7.もう、好きじゃない?

―瑠維―

あまりの不意打ちに、一瞬思考が止まった。

「…世良先生…?」

懐中電灯をカウンターの脇に置き、ホワイトボードの前に立っている世良先生に近づく。

「今日、当直の日でしたっけ…?」

「いや。最近忙しくて家帰ってなくて、ずっと病院にいるんだけど。」

白くほっそりとした指が、ホワイトボードに貼られた『今日の夜勤担当』の名札をなぞる。

「お前、いるかなと思って。」

「…あ、そうなんですね。…ええと、コーヒーでも飲みます?」

逃げるように休憩室へ行こうとしたら、どういう風の吹き回しだよ、と苦笑いされた。

「いつも、コーヒーばっか飲むなってうるさいくせに。」

「…そうですね。」

立ち止まる。何を言って良いか分からず、沈黙が落ちた。心電図モニターから時折鳴る、不穏なアラーム音が妙に大きく聞こえてくる。

…カラ、と、固いものが転がるような音がした。

「…先生、何か食べてます?」

「ん?」

世良先生は、白衣のポケットに突っ込んでいた手をズボンのポケットに入れた。

「禁煙しようと思ったけど口寂しいから、最近飴舐めてんの。」

ポケットから出てきた色白の手の中には、どこかで見た覚えのあるピンクと白の包紙にくるまれたキャンディが一つ。

「食べる?」

差し出されたいちごみるくキャンディを受け取り、見つめる。

「…先生、覚えてますか。」

摘まむと、中身の飴は三角形のかたちをしていた。

「初めてちゃんと話した日、僕に薄荷キャンディくれたの。」

「ん…覚えてるよ。」

世良先生は懐かしそうに、少し目を細めて微笑んだ。

「何で、薄荷キャンディだったんですか?」

「あー、確か入院患者から貰ったんじゃない?で、たまたまポケット入ってて。」

「…僕、辛くて思わず顔顰めちゃって。」

「確かに。すげー顔してたよな。」

「そしたら、今度はこれをくれたんですよね…。」

包紙を開け、口に含む。甘酸っぱい味…僕の、初恋の味。

「…っ。」

あの時の事を思い出したら胸が詰まって、堪える間もなく熱い雫が頬を伝って床に落ちた。

「…何だよ、何で泣くんだよ。」

咄嗟に顔を背けたのに、世良先生は下から僕の顔を覗き込むと、困った様に笑った。

「…どした?…ん?」

堪らず、抱きついた。

初めて触れた先生の体は、想像していたよりずっと華奢だった。思わず顔をうずめた白衣からは、微かに消毒の匂いがした。

「おー…どしたー?」

世良先生は戸惑った声でそう言いながら、細い両腕でそっと抱きしめ返してくれた。

「…お前、ほんと背でっかいなぁ。」

耳元で苦笑する世良先生を抱く腕に、力がこもる。

「先生…」

「ん?」

「アメリカ行くって、本当ですか…?」

僕の腕の中で、一瞬だけど先生が身を固くしたのが分かった。

「うん…。」

「…どうして、僕にだけ話してくれないんですか…?皆知ってるのに、僕だけ…っ。」

聞くと、はあ?と呆れたような声がした。

「あのな…言っとくけど、俺はまだ看護師の誰にも、個人的にこの話してないからな。誰が最初に噂し始めたのか知らないけど、師長にしか言ってないぜ。」

「…ほんとに?」

「本当だって。明日の朝礼で正式に話があると思うけど、その前に片倉には言っておこうと思って、それで今わざわざ…」

「でも、桃瀬さんには言ったんですよね。」

思わず言うと、小さくため息をつかれた。

「仕方ないだろ。俺がいない間、主治医を代わってもらわないといけないんだから。」

「…そうですよね、ごめんなさい。」

体を離した。洟をすする音がステーション内に響いて恥ずかしくなる。

僕を抱き留めた姿勢のまま、行き場をなくした様に宙に浮いていた世良先生の手が伸びてきて、僕の目元にかかる前髪をすくいあげた。

「…何だよ、寂しい?」

僕のおでこに触れる、世良先生の小さい手を握る。

