4.ハニーカフェラテ・リンゴジュース
―瑠維―
夜勤明けの空は、目に眩しすぎる。
裏口のガラス戸を開け、冷えた空気を吸い込む。ようやく桜が咲き始めたとはいえ、まだ冬の気配は消えていない。
「はあ…」
思わずこぼれたため息が、白く霞んで朝の空気の中へ消えていく。
ついさっき、朝の申し送り後に先輩たちから聞かされたある噂話が、思考回路を埋め尽くしていた。
ポケットからスマホを出し、なんとなく時間を確かめる。とっくに外来が始まっている時間だ。
「あ。」
「…?」
声がして顔を上げると、目の前に、桜の花みたいな髪色をした小柄な男の人が立っていた。
「片倉君、だよね?お久しぶりー。」
柔らかそうなベージュのカーディガンが、風に揺れる。
「桃瀬さん…?」
「お久しぶりです。どうしたんですか?」
「定期受診の日なんだよ。さっき終わったとこでさ。」
風に乱れた前髪を押さえながら、桃瀬さんは世間話の延長の様に、さらりと言った。
「世良、アメリカ行くんだってね。」
「…っ。」
僕の顔色が変わった事に気が付いたのか、桃瀬さんの茶色い瞳がこぼれそうに見開かれた。
「え、どうした?大丈夫?」
「ご、ごめんなさい。」
はっとなって目を逸らす。唇をかんだ。
「…片倉君、時間ある?」
桃瀬さんの小さい手が、服の裾を無意識に握りしめていた僕の手首に触れる。
「ちょっとそこで、お茶でもしない?」
***
『―世良先生、アメリカ研修に行くらしいね。』
何げない調子で先輩達が話し始めた噂話は、初めて聞く内容だった。
『え、片倉聞いてないの?世良先生と仲良いじゃない。』
『知らないです…』
『そうなの?』
『やだ片倉、そんなショック受けなくても。まだ、噂程度の話だし…』
『でも遅かれ早かれ行くでしょうね。世良先生、幼なじみの主治医していたじゃない。』
『ああ、桃瀬さんて人?』
『そうそう。手術したけど、完治したわけじゃないから…アメリカ行って、最先端の医療に触れてこないと…』
『なるほどね。世良先生、あの人のために医者やってるようなもんだしねえ…』
***
「はい、どうぞ。」
目の前にマグカップが置かれ、はっと我に返った。
「あ、桃瀬さん…お金」
「えーいいよ。飲みな。」
「…すみません、いただきます。」
茶色のマグカップを引き寄せる。真っ白な泡の上にハチミツがかかっていた。一口飲む。
「あ、美味しい…」
「そう?良かった。俺、コーヒーの味分からないからさぁ。」
「…桃瀬さんは、何を?」
「これ?リンゴジュース。カフェイン摂取できないからねー。」
桃瀬さんは何でも無い事のようにそう言って、氷のたっぷり入ったリンゴジュースにストローを差し、すすった。
「ごめんね。夜勤明けで疲れてるのに、お茶付き合わせて。」
「大丈夫です。帰ってから寝るし…」
「…寝れるの?大丈夫?」
心配そうに言われ、マグカップの取っ手を握る手に力がこもった。
「…世良先生、アメリカに行くって本当だったんですね。」
絞り出すようにそう言うと、桃瀬さんはカーディガンでほとんど隠れた手で頬杖をつき、頷いた。
「とっくに周知の事実なんだと思ってた。驚かせてごめんね。」
「…いいえ。」
「片倉君、世良と仲良さそうだったもんね。寂しいよねー…。」
「…そりゃ…」
唇を噛む。
「寂しくないって言ったらウソになりますけど。寂しいっていうより、心配なんですよ。」
「あ、そうなの?」
「いつ寝てるんだかよく分からないし、医局はいつも散らかってるし。あの人、ほっとくと全然まともにご飯食べようとしないんですよ。」
「あー…確かにね。」
