10.真夏のチョコレート

―瑠維―

さっき上がった一発が、どうやら最後だったらしい。辺りが、しんとなる。

「…お、かえりなさい…。」

ようやく吐き出した言葉が、真夏の蒸し暑い空気の中に消えていく。

世良先生は外した眼鏡を手の中でもてあそびながら、「歩き?」と聞いてきた。

「送って行こうか。」

「え、先生どこに車…?」

そこ、と指差された先を見ると、見覚えのある外車が停まっていた。

「早く乗れよ。」


***

川沿いを花火大会帰りらしき浴衣姿の人々がたくさん行き交う様子を、車の窓越しに見つめる。

「去年、すっぽかしてごめんな。」

ぽつりとそう言われ、慌てて顔の前で手を振った。

「いえ、いいんですそれはっ…約束していたわけじゃないし…。」

「んー、まあな…。」

「でも…一年経っても、覚えていてくれたんですね。」

世良先生は片手でハンドルを握ったまま、僕の方をちらりと見た。一瞬目が合って慌てて目を逸らしたら、ふっと、隣で笑う気配がした。

膝の上に置いた手が落ち着かなくて、意味も無く指を組んだり解いたりしてしまう。

…どうしよう、久しぶりに会ったからかな。

何だか、ぎこちないや…。

「…あの、いつ帰国したんですか?」

顔は窓の外に向けたまま、肝心な事を聞いてみる。

「確か帰ってくるの、来月だったんじゃ。」

「そんな事言ったっけ。」

「言ってないけど、皆がそうやって噂していたから。」

「あー…そうなの。今朝だよ、帰ってきたの。」

「今朝?!」

びっくりして思わず顔を運転席の方へ向けてしまう。

世良先生はいつも通り気にした様子もなく、この道真っ直ぐで良かった?と僕の家までの経路を確認してくる。

「次の信号を右です。」

「はいよ。」

「じゃなくて、今朝って本当に?何で教えてくれなかったんですか?」

「どうやって教えればよかったんだよ。」

言われ、返しに困る。

「…ええと。」

「ていうか、今朝っていうのは空港に着いた時間な。それから色々ばたばたして、病院寄れたのは本当についさっき。」

器用に片手でハンドルを回す手元を見つめる。

そうだ、話さないといけなかった。

「ごめんなさい。」

「何が?」

「先生の事待ってるって言ったのに、僕4月から異動になって…今、小児科病棟にいるんです。」

「あー、さっき聞いた。また遠いとこ連れて行かれたな。」

「若い男手が欲しいらしくて…。」

「なるほど、そりゃ抜擢されるだろうなあ。」

苦笑される。

「どうなの、仕事は。」

「…しんどいです、正直。子どもが苦しんでる姿を見るのは…慣れなくて…。」

単純に子どもの世話自体が慣れず毎日四苦八苦しているが、やはり何よりも辛いのは、幼い身体で病と闘う子どもの姿を間近で見ることだった。

そうか、大変だな…と世良先生が呟く。

「本当に辛かったら言えよ。俺の権力でどうにでもしてやれるから。」

冗談なんだか本気なんだか分からない事を、真面目に言ってくる。

「先生が言うと洒落に聞こえないから怖いんですけど。」

「はは。…ふーん、小児科にねえ…。」

先生は左手にハンドルを持ち替えながら、眼鏡のずれを直した。

「…そっか。また一緒に仕事できるかと思ったのに。」

緩やかに車のスピードを落としながら、世良先生が僕を見た。

「さみしいな。」

「…っ。」

頷くのが精一杯で、すぐ目を逸らしてしまった。

さみしい、って思ってくれるんだ。

たったそれだけで、胸がいっぱいになった。


ここです、と6階建ての白いマンションを指さすと、エントランス前に車を付けてくれた。

名残惜しく思いながらシートベルトを外す。

「ありがとうございました。じゃあ、気を付けて…」

「あ。待てよ。」

「はい?」

世良先生は運転席から降りると、後部座席のドアを開けて何かを手に取った。

何だろう、と思っていると助手席のドアが開けられた。降りて、と促されたので外に出る。

車のドアを閉めて振り向くと、はい、とカラフルなビニール袋に包まれた物を差し出された。

「何ですか?」

「おみやげ。」

「えっ!」

手渡された包みをまじまじと見る。英語表記でちんぷんかんぷんだったが、チョコレート、と書いてあるのは辛うじて読めた。

なんか…触った感触が、柔らかいような。

「夏なのに、チョコ買ったんですか。」

思わず言うと、ばつの悪そうな顔をされた。

「仕方ないだろ、空港で慌てて買ったんだから。」

「僕の分を?」

「…言っとくけど、こんなのお前にしか買ってないからな。」

お前にしか、の部分で喜べばいいのに。僕の脳裏には、桜色の髪のあの人が浮かんでしまう。

「桃瀬さんには?」

「は?」

「や、何でもないです。」

包みを握る手に、思わず力が入る。

もう、いい加減諦めればいいのに。僕もばかだな…。

「…買ってないよ。」

顔を上げる。世良先生は真顔で、声のトーンも、いつもの飄々とした感じじゃなかった。

「お前にだけだって、言ってるだろ。」

「…ありがとう、ございます…。」

嬉しい。

本当に、僕にだけ買ってきてくれたの?