「寂しい、って…言ったら、行かないでくれるんですか。」

「…あのさ。」

僕の手を握り返してくれたかと思ったら、そのままコツンと、軽くおでこを叩かれる。

「そんな長く向こうに居るつもりじゃないよ?長くても半年…いや、そんなにも居ないと思うし。すぐ帰ってくるよ。」

―すぐっていつですか。半年は十分長いじゃないですか。本当に半年経てば、帰ってきてくれるんですか。

告白した時、『ちゃんと待ってる』って言ったじゃないですか。もう忘れたんですか。花火の約束もすっぽかしたくせに、どうやって先生を信じて待っていたらいいんですか―…。

言いたい事はたくさん心の中で渦巻くけど、わずかに残った理性が口にすることを躊躇わせた。

「…寂しい、です。」

核心に触れないように、ぎりぎりの気持ちを口にする。

「行かないで、なんて言えないです。でも…僕…っ」

「…桃瀬に、怒られたよ。」

僕の手を握っていた世良先生の手が、離れる。

「告白されて断っておきながら、何となく気をひいたまま傍に居させるのは、ずるいって。」

「…っ。」

片倉、と静かに名前を呼ばれて、恐々と伏せていた目を開けた。

くっきりとした二重瞼の奥で、少しだけ潤んで光る黒い瞳が、僕を見上げる。

「俺と、付き合う?」

―そんな、困ったような顔で。

仕方なさそうに言ってほしかった台詞じゃない。

「もういいんです。もうそれは、気にしないでください!」

「片倉、」

「もう先生のこと好きじゃない。好きじゃないから…っ。」

思わず口をついて出た嘘は、たぶんあっさり見破られたんだと思う。

世良先生は俯いた僕の顔を覗き込み、上目遣いで目を合わせて寂しそうに微笑んだ。

「…そうなの?」

哀しげな声に、力なく首を横に振る。

「…俺、片倉に言ったよな。今は誰の事も、そんな風には考えられないって。」

他に誰もいないヘリポートで、静かに言われた事を思い出して頷く。

「でも、お前が俺を好きだって言ってくれたの、本当に嬉しかったんだよ。」

頷く。それしか、出来なかった。

―先生の心の一番やらかい場所に、どうしたら触れさせてもらえるんだろう。

どれだけ仲良くしてもらっても、どれだけ気持ちを伝えてみても。世良先生は絶対、あとほんの少しの距離を詰めさせてくれない。

先生の心の奥深くには、誰も触れちゃいけない場所があって、そこに手が届かないうちは、僕の恋に望みなんてないんだ―。

「…先生、ごめんなさい。もう泣かないから、もう大丈夫だから。」

目じりに残った涙を拭う。仮眠室から音がした。もうすぐ、元木さんが起きてくる時間だ。

世良先生もそれに気づいたのか、一瞬仮眠室の方を気にした後、ティッシュケースを手に取って僕に差し出してくれた。

「すぐ帰ってくるから。…俺のいない間に、辞めたりするなよ?」

ちょっとおどけてそう言ってくるもんだから、ティッシュを一枚とって洟をかみながら「しませんよっ、何で辞めるなんて思うんですか。」と、いつもの調子で強めにつっこんだ。

「…あれ、世良先生。どうしたんですか?」

思った通り起きてきた元木さんが、世良先生に気づいて驚いた表情になった。

「すみません、もう戻るんで。」

「あら、良いですよ別に。お邪魔でしたら向こう行ってますから。」

「いえ、業務の邪魔したら申し訳ないので。…じゃあな、片倉。」

コツン、とおでこを突かれる。

「…っ、世良先生!」

「ん?」

ステーションを出て行きかけていた世良先生が振り向く。

「あの…気を付けて。」

世良先生が吹き出す。

「あのな、まだ行かないっての。」

「あ、そっか。」

思わず赤面する。世良先生はひらりと手を振って、おやすみ、と言ってバックヤードへ消えて行った。

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