3.アメリカ研修の噂

―瑠維―

バックヤードを通り、南館へ出る。人の気配が少ない奥まった場所にある、旧医局―というか世良先生の住処の扉を、控えめにノックする。

はーい、とハスキーな声が中からした。

「先生、片倉です。」

呼びかけると、内側からドアノブが回される気配がして戸が開いた。

「どうした、入ってこればいいのに…って何だその束。」

僕が両手に抱えた書類の束に気づいた世良先生が瞠目する。

「今日中に確認してもらいたい、検査結果の山…だそうです。」

「はあ?そんなのわざわざ…。」

怪訝な表情で取りあえず受け取ってから、何か気づいたのか世良先生は苦笑いした。

「ま、入れよ。」

「…お邪魔します。」

おずおずと医局の中へ足を踏み入れる。

相変わらず散らかりっぱなしの室内を見回すと、いつも通りソファに脱いだまんまの白衣が無造作に投げ捨てられていた。

「もう…ちゃんとハンガーにかけたらどうなんですか。」

「めんどくさい。」

世良先生はコーヒー缶の蓋をひねると、口をつけながらデスクに座り直した。見ると、珍しくパソコンの電源が入っている。

「僕、先生がここで仕事してるところ初めて見ました。」

「失礼だな、俺が普段ここで何してると思ってんだ。」

「寝てるかタバコ吸ってるか、どっちかでしょ。」

世良先生は僕のセリフに吹き出すと、まあそうだけどさ、と言ってタバコを手に取った。

「最近は、どこ行っても禁煙だからなー。」

「言っておきますけど。ここも含めて院内全部、禁煙ですからね?」

釘をさすと先生は、厳しいなあ相変わらず、と言って再びタバコの箱を机に置いた。

「で?ご用件は。」

眼鏡を外した切れ長の目が、立ったままの僕を見上げてくる。

「用って、さっき言ったじゃないですか。」

「検査結果の束?あれは、ここへ来る為の口実だろ。」

ばれてる。

「えーと、元木さんが、その…」

「もとき?」

まるで初めて聞く名前だったかのように先生は首を傾げ、思い出したのか「…ああ、あの人か」と呟いた。

「もう、看護師の名前くらい覚えてくださいよ。」

「興味ないからなあ、外来と病棟合わせただけで何人いるか知ってるか?」

「知りませんけど…で、元木さんに。」

「はいはい。」

「…拗ねるなら、もっと可愛く拗ねて来い、と言われまして。」

そう言うと、世良先生は可笑しそうに肩を揺らして笑い出した。

「なるほど…で、素直にここへ来たわけね。」

「…ごめんなさい。」

ん?、と世良先生が首を傾げる。

「何が。」

「その…最初から期待してなかったとか。ちょっと可愛げなさ過ぎました。」

「うん、そうだな。」

「…そんなことないよ、とかフォローないんですか?!」

「冗談、冗談。」

世良先生は飲みかけの缶コーヒーを一口飲み、悪かったよ、と言って僕を見上げた。

「きちんと約束しておくんだったな。」

「本当ですよ。」

ちょっとだけ、頬を膨らませてみせる。

「すごく楽しみにしてたんだから…」

言ってから、猛烈な恥ずかしさが込み上げてきた。

世良先生は目を細めて苦笑すると、おもむろにスマホを取り出して操作し始めた。

「…片倉、明日の夜どう?」

「何がですか?」

「お詫びにご飯連れてってやる。」

「本当ですか?」

「ん、食べたい物考えとけよ。」

「はい!」

喜んで返事をすると、世良先生はスマホをポケットにしまい、ふとパソコン画面に視線を向けた。

「あー…じゃあ、そういう事で。また明日な。」

「あ、仕事してたんですよね。ごめんなさい…」

つられてパソコン画面に目を向け、びっくりした。

「何書いてるんですか?!全部英語だ!」

「…あー。」

先生はマウスに手を置くと意味も無くスクロールし、論文だよ、と言った。

「え、論文?ここ、大学病院じゃないのに…」

「…ま、色々な。」

はぐらかされたとは思ったけど、仕事のことなのでそれ以上は深く突っ込まなかった。

花火に行けなかったお詫びに食事の約束が出来て、この時の僕はちょっと浮かれていたのもある。


世良先生にアメリカ研修の誘いが来ている事を聞いたのは、この日見た事をすっかり忘れた頃になってからだった。

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