「そんなにぎゅっと握ったら、中溶けるぞ。」

呆れた様にそう言われ、手の中の包みを見た。

「もう溶けてる気がする。」

「…貸して。」

世良先生は僕の手から包みを取って封を開けると、中から赤い包装紙に包まれたチョコを一つ摘み出した。

包装紙を破ってチョコを摘まみ、ほら、と差し出してくる。

「口開けろ。」

「え?!自分で食べまっ…」

遠慮するより先に、口の中にチョコが押し込まれる。

「どう?」

「…めっちゃ甘いです。」

「まじ?さすが外国クオリティだな。」

「あ、でも美味し…」

ふと見ると先生の白い指に、溶けたチョコがくっついているのが目に入った。

「あっ、先生手拭いて。」

「ん?」

「チョコが…。」

カバンからティッシュを出そうとしたけど、それより早く、先生はチョコがついた親指をぺろりと舐めた。

「…ん、本当だ。」

先生は上目遣いに僕を見て、ふ、と笑った。

「甘いな。」

「…っ。」

どきまぎしてる僕を可笑しそうに見ていた世良先生が、ふと真顔に戻った。

「片倉。」

「はい?」

「…あのさ…。」

鞄の中で何かが震えた、と気づくと同時に、辺りに電子音が響いた。

慌てて鞄の中をまさぐり、スマホの画面に表示された発信元を確認する。

「…出ろよ。」

「ごめんなさいっ、ちょっと…。」

通話ボタンを押す。

「…もしもし、お母さん?何?」

あんた何してるのこんな時間まで、と母親の呆れた声が聞こえてくる。

「何にもっ…もう家の近くにいるから!切るよ。」

一方的に言って通話を切る。時間を見てみたら、もう日付が変わるまでいくらもない時間だった。

「お前、実家暮らしなのか。」

「え、そうですよ。」

世良先生が、ちょっと驚いたようにマンションを見上げる。

「…ふうん。」

「先生、あのさっき何か…」

言いかけていた続きを聞きたかったのに。

「あー、何でもない。じゃあな。」

急にいつものしれっとした態度に戻ってさっさと帰ろうとするから、思わず呼び止めてしまった。

「待って、先生!」

「ん?」

「えっと…」

―今帰ったら、次いつ会えるの。

もう仕事での関わりは、無くなってしまったのに。

「何。」

「…っ電話番号、教えてください!」

思わず言ってしまった。世良先生が首を傾げる。

「何で?PHSあれば、事足りるだろ。」

「だって…病院の外にいたら、連絡取れないじゃないですか!」

「プライベートな時間にまで呼びつける気か、お前は。」

う、と返しに詰まる。そう言われてしまうと、何て言えばいいのか。

世良先生は苦笑しながらスマホを出すと、画面を操作して僕に見せてくれた。

「ほら。」

世良先生の電話番号が表示されている。

「ありがとうございますっ。」

それを見て、僕は大急ぎで自分のスマホに打ち込んだ。発信ボタンを押す。

世良先生のスマホが鳴った。画面には、僕の番号が表示されている。

「それ、僕の番号です。登録してください。」

着信音が止む。世良先生はしばらく画面を見た後、しょうがないなあ、と言いながら僕の番号を登録してくれた。

「あ、先生。僕の名前分かります?」

片倉、まで打たれた画面を覗く。

「分かるさ。」

るい、と平仮名で打ってくれる。

「…字は?」

「これだろ?」

ぱっ、と変換された。…瑠維。ちゃんと、合ってた。

「すごい。」

「馬鹿にすんなよ、これくらい。」

「だって先生、看護師の名前なんていちいち覚えないって言ったくせに。」

からかうつもりで言ったのに。…ふと顔を上げた世良先生と、目が合う。

「これから、名前で呼ぼうか。」

「え、っ…?」

「…なーんてな。」

「った!」

ぺちん、とでこぴんされて額を押さえる。

「何するんですか!」

「はは。もう帰るぞ。またな。」

「あ、はい。気をつけて…!」

世良先生は車に乗り込む前に、振り返ると小さく手を振ってくれた。

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