5.それは絶対不可侵の領域
―貴之―
耳元で、スマホのバイブレーションが激しく振動したせいで目が覚めた。
一瞬、自分がどこで何をしていたのか分からなくなる。煌々と明かりを放つパソコン画面が目に入り、ようやく医局のデスクに突っ伏して寝落ちていたらしいと思い至った。
キーボードの横で未だに振動をやめないスマホを手に取り、着信元を確かめる。通話ボタンを押してから、耳に当てるのが面倒で更にスピーカーモードを押した。
「…はい?」
『めっちゃ寝起きの声だなー。』
「何だよ、桃瀬。」
椅子の背もたれに体重を預け、大きく伸びをする。おかしな体勢で眠っていたせいで、体のあちこちから軋むような音がした。
『寝てたって事は、もう今日はあがり?』
「今日は非番。」
『あれ、じゃあ家にいるの?』
「医局だよ、いちいち家に帰ってられるか。」
デスク脇に積み上げられた医学書の山に目をやる。今にも崩れそうなバランスで載っている分厚い書籍を、一冊下におろした。
「で、何の用?」
『いや、忙しいならいいんだけど。」
「まあまあ忙しい。」
『そっかあ、もう病院前に来ちゃったんだけどなあ。』
「だから、何だよ。」
ため息交じりに聞き返すと、桃瀬は『ちょっと付き合ってほしい所があるんだ。』と、何やら含みのある声で言った。
「…分かったよ、行くから玄関前にいろ。」
『おっけー。』
通話を切る。寝ていたせいで乱れた前髪のセットを直し、スマホをポケットに突っ込んで医局を出た。
***
「…付き合えって、何で遊園地?」
煌びやかなイルミネーションが点灯したテーマパークの入り口を見上げる。
「何時だと思ってんだ今。」
「いいじゃん、遊ぼうぜ。」
桃瀬は楽しそうに俺の腕を引くと、半ば強引に俺をパーク内に引きずって行く。
「観覧車乗ろ。」
「はあ?」
戸惑う俺にはお構いなしで、桃瀬は迷うことなくパーク内の最奥に位置する観覧車へ向かって歩いて行く。
様々な色の光が明滅する巨大な観覧車の乗り場に着き、列に並ぶ。並んでいるのはほとんどが若いカップルばかりで、三十路を目前にした男二人では少々気まずい所だった。
しばらくして順番が来たので、桃瀬に続いてゴンドラに乗り込む。
俺の向かい側に座った桃瀬が、久しぶりだなー、とはしゃぐ。
「久しぶり、って前はいつ来たんだよ。」
「んー?
「へえ…。」
桃瀬は去年、気を失い救急車で運ばれてきた事があった。
すぐに手術を受けろと迫ったけど、「どうしても時間が欲しい」と言われて仕方なく外出許可を出した。その時、どこで何をしていたかは敢えて聞かなかったが、どうやら恋人と遊園地デートを楽しんでいたらしい。
「…で、何で今、俺?」
恋人との思い出がある場所へ、こんな時間に何故わざわざ俺を連れてきたのか。さっぱり意味が分からない。
窓から外を見下ろしていた桃瀬は、んー、と間延びした声を発し、気づいちゃったんだよねえ、と呟いた。
「ここなら、逃げられないじゃん?」
「逃げる?」
「ここ密室だろ。それに、タバコも吸えない。お前は何か言い淀む時とか誤魔化したい時、絶対タバコ咥えて逃げるからさ。」
「…で?何。」
「お前と駆け引きしてもしょうがないから、単刀直入に聞くわ。」
大真面目な表情で、桃瀬は俺を真っ直ぐ見据えた。
「お前、俺の事が好きなの?」
「…はあ?」
何を言い出すのかと思ったら、予想もしなかった問いが来て間の抜けた声が出た。
「何だよ急に。」
「違うなら違うって言えよ。」
冗談を言っているようには見えない桃瀬の表情を見ているうちに、ある事が思い浮かんだ。
「…あいつか。片倉。」
名前を出しても、桃瀬はほとんど表情を変えない。
「告白されたんだってね。」
「…何で、片倉がお前にそんな話を?」
「ちょっとね。この間たまたま話す機会があってさ。色々聞いちゃった。」
勝手に、口からため息が零れ落ちる。
「そう…。」
ゴンドラの外を見る。イルミネーションの反射する水面が眼下に見えた。そういえば、海が近かったか。
「…あいつ、俺の事が好きなんだってさ。」
「知ってる、てか前から気づいてた。俺にも突っかかってきたもん。名木ちゃんと駆け落ちした日にさ、ちょっとは世良の気持ちも考えてやってくれって。」
「何だそれ。」
「あの子、何か誤解してるだろ。」
「俺が桃瀬を好きだって?」
冗談めかして少し笑って見せると、桃瀬の表情が険しくなった。
「それ、ちゃんとあの子の前で否定したの?」
「したさ。どうしてそんな誤解させる必要があるんだよ。」
「ならどうして、”今は”気持ちに応えられないなんて言い方をしたんだ。」
桃瀬の声のトーンが、低くなる。
「剥き出しの丸裸な気持ちぶつけられて、向き合うのが怖くなって逃げたんだろ。お前が俺を好きだなんて…あの子に、そうやって誤解させたままにしておけば、痛いとこ触られずに済むもんな。…そのくせ強く突き放すこともしないで、曖昧な態度で気を引き続けてる。」
「…。」
「お前さ、それはずるいんじゃないの?」
桃瀬の強い視線から逃げるように目を逸らした。もう地上はだいぶ遠くに見えている。もうそろそろ頂上なのかもしれない。
「あの子の事、好きなんだろ?」
「…自信が無いんだよ。」
口を開いてみると、喉がカラカラに乾いていた。
「あの時は本当に、お前のことを考えるだけで精一杯だったんだ。他の事を考える余裕なんかなかった。」
「…そう。じゃあ、今は?」
「…。」
「俺、もう元気になったじゃん。確かに完治はしていないし、未だに薬も手放せないけど…もう、あの子の気持ちに向き合えない理由にはならないはずだよね。」
「…。」
「それで今度は、あの子に何も言わずにアメリカに逃げる気?」
「逃げてなんかないだろ。」
挑発的な桃瀬の言い方に、さすがに頭にきて反論する。
「誰がわざわざあいつから逃げる為だけに、アメリカまで行くんだよ。」
「じゃあどうして話してないのさ。俺うっかり言っちゃって、あの子に泣かれそうになったんだから。」
「…え?」
「泣きそうな顔してたよ、片倉君。」
桃瀬の色素の薄い瞳が、俺を見据える。
「話してないんじゃない…話せないんだろ?今度こそ、気持ちぶつけられたら逃げられないから。」
「…。」
「突き放せないなら、きちんと向き合わないとだめだよ。自分の過去も全部…話す勇気が無いなら、それまでだと思う。」
―記憶が、フラッシュバックしそうになった。
「…随分、偉そうな説教してくれるよな。」
ため息交じりにそう言うと、桃瀬は細い肩をすくめて「俺の方が恋愛経験は豊富ですからね。」とおどけてみせた。
***
桃瀬を家まで送り、医局に戻ろうか迷って結局自宅へ車を走らせた。
マンションのエレベーターに乗り、最上階のボタンを押す。降りて突き当りの部屋のオートロックの玄関を開け、リビングのテーブル隅に置かれた写真立てを手に取った。
ずっと部屋に置いてあるせいで、だいぶ色褪せてきてしまった一枚の写真。
なぞるように指を載せ、辛くなってテーブルの上に伏せた。
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