2.拗ねてもいいですか

―瑠維―

「…では、申し送りは以上になります。よろしくお願いします。」

よろしくお願いします、と看護師たちの声が重なる。夜勤明けの人たちは帰る支度を始め、これから日勤の看護師達が忙しく立ち回り始める。

僕も、自分の受け持ち患者のバイタル表を片手に椅子から立ち上がった。背後のホワイトボードを振り返り、今日の予定を再度確認する。

おはようございます、と再び先輩たちの声が重なったので反射的に振り向いた。

「おはようございま…」

習慣的に言いかけ、固まる。いつもの黒縁眼鏡、若干くたびれた白衣姿。

くっきりとした二重瞼の奥の瞳と、目が合った。

「おはよ。」

「…お、はようございます。」

思わず固い声が出てしまう。

けれど、変に意識していたのは僕の方だけだったらしい。世良せら先生はいつもの定位置に座ると、ノートパソコンを開いてカルテを打ち込み始めた。

ほっとすると同時に、ちょっとがっかりもする。

何だ。やっぱり、この間の花火大会の事なんて、気にしてなかったんだな。

片倉、と先輩に呼ばれて振り向く。

「あんた、世良先生にサイン貰わなきゃいけない書類…」

「あ、そうでした。」

慌てて入院患者の情報がファイリングされたファイルを取り出した。目的の用紙だけ外し、リングを閉じる。

だめだ。浮ついた事ばかり考えていないで、きちんと仕事しないと。

見ると、世良先生は先輩ナースに何やら指示を出している最中だった。近くに立ち、話が終わるのを待つ。

少しして、話が終わったタイミングですかさず声をかけた。

「世良先生、ここにサインを…」

書類を差し出す。世良先生は顔も上げずに僕の手から用紙を取ると、さっさとサインを書いて、無言で差し出してきた。

「…ありがとうございます。」

忙しいんだな。そう思ったから、受け取ってすぐに立ち去ろうと思ったのに。

…何故か、紙を離してくれない。

「ちょっと…先生?」

こないだ、と小さい声が聞こえた。

「え?」

「…ごめんな。」

切れ長の目元がこちらを向く。

先生が何の事を言っているのか思考が追い付くと同時に、鼓動が跳ねた。

「い、良いんです別にっ…気にしてませんから!」

ばっと用紙を取り上げ、慌てて先生から離れた。広げたままにしておいたファイルのリングを開く指が、震える。

「何なのよ片倉、顔真っ赤にして。」

「あ、元木さん。」

この間、花火大会の日に世良先生のPHSに代わりに出てくれた先輩ナースが、僕の顔を覗き込んで怪訝な表情になった。

「どうかしたの?」

「何でもないですっ。」

急いでファイルに用紙を綴じ、キャビネットに片づける。そういえば、と元木さんが僕を見た。

「こないだ、世良先生と何か約束でもしてたの?」

「えっ…」

焦って世良先生がいた方を振り向くと、もう医局に戻ったのか先生の姿は無かった。ほっとしたような残念なような、複雑な気分になりながら元木さんに向き直る。

「違うんです、そういうわけじゃなく…ちょっと聞きたいことがあって。」

「やっぱり急用だったんじゃないの?」

「違いますっ。」

仕事中の医師に向かって、花火大会に付き合ってなんて。ちっとも急用なんかじゃない。

でもね、と元木さんが続ける。

「片倉から電話あったって言ったら、世良先生びっくりしてたよ。しばらくカレンダー見つめて、動かなかったんだから。」

「え…?」

不意に、ステーション内に柔らかな音色の音楽が流れてきた。ナースコールだ。

「片倉ー、点滴交換行って!」

「はーい!」

呼ばれ、慌ててナーシングカートを準備しに行く。

平静でいなきゃと思うのに、点滴バッグを準備する手元が覚束ない。

先生、やっぱり気にしてくれてたのかな…。


急いで点滴交換を済ませ、カートを押してステーションに戻ってくると、カウンターにもたれて立っている白い影が視界に映った。

「先生…まだいたんですか?」

驚いて声をかける。とっくに医局…という名の自室へ、帰ったと思っていたのに。

世良先生は僕に気づくと、白衣のポケットに両手を突っ込んだまま近づいてきた。

「あのさ…。」

視線を感じてふと見ると、ステーション内にいる先輩たちが、こちらの様子をちらちらと窺っている。

「あの…先生。あの話なら、後にしてもらえませんか。」

声を潜める。先生は首を傾げた。

「何で。忙しいの?」

「い…」

忙しくない、と言いかけ、慌てて言い直す。

「そうです、今は忙しいんで!また後で…っ」

カートを押し、先生の横を通り抜けようとした。

ガンっ、という剣呑な物音と共に前につんのめる。

「ちょっ…ちょっと先生、足!」

抗議すると、僕の押すカートの車輪に片足を載せて止めた世良先生が不機嫌そうに眉根を寄せた。

「何で逃げんだよ。」

「逃げてません!」

いやもう、思い切り逃げようとしていたけれど。

だって気まずい。ステーション内で面白そうに見ている先輩たちの視線もそうだけど。

一人で花火大会のことばかり考えて、空回ってた事が、恥ずかしいから―。

「もう、どいてくださいっ…」

「言い訳くらいさせろよ。」

「…っ。」

「悪かったって。」

そう言いながら、先生はようやく車輪に載せていた足を下ろした。

「急にシフト替わってくれって言われて、すっかり頭から飛んでたんだ。行くつもりがなかったわけじゃないから。」

「…別にいいです、仕事なら仕方ないし。」

俯くと、怒ってるのか、と言われたので、慌てて顔を上げた。

「怒ってません!」

「じゃあ、拗ねてる?」

からかうように言われて、顔が火照った。

「…別に、ちゃんと約束してたわけじゃないし。先生が忙しいのは知ってるから、最初から期待もしてなかったし。もういいんです。」

あ、今の可愛くなかったな。

そう思った瞬間、ふうん、と世良先生が低くため息をついた。

「なら、何で」

急に、目の前に先生のPHSの画面が突き付けられる。

「わざわざ電話までしてきたんだ?」

僕からの着信履歴。元木さんが代わりに出た時のだ。

「そっ…れは…あ、入院中の工藤さんの採血結果、見てもらわなくて大丈夫かなって!」

咄嗟にさっき点滴交換してきた患者さんの名前を出してみたけど、あっさり躱された。

「それならさっき見たぞ、大して緊急性のある結果じゃなかったけど?」

「だっ…それは…!」

ピリリ、と高い音が鳴り響いた。世良先生が僕に見せているPHSが振動している。

「先生、出てください。」

「あー?」

着信元を確認した先生の表情が、げんなりとなる。

「…はい、世良です…。」

はい、はい…と返事をしながら、世良先生はフロアを出てバックヤードへ消えて行ってしまった。

ふう、と思わず息をつき、カートを押してステーション内に戻ると、先輩たちがにやにやしながら近づいてきた。

「ふーん、あんた世良先生と花火大会行く約束してたんだ。」

「仲良しだね。」

からかわれ、抗いようもなく頭に血が昇っていくのを感じる。

「違います、行けたらいいですねって話をしただけで!」

「だから、片倉