2 坂本龍馬との出逢い

 慶応三年十一月十五日、グレゴリー歴一八六七年十二月十日。

 師走に近い京の夜はひと際寒く感じられた。昨夜から雨が降ったのか、ところどころに泥濘ぬかるみができている。江戸時代の末期でも夜の町は、街灯も少なく真っ暗闇に近い暗さなのだが、今宵は満月ということもあり、厚い雲間から時折り顔を覗かせる月が、静かに古い街並みを照らし出していた。その薄闇に紛れるようにして、御高祖おこそ頭巾と覆面で顔を覆った、お蘭と簡易龍馬が姿を現した。

「ほら、あそこが近江屋だよ。そのうち峰吉と岡本健三郎という男が、出てくることになっているから、わたしが中岡慎太郎を誘って連れ出すから、あなたは表面からだと怪しまれるので、屋根伝いに龍馬の宿泊している部屋まで行って、そこで着物を取り換えて入れ変わったら、あなたが入った窓から龍馬を外に出すのよ。いいですか…。あまり時間もないことですから、手早く手短にやるのよ。それから、龍馬には何が起こってもじっとして、屋根の上にでも隠れているように伝えてちょうだい」

「わかったとよ…」

 簡易龍馬は頷いた。

「そろそろ出てくるころだわ…」

 お蘭がいうと、間もなく峰吉と岡本らしい男が店の雨戸を開けて、何やら話ながら提灯を下げて出てきた。

「出てきたわ。わたしは中岡慎太郎を誘い出すから、後は頼んだわよ…」

 ふたりの姿が見えなくなると、近江屋の前に行くと雨戸を叩いた。

「もし、夜分遅くに申し訳ありませぬ。こちらさまに中岡慎太郎さまがお出でかと存じます。急用にございますれば、何卒お取次ぎのほどをお願い致しまする…」

 すると、雨戸が開いて中から、相撲取り上がりのような大男が顔を出した。

 お蘭はかくかくと説明すると、大男はムスっとした表情で姿を消した。しばらく間が空いて、中岡慎太郎が出てきた。

「おんしはあまり見かけぬ顔じゃが、わしに何か用かいのう…」

「はい、実は折り入ってお話ししとうことがございますれば、ぜひともご同道のほどをお願いたしまする」

「今はそれどころではないのだが…」

 と、いいつつも、美女に声をかけられた手前、中岡は黙ってお蘭の後について行った。

簡易龍馬はふたりを見送るとすぐに、ひらりと屋根に舞い上がると屋根伝いに足音も立てずに、龍馬のいる部屋を目指して走り出した。額を切られて死ぬ役割だけのためにのみに造られた、C級簡易アンドロイドとは思えないほどの見事さだった。

 簡易龍馬は、龍馬のいる部屋までくると、窓の外から声をかけた。

「龍馬どの、黙ってわしを中に入れてくれんかいのう。怪しいものじゃないき、わしもおまんの仲間じゃきに…」

 窓が開いて龍馬が顔を出した。

「誰かは知らんが、とにかく中に入りんしゃい。わしゃァ、今風邪ば引いとるき寒いうてかなわん」

 簡易龍馬はひらりと窓から入ると、後ろ手で障子を閉めた。

「龍馬どの。もう時間があまりないんじゃき。何も云わんと、着ているものを交換して窓から出て、屋根の上に身を隠してもらいたいんじゃ、その間何があっても絶対に動いたらいかんぜよ。そのうちにお蘭という女子が呼びにくる。そうしたら、もう安全じゃきにお蘭と一緒に行きんしゃい。

 さあ、もう時間がないきに、急いで着物ば脱ぎんしゃい…」

 簡易龍馬はいうよりも早く着物を脱ぎ始めた。龍馬もつられるように脱ぎ出した。

 すっかり着替えが終わると、簡易龍馬は障子を勢いよく開けた。

「さあ、ここからすぐに屋根の上に登って隠れていんしゃいよ…」

 龍馬は窓から出て屋根に上がろうとしていると、

「あ、これも持って行けばよかと…、顔ば見られたら困るき…」

 簡易龍馬は、障子越しに自分の被っていた頭巾を渡したが、龍馬からは簡易龍馬の顔は確認することはできなかった。

 近江屋の店の後ろのほうに身を潜めていると、下のほうで何やら物音が聞こえてきたが、それも数秒で収まり元の静けさが戻ってきた。

「龍馬さま、もう大丈夫でございます。さあ、わたくしとご一緒にお出でください」

後ろのほうで、不意に女の声がした。龍馬が驚いて振り向くと御高祖頭巾の女が立っていた。

「おまんは、さっきの男が云っていた、お蘭さんかい…。いったい下では何があったんじゃい…」

「詳しい話はのちほど…、さあ、宿を取ってありますゆえ、ご一緒くだされませ…」

 お蘭は龍馬の手を引くようにして、近江屋の裏手のほうに回った。

「龍馬さま、わたくしの身体にしっかりとお掴まりください」

 龍馬は言われたように、お蘭の肩口をしっかりと抱きとめた。次の瞬間、お蘭と龍馬の体は、満月が雲の合間に見え隠れる天空に舞い上がり、今朝がた降った雨がところどころに水溜まりを残す大地に着地していた。

「さあ、急いでまいりましょう」

 お蘭と龍馬は、月が見え隠れする薄闇の中を、ただひたすら走った。お蘭の宿泊している宿に着いた頃には、ようやく雲の切れ間から京の満月が見事な姿を現していた。

「こちらでございます。どうぞ…」

 お蘭は自分の部屋へと龍馬を案内して行った。簡易龍馬の着物と交換した龍馬を見ても宿の者たちは、こちらが本物の龍馬だとは誰も分からなかった。

「龍馬さまはお風邪を召していらっしゃるのですから、わたくしが布団を敷いて差しあげましょう。こちらへどうぞ…」

 お蘭は襖を開けると、奥の間に布団を敷き始めた。

「さあ、出来ました。風邪をひいた時はゆっくり休むのが肝心でございます。お召し物を脱いでお休みください…」

 龍馬は言われたとおり、着ているものを脱いで布団に潜り込んだ。

「それに、龍馬さま…。お風邪をひいた時には、身体を温めるのが一番と申します。

 わたくしが龍馬さまを温めて差しあげましょう…」

 お蘭は、そういうと龍馬の枕もとで帯を解き、着ているものを脱ぎ始めた。

 行燈の薄明かりが揺らめく中で、お蘭は着ているものをすべて脱ぎ終えると、龍馬の左側の布団をめくるとするりと体を滑り込ませてきた。下帯ひとつの龍馬の身体に否応なしにお蘭の乳房が触れた。

「さあ、龍馬さま。わたくしが温めて差しあげましょう…」

 龍馬に覆い被さるようにして体を押しつけると、龍馬の胸にお蘭のはち切れんばかりの乳房の盛り上がりが、龍馬を圧迫するように押し当てられてきた。

「おお…、おまんの乳はまっことでかか乳じゃのう…」

 龍馬は右手でそっとお蘭の乳房に触ってみた。するとお蘭は軽く反応を示しながら言った。

「龍馬さま、そのようなことをしてなりませぬ。いまのあなたは、お風邪を治すことに専念してくださいませ。もし、そのようなことがしとうこざいますりば、龍馬さまのお風邪が治りましたら、いかようにでもして差しあげますれば、今宵のところはどうぞ、ごゆっくりとお休みくださいませ…」

「そうは云われてものう…。男と女が裸でこうしているんじゃき、それはあんまりにも殺生というものじゃなかと…」

「いいえ、いけませぬ。それにわたくしは人間ではありませぬゆえ…」

 お蘭に触れていた龍馬の手が止まった。

「何…、人間じやなかとって…、それじゃおんしは幽霊とでも云うのんか…」

「いいえ、幽霊でもありませぬ。龍馬さまには信じて頂けるかどうかは分かりませぬが、わたくしは…、つまり…、人形のようなものでございます」

「何、人形…。こりゃあ、たまげたわ…。人形が口を利いたり動いたりするのか…」

「はい、実はわたくしは千年後の世界からまいりました、アンドロイドという機械仕掛けの動く人形のようなものなのです」

「こおりゃ、またまたたまげたわ…。その機械仕掛けの人形が、なんでまた千年も未来からやってきたとね…」

 龍馬はお蘭の話に、別段驚いた様子も見せず聞き返してきた。この坂本龍馬という男は、新しいもの好きだったらしく、自分でも護身用に拳銃を懐に忍ばせていたが、威嚇のために打った弾が役人に当たり、この時龍馬自身もお尋ね者になっていて、そのために宿泊先を転々と変えていた。

「ほうか…、千年も未来からきたのか…。千年も経てば江戸幕府なんぞは、綺麗さっぱり無くなっているんじゃろうのう…。

 で…、おまんはそんな遠いところから、何をしにやってきたんじゃ…。わしにゃあ、何がなんだかさっぱり判らんき…」

「はい、わたくしを造られた、一ノ瀬朔磨博士のお父上が歴史学者でありまして、その方が申しますのには『坂本龍馬という男は、あのまま殺してしまうには惜しい男だ』と申されまして、龍馬さまをわたくしに、助け出して連れてくるようにと申されました。

『しかし、一度確定した歴史は変えてはいかん』と申されまして、龍馬さまの身代わりのアンドロイドを一体連れてまいりました」

「アンド…、何じゃあ…。それじゃ、何か…、さっきわしと着物を交換して、最後に頭巾を渡したあの男が…、こりゃあ、いかんき…、すぐに助けに行かねばならんとよ…」

 龍馬は、傍らに置いてあった刀を掴むと、すぐさま立ち上がりかけた。

「もう、遅うございます…。龍馬さま、先ほど龍馬さまが近江屋の屋根に隠れていた時に、下のほうで物音がしたかと思われますが、あの時すでにアンドロイドの龍馬さまは、額を横一文字に切られてお果てになりました」

「な、何んと云うことを…、何処のどいつが殺ったんじゃ、新選組か見回り組か…。おのれ…」

「千年後の未来でも真犯人は判然とはしておりませぬ。歴史の中には、そのような謎めいた事柄が数えきれないほどございます。それらをひとつひとつ探索するのが、わたくしに与えられた役目と心得ております。龍馬さま、あなたさまは今はただ、お風邪を治すことのみに専念して頂ければ、よろしいかと思われます。さあ、それではお風邪によく効くお薬を差しあげましう…」

 お蘭はそういうと、おもむろに自分の乳首を龍馬の唇に押し当てた。

「むわっぷ…。何をするんじゃ、お蘭さん…」

「わたくしのお乳からは風邪によく効くお薬が出ますのよ。たっぷりと呑んでぐっすりお休みになれば、お目覚めになられた時には、お風邪などすっかり治っていますわ。さあ、どうぞ…」

 さらにお蘭は、龍馬の口元に大きな乳房を押しつけてきた。龍馬も観念したようにお蘭のなすがままになっていた。

 お蘭の薬が効いてきたのか、龍馬はウトウトとしてきて浅い微睡みの中で龍馬は夢を見ていた。それは故郷の土佐の龍馬が生まれ育った家の夢だった。その夢の中には龍馬の三歳上の姉乙女が映っていた。どういうわけか夢の中の乙女は泣いていた。どうしたんだろうと思い、龍馬は目を凝らしてよく見ようとした。すると、泣いている乙女の前には一通の手紙が置かれていた。どうやら自分が死んだという知らせのようだった。誰が知らせたんだろうと差出人の名を見ようとしたが、差出人の名前はどこにも書かれていなかった…。やがて、龍馬は自分でも気づかないうちに、深い眠りの深淵へと落ち込んで行った。

 翌朝、龍馬が眠りから醒めると、傍らにはお蘭も横たわっていた。

「龍馬さま、昨夜はよくお休みになられていたようですが、お風邪のほうのお加減はいかがでございますか…」

「ああ、お蘭さんの薬のおかげですっかりようなったきに、気分はまっこと爽快じゃ…」

「それは、ようございました。

 龍馬は上半身を起こした。すると、布団も一緒に捲れてお蘭の身体も剥き出しになった。

「ゆんべは暗くてよう見えんかったが、昼間ン明るいところで見ると、おまんの乳はまっことでかかとね…。ゆんべ云うとったが、おまんはほんにアンド…何とかいう機械(からくり)人形なのか…。わしにはそうは思えんがのう…」

「誠でございます。アンドロイド…、つまり機械人形とは申しましても、わたくしの身体は普通の人間と同じく造られておりますれば、普通の女子と何ら変わるところもなくできております。龍馬さまがお望みとあらば、どうぞお試しくださりませ…」

 お蘭は、そういうと上体を起こした龍馬を、もう一度布団に横たわらせ乳房を龍馬の顔に押し当ててきた。ほんのりと温かく柔らかな感触が伝わってきた。

「お蘭さん、おまんには悪いが今はいいぜよ。今はどうしてもそんな気にはなれんのじゃ…。そのうちに、試させてもらうこともあるかも知れんき…。とにかく、わしは一度は死んだ身じゃきに、もう何があってもいちいち驚かんことにした…」

 それからふたりは身づくろいをすると外に出た。昨夜とは打って変わって空には雲ひとつなく、よく晴れた青空が広がりを見せてはいたが、比叡山から吹き下ろしてくる、「比叡おろし」と呼ばれる季節風が、ことのほか冷たく感じられる日だった。

