっておる」

「かーっ! 旦那も馬鹿だなぁ。考え過ぎだ!」

「……むずかしいことは分かんないや」

 2人の話が理解しにくかったのか、二平は身体を地面に横たえた。いささか幼いが、彼の場合仕方ない側面もある。

「む……。ここまでとしよう」

「そうだな、二平が眠くならねぇ話の方がいいや」

 眠そうに転がった二平を見た二匹は、出口の見えない会話を打ち切った。三吉が片腕で二平を抱き上げて歩き始め、一蔵はするすると桜の木を降りて付いて行く。その後彼は、そっと追い付いて二平を受け取った。

「そういや、旦那と初めて会ったのもこの時期じゃなかったか?」

 桜並木の遊歩道から外れ、人通りの少ない道を歩く最中。ふっと思い出したように一蔵が口火を切った。

「うん……たしか、きれいなはながさいてて、ぽかぽかしてた、はず」

「そういえばそうだったな。一蔵を、怪我をした動物と勘違いしてたか」

「爺さん、勘弁してくれ。いきなりこんな生きもんが見えたら、そりゃあそうなるだろ」

 眠たげな目をこすりながら二平があいづちを入れ、三吉が当時を思い出し、一蔵が項垂れる。そうして三匹から笑いが漏れる。幾分か気分の和らいだ二平が、ポツリと呟いた。

「けいしょう、うまくいくといいね」

「そうだな。あ奴はきっとやる。信じてやれ」

 呟きを拾った三吉が、二平の頭を撫でた。二平は気持ち良さそうに目を細め、保護者たちに笑いかけた。不安はあっても、信じるしかない。三匹の考えは、この点においては一致していた。春の陽気がいつまでも、三匹の雑妖を温めていた。


 ***


 時は夕方。津上でもとりわけ山近い地域にある川瀬屋敷。秀治は未だ、答えの出ない逡巡から抜け出せずにいた。結局、なにをやっても心がざわつくばかりだった。家にいても休まらず、かといって外をぶらつき、あの三匹などに出会ってしまうのもはばかられた。朝から全く、進展がない。

「集中……集中……」

 それでも残された時間を少しでも有意義に使おうと、秀治は道場で木刀を振っていた。そのかたわらで、窓から西日が入り込む。春にしては、妙に熱い日光だった。

「なんとか、なんとかせめて」

 秀治の思考は、朝からずっと袋小路のままだった。結局一時間ほどしか眠れず、昼食もそぞろに時を過ごした。彼の脳内では、ずっと鬼の言葉が反響していた。

『願い下げだ』

『どうしたらいい』

 昨日の会話を振り返るたび、秀治は己を責め立てる。なぜ言われっ放しで終えたのかと、一矢報いたくはないのかと。

「この悔しさだけでも、せめて……」

 必死で剣を振り、今後の身の振り方を考える秀治。しかしその思考は、祖父の一声で断ち切られた。

「秀治。すまんが醤油を切らしておった。買って来てくれないか?」

 道場のふすまが開き、作務衣の上下を着た祖父が顔を出す。無慈悲なおつかいの指令だった。短く刈り揃えた白髪といい、彼はどこか職人のような空気をまとっている。断るという選択肢は、秀治の中には存在すらしていなかった。

「ま、仕方ないか」

 秀治は、ぼやきながら汗を拭いた。続けて、部屋へと財布を取りに行く。そのまま、家屋の外へと踏み出した。敷地にあるバラックの車庫から、愛用の自転車を引っ張り出す。その奥には、黒のオフロードバイクがあった。祖父の趣味と、万が一の際に山へ駆け上る用途を兼ねた物だ。彼は今でも週に一度はこれに乗り、郊外を走っているらしい。

「オレより、遙かに良い交通手段があるのにな」

 もう一言ぼやいてから自転車に跨がり、夕暮れの近い津上の街へと漕ぎ出した。ともかく今はやるべきことに集中する。それしかない。たとえ答えが出なくとも。その背中に向けられる、祖父からの視線に気付けずとも。

「行ったか……。やれやれ、手がかかる孫だ」

 孫の背中が視界から消えた後、秀兼は窓から離れ、溜息を吐いた。正直言って、孫が迷う様は見られるものではなかった。

 秀治は早くに母を亡くし、更にその後の不和が元で父が川瀬の家を去ってしまった。その為、人生の殆どを秀兼の庇護下で過ごしていた。

 当然、彼にも祖父と孫として以上の情はわく。ただの跡継ぎとして以上の指導教育を、秀治に課してきたつもりだった。

「それでも、いや、だからこそ気の迷いは生まれてしまうのか……。人の心は、複雑怪奇なり……」

 台所へ戻り、呟きながら冷蔵庫を開ける。すると、ドアポケットには醤油がきっちりと入っていた。

「この程度の嘘ぐらい、普段なら見破るだろうに……。まあ明日の夜までは、余計なことを考えぬようにする他ないか」

 嘆きを隠さぬままに秀兼は醤油を鍋に入れ、火を強くした。随分と恨み言は言われるだろうが、孫の気が少しでも紛れるのならば。

「それでいい」

 彼は笑みを浮かべた。しかし次の瞬間、それが曇る。

 ギシ……ギシィ……。

 築六十五年にはなろうかという屋敷が、やにわにきしんだ。しかし、揺れは感じない。なんとも言い難い、奇妙な感覚が秀兼を襲う。彼は『見える』人間ではない。しかし、嫌な予感が彼を満たしていた。

「……山かもしれぬな。当代として、最後のけじめになるやもしれん」

 火の気を消して道場へ向かう。万が一に備えて襷を締め、一族の宝剣を手に取った。続けて居間へと向かい、筆を取り、そのうち帰って来るだろう秀治に向けて、簡単なメモを残した。

「急ぐぞ」

 小さく一言を残して、彼はオフロードバイクのもとへと向かった。


 ***


 十数分後。

「爺ちゃん! オレを騙し……爺ちゃん!? あれ、居ないの?」

 怒れる秀治が帰宅する。醤油は手にしていない。彼は道中で偶然に例の三匹と遭遇、事実を思い出したのだ。三匹を引き連れ、大足で踏み込んだ居間には、メモだけが残されていた。

「お、おい。そりゃないよ……」

「どうした旦那」

「どうもこうもない、オレは山に行って来る! みんなは自分で判断してくれ!」

 メモに気付き、破り捨て。道場へ飛び込み、木刀を手に持つ。勢いのまま、山へ向けて自分の足で走り出す。付いて来ていた三匹さえも、置き去りにして。

「爺ちゃん……何も起きてないでくれよ……?」

 焦燥のまま走り出した彼の願いは、十数分後、無惨に打ち砕かれることとなる。

「ハッ、ハッ! ……ッ!」

 鬼娘の居所。角山山中の石の塚。その痕跡は、霞のように消えていて。

「爺ちゃ……ごぜ……」

 祖父は地に伏せ、本性を取り戻した角噛御前が立っていた。



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