6.”大丈夫”の呪文

―瑠維―

「え、院長先生って独身なんですか?」

「そうよ。何年か前に離婚されて、それきりらしいわ。」

元木さんはシニヨンに結っていた髪をほどくと、あくびを噛み殺した。

もうすぐ日付が変わる。今夜は僕と元木さんが夜勤の日で、そろそろ元木さんは仮眠を取る時間だった。

「その別れた奥様っていうのが、随分若い方だったらしくてね。世良先生が研修医で入ってきた時は、すごいざわついたのよ。」

「どうしてですか?」

「まさか院長に息子がいたなんて、皆んな思わなかったから。別れた奥様の子にしては年が近すぎるし、院長とは雰囲気が全然違うし。」

「確かに…。」

院長先生は元ラガーマンだったらしく、色が黒くて体の大きな人だ。華奢で色白の世良先生と血が繋がった親子だなんて、最初はびっくりしたけど、よく見れば何となく顔の雰囲気は似ている気もする。

「"世良"なんて、そんなざらにある名字でもないから息子には違いないんだろうけど、ひょっとして院長には愛人がいて、世良先生は隠し子なんじゃないかとか、当時色んな噂が立ったのよね。」

「…へえ。」

何もかも初耳な話ばかりだった。元木さんは勤続10年目になるベテランだから、世良先生が研修医になる前からこの病院に勤めていて、色んな話を知っている。

「世良先生って、怖いとか近寄りがたいって言われてるでしょ?」

「そう、ですね。」

「クールな雰囲気もあるけど、こういう噂のせいでもあるのよ。触れちゃいけないとこ触れて、地雷踏んだら嫌じゃない。」

「まあ…。」

「あんた世良先生と仲良いけど、そういう話はしないの?」

怪訝そうな元木さんに、肩をすくめてみせる。

「そんな話、するわけないじゃないですか。…アメリカ研修の件だって、未だに何も言ってくれないのに。」

「あれ、まだそれ根に持ってたんだ。」

元木さんが苦笑いする。

「…ラウンド行ってきます。」

懐中電灯を手に、ステーションを出た。


―怖い印象なんて、最初から無かった。

初めて話したあの日。先生のポケットから出てきた薄荷キャンディは辛くて、思わず顔をしかめてしまった。

それからまたしばらくして、先生に会った時…―。

『いたいた。』

『あ…。』

『もう、元気になった?』

『は、はい。』

手出して、と言われて訳もわからず手を差し出した。そこに載せられたのは、一掴みもあるいちごミルクキャンディだった。

『え?あの…?』

『これなら辛くないだろ?』

そう言って微笑んだ。白衣を翻して立ち去っていった後ろ姿は、今でもまだ脳裏に焼き付いている。

ピンクと白の包紙を開き、三角形のキャンディを口に含んだ。すごく甘くて、ちょっとだけ酸っぱい。―それはまるで、初恋の味。

そんな事を考えたら、馬鹿みたいに鼓動が早くなった。

癖っ毛の黒髪、色白の細い顎のライン。笑うと細くなる二重の目元。…僕を気遣う、優しいハスキーな声。

僕は、先生に恋をしたんだ。


非常灯の明かりしかない暗い廊下の足元を手に持った懐中電灯で照らしながら、循環器病棟の病室を一部屋ずつ見回っていく。

眠れないおばあちゃんの手を擦ったり、トイレに行きたいおじいちゃんに付き添ったり。いつもいびきのひどい人が妙に静かに眠っていたら呼吸が止まっていないか確かめたり、点滴の管がからまりそうになっていたら解いたりしながら、ずっと頭の片隅には先生の事ばかりが浮かんでいた。

大丈夫…大丈夫。

呪文のように心の中で唱えながら、揺れ動く気持ちを必死で宥める。

アメリカなんて、そう遠くない。ずっと向こうにいるわけじゃ無いし。きっとすぐ帰ってくる。もう会えないわけじゃ無いんだから。

でも…いつまで?何しに?

分からない。だって、僕は先生から何も聞いていないから。

『―世良、アメリカ行くんだってね。』

…結局、僕は桃瀬さんには敵わないって事かな。

先生にとって一番大事なのは、桃瀬さんの事で。大事な話を一番に聞いてもらいたいのも、桃瀬さんで。

僕の事なんて、先生の頭には無いんだ―。

「…っ。」

最後の病室から出たところで視界が滲んで、慌てて目を擦った。

…大丈夫。泣くな、自分。

きっとその内、話してくれる。なんでもない調子で『実はアメリカ行くんだよねー』なんて感じで言ってくるだろうから、そしたら笑って、とっくに知ってますよって…そうだ、精一杯、また可愛く拗ねてみせなきゃ…。

深呼吸を一つ、ゆっくりとしてから歩き始めた。

ナースステーションに近づくにつれて明るくなってきたので、懐中電灯の明かりを切る。

元木さんは仮眠中のはずなのに、何故か人影が動いたのに気付いて足が止まった。

「…よ。」

…いつもの白衣に片手を突っ込み、ホワイトボードの前に立っていた世良先生が、僕に気づいて手を上げた。

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