「暇さえあればタバコばっかり吸って、喉が乾いたら、一日に何杯でもコーヒー飲んで。」
「…うん。」
「生活能力全然無いし、一人でアメリカ行ったりしたらどうなるか…体壊してても分からないし、…心配で…。」
「…ふふ。」
「え、何で笑うんですか?」
桃瀬さんは両手の甲に顎を乗せ、僕を見て優しく微笑んだ。
「片倉君は、世良の事が好きなんだね。」
「…へっ?!」
「違うの?さっきから、世良の事が好きで堪らないって言ってるようにしか聞こえないんだけど。」
子猫みたいなアーモンド型の大きな瞳に見つめられ、…どんどん、頬が熱くなっていく。
そんな僕の様子を見て、桃瀬さんは楽しそうに「告白しないの?」と聞いてきた。
「…もうしました、玉砕済みです。」
「まじ?」
桃瀬さんは驚いたように身を乗り出してきた。
「いつ告白したの?」
「入院中に、桃瀬さんが無理やり外出しようとした日です。」
桃瀬さんの表情が固まる。
「僕…あの時、どうしても納得出来なくて。世良先生に言ったんです。桃瀬さんの事、心配じゃないんですか、どうして止めなかったんですかって。」
「…そしたら、何て?」
「無理やり手術を受けさせても、あいつの幸せに繋がるわけじゃないんだから、もう好きにさせてやりたいって。」
―そう言った時の世良先生の、何もかも諦め切った様な切ない表情を思い出して苦しくなる。
「…片倉君に告白されて、世良は何て答えたの。」
「今は、誰のこともそんな風には考えられない…って。」
冗談ぽく、5年後くらいにもう一回告白してみろよ、と言われた事も話した。とにかく、あの時は桃瀬さんの事で、先生の頭の中はいっぱいいっぱいだったんだ。
「世良先生は。」
言っていいのか躊躇う間も無く、勝手に言葉が滑り出た。
「桃瀬さんの事が好きなんです。」
「…へ?!何それっ。」
それまで神妙に僕の話を聞いていた桃瀬さんが、堪らずといった風に吹き出した。
「何でそうなるの?!」
「笑わないでください、本当にっ…」
「いやいや、ありえないから。」
「そんな事ないです!アメリカ行くのだって、先生きっと、桃瀬さんの為に…っ。」
「世良がそう言ったの?」
問われ、答えに詰まる。
「…先生は、違うって言うだろうけど。」
「ほら。なら違うよ。」
「でも…っ。」
膝の上で握った拳の中に、汗が滲む。
「先生が、桃瀬さんの事を話す時…すごく、桃瀬さんを大切に思ってる事が分かるから。」
「…うーん…。」
桃瀬さんは何か思案する様に、腕を組んでテーブルに載せた。
「でもそれはさ、恋とは違うじゃん。」
「…でも、とにかく振られちゃいました。」
代わりなんか要らない―そう呟く様に言った世良先生は、すごく苦しそうだった。
僕じゃ、だめなんだって、言われた気がした。
「…で、諦めちゃうの?」
腕を解き、ジュースのカップを引き寄せながら桃瀬さんが聞いてくる。
「まだ好きなんでしょ?」
問われ、答えようと口を開いたら瞼が熱くなった。
「…はい。」
頷くのが精一杯な僕の頭に、桃瀬さんの手が載る。
「5年後にもう一回告白してこい、かぁ。ずるいこと言うよな、あいつ。」
そうか、と桃瀬さんは独り言の様に続けた。
「世良が俺を好き、ね。ふーん…。」
「あ、あのっ。」
慌てて顔を上げる。
「それ、僕が思い込んでるだけかも知れないのでっ…!」
「うん、分かってるよ。」
桃瀬さんは笑っていたけど、その後で残ったリンゴジュースを飲みながら何か思案している表情は、少しだけ険しく見えた。
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