宇治川

 月が、翳ってきた。

 宇治川にかかる橋の上で、晴明は足を止める。

 綱、金時と洛中を歩き始めて既に一刻ほど。てっきり頼光も来ると踏んでいたのに、あの男は軽い調子で否、といった。

 晴明は思い返す。

 閑居に集まった四人でざっと情報を交換し、件の鬼女を探しに夜を行く支度を済ませて、さあいよいよ、という頃合いに、彼は突然言った。

「俺は残るぜ」

 無論、彼以外の者は、一様に驚く。

 当の頼光は軽い調子で「綱が居ればどうにでもなる」と言い足したが、実際、その言葉は正しい。件の鬼女は恨めしげに現れるだけで未だ人に危害を加えては居ないし、綱が降伏ごうぶくできない魔というのは俄に思いつかないからだ。だが、頼光の選択が単なる無精でないことを晴明は知っていた。

 ももを外敵から、とりわけ綱から護る。恐らく、その為だろう。

 綱は鬼を斬るのが好きで頼光に仕えている。そして彼は、対峙した相手の善悪を考えることはしない。人か、人でないかだけだ。故に、彼の言うように事実、鬼子――出自に事情がある彼女は、常に綱に狙われることとなる。

 そして彼の場合は、隙を見てあわよくばという考えも十分あり得た。

 けれど、恐らくそれに気付いているにも関わらず、彼女は綱を嫌ってはいない。そして、それとは逆に、彼女を気にかけ、それとなく護る頼光は苦手と感じているようだ。

 その事実を反芻すると、些か胸が苦しくなる。だから、晴明はそれ以上考えるのを止めた。

 空を見上げる。これまで、煌々と輝いていた月が突如沸き立った雲に隠される様に、ざわりと肌が粟立つ。

 異変に気付いた金時がこちらを振り返った。何事か、と訝しむような様子に、小さく頷いてみせる。

 そして、低く短く、晴明は告げる。

「……綱に、醍醐寺の方角、と」

 金時は神妙な顔で頷き、前を行く綱の方に駆けて行った。二人は何事か話し合ったあと、晴明の方に軽く合図を送ってから醍醐寺の方向へ走り始める。

 その背を見送ってから、晴明はほっと息を吐いた。

 垂れ込めた暗雲から、鈍い雷鳴が聞こえる。雨が降る前に、と、晴明は誰にともなく小さく頷いた。

「今のうちに、お話をしませんか」

 呟きは、夜の闇に溶けて消えるかに思えた。だが、身を隠す彼女の耳に確りと届いたようだ。

 晴明の背後、丁度橋の中央近くに、黒い気配がゆらりと立ち上る。

 重たい空気を感じて、晴明は徐に振り返った。

 闇を流れる宇治川のように、ゆらゆらと揺らぐ黒い水柱が湧き上がり、人の形を成していく。否。人ではない。その額からは尖った白い角が天を貫くように生えていた。

 艶やかな黒髪は水に濡れて妖しく光る。青白い肌に、窶れこけた頬。据わった瞳でこちらを恨めしそうに見やる。老婆のようにも見えたが、そうではないと知っていた。

 ふるりと身を震わせた女は、低く、苦しげに呟く。

「あな、口惜しや……。左衛門の匂いがする」

 ――――山田左衛門。

 刹那、晴明の脳裏に、終始おどおどしていた彼が唯一饒舌に語った瞬間が過る。


"綺麗な女でしたよ"

"公家の娘でね。有名な才媛だったらしい"

"だが、時が経つとそれが鼻につく。万事、頭が固くてつまらない……。わかるでしょう"


 蘇る彼の下卑た表情に、晴明は再び、眉根を顰めた。

 要するに、彼は娶った妻を捨て、新しい女と一緒になったのだ。捨てられた妻は夫を恨み、神仏に復讐を請願した。

 激情で鬼に身を窶したというのに、彼女はそれでも一応の理性を保っている。それが、哀れでならない。

 晴明は悲しげに眉根を寄せたまま、声をかける。

「あなたの望みを叶えさせるわけにはいきません」

 けれど、彼女は何も言わなかった。その足下から、ゆらり、ゆらりと、黒い靄が立ち上る。瘴気だ。生者の心身を蝕むそれがある以上、長く語らうことはできない。

「あなたほどの方が、これほどに身を落とすなどと……。世は本当に理不尽だ」

 そう続けると、彼女はゆっくりと顔を上げたようだった。落ちくぼんだ暗い瞳が、虚ろに晴明を映す。

 変わってしまっている。けれど。

「あなたを知っています」

 静かに告げると、彼女はあからさまに怯んだ。干からびたように皺び、変色した手指で顔を覆うと、数歩、よろけるように後退る。

 その爪の先までも黒く、醜く変わっていたが、間違いない。

「まだ私が賀茂家でご厄介になっていた折に、幾度かお話をしましたね」

 そう続けて、懐かしさに目を伏せ、少しだけ笑う。もう十年以上経つだろう。

「山城。……あなたはそう呼ばれていた」

 過去の美しい姿を思い浮かべながら、そっと囁くように言うと、女は崩れ落ちるようにして蹲ってしまった。肩を震わせ、慟哭する姿があまりに哀れで、言葉を失う。

 昔――――。某貴族の屋敷で、彼女とまみえたことがある。二、三度、言葉を交わしただけであったが、まだ年若かった晴明の見た彼女は、聡く、眩いばかりに美しかった。

 けれど、今は。見下ろした先の女は、見る影もなく変わり果てている。

「口惜しい……」

 絞り出すように言った彼女はふらつきながらもゆらりと立ち上がる。幾分、取り巻く澱のような闇が薄れたような気がした。

「このような姿になって、本懐も遂げられぬとは」

 彼女は虚ろな様子でそう呟いて、す、と視線を上げる。

「酷い人。……もう、何もかもが手遅れというのに」

 言った彼女の鈍色に枯れた指は、そろりと自らの頬をなぞり上げ、額に行き着く。罪を確かめるように天を突く角を撫でる彼女に、晴明は静かに語りかけた。

「逆縁もまたえにしです」

 神仏の力で鬼と化したのならば、逆もまたあり得るのではないか。そう思っての言葉だったが、彼女は儚げに首を横に振る。

「あの時ほどの激情は最早、持ち合わせておりませぬ」

 幾分、確りとした声音で言う。その頬に、赤い涙がつ、と伝った。

「あなた……大きくなったわね」

 その言葉に驚き、目を見開いた晴明の視界の中。

 彼女は背後の欄干に倒れ込むように、ゆっくりと傾いでいく。慌てて腕を伸ばした。けれど、間に合わない。

 指先が黒い爪をかすめると、焼けるような痛みが走った。届かない。欄干に二つ折りになって、それでも腕を伸ばし続ける。浅沓が浮く感触がした。それでも構わず手を差し伸べようとする。勢い、浮き上がった腰のあたりに、誰かの腕がぐ、と絡んだ。

 体が引き戻される。彼女は逆に、遠ざかっていく。晴明の目の前で、枯れ枝のように細い体は暗い川面に飲み込まれていった。

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