「これから近江屋に行ってみるき、どうもわしは自分の眼ェで確かめんことには、腹の虫が収まらんのじゃい…。行こう、お蘭さん」

昨夜は夢中で走り抜けた路も、泥濘もほとんど乾ききったのかなくなりかけていた。近江屋の前までくると、役人が数人出入りしているのが見えた。道のあちこちでは通行人たちが、近江屋のほうを覗き込みながら噂話に花を咲かせていた。

「何でも昨夜、近江屋さんのところに賊が入って、勤王の浪士がふたり斬られたそうだ。うのうちのひとりは即死だったそうだが、もうひとりは虫の息で持っても長いことはないという話じゃ…」

「何…、中岡はまだ息があっとか…」

「龍馬さま、早くまいりましょう…。こんなところにいつまでもいては、怪しまれるだけでございます」

「うむ…、分かったぜよ。お蘭さん」

 龍馬とお蘭は、今来た道を引き返して行ったが、帰りの道々龍馬はなぜかは知らないが、心の中に湧き上がってくるモヤモヤとしたものを、どうしても拭い去ることはできなかった。それが一体何んなのか龍馬自身にも分からなかった。

「こんな時、勝先生ならどう云われるのかのう…」

 宿に着いて龍馬は独り言のように呟いた。

「どなたですの。その勝先生とおっしゃるお方は…」

 と、龍馬に訊ねながらもお蘭は、自分の中に組み込まれているAIを検索して、勝海舟という名前を捜しているようだった。

「とにかく、勝先生というお人は度量の大っきか人じゃきに、わしは昔わけあって勝先生を斬りに行ったんじゃが、勝先生は何んというか器のでっかかお人で、その眼は日本のみならず世界という大きな視点で見ておられた。

 わしには、そんな化け物みたいな、大っきか人はよう斬れんき、わしは思わず「弟子にしてくれ」と、頼み込んだと云うわけじゃ…。

 勝先生は、まっこと博学の人じゃった…。幕臣でありながら誰に憚(はばか)ることもなく、常に開国論を唱えておった。そして、その眼は諸外国へと向けられておられた。ほんにわしなんど、勝先生の足元にも及ばないほどおっきか人じゃった…。

 だけんど、わしはお蘭さんのおかげで間一髪のところで斬られずに済んだが、慎太郎は助からんかったんじゃろう…。それを思うと切なくてのう…。堪らんのじゃ…」

「龍馬さま。もっと元気を出してください。お風邪のほうもすっかり良くなったようですし、これからわたくしとともに千年後の未来にまいりましょう。

 もうこの時代の歴史は、龍馬さまと中岡さまが何者かに斬られて、お亡くなりになられた。と、いうことで確定しているのですから、一度確定された歴史というものは、決して変えることはできないのです。

 さあ、一ノ瀬朔磨博士とお父上の光太郎さまが待っておられます。龍馬さまも過去のことはお忘れになられて、生まれ変わったおつもりで、これからは生きて行ってください」

「分かったぜよ。お蘭さん、だがよ…。その前にほんの小半刻だけ、わしに時間ばもらえんじゃろか…」

「それは構いませんけど、何かご用でもおありになられるのですか。龍馬さま…」

「何…、ほんのヤボ用じゃきに、気にせんといてくれや。すぐ戻るきに、ちょっと待っていてほしいんじゃ、すぐ戻ってくるきに頼むぜよ…」

 と、ばかりに龍馬は何処へともなく出かけて行った。

 アンドロイドの蘭にとっては、少しの間待つということなど、造作もないことではあったが、昨日の今日ということもあって、いささか気にはなっていた。

 しかし、それも蘭の取り越し苦労に過ぎなかったようで、龍馬はそれから間もなく帰ってきた。

「よう、待たせてすまなかったのう。さあ、いつでもいいぜよ。千年先であろうと二千年先であろうと、どこへでも連れて行ってくれ」

 そういう龍馬の顔は何故か晴れ晴れとしていた。

「それではまいりましょう。龍馬さま、他に何か忘れ物はございませんか。やり残したこととかはございませんか。この時代とも、しばらくはお別れでございますれば、思い残したことなどもございませんね…」

「ない、ない…。準備万端整って候よし、いつでもいいぜよ」

「それでは出発いたしますよ。龍馬さまがわたくしの身体に掴まって頂ければ、いつでも出発できますれば、よろしゅうございますか…」

「これでいいのか…」

 龍馬が後ろに回って、両腕をお蘭の体に巻き付けた。

「それでは出発いたします」

 すると、龍馬とお蘭の姿は陽炎が揺らめくように、ゆがみを見せると瞬くうちに見えなくなっていった。

 ふたりのいなくなった部屋は、何事もなかったかのように静まり返っていた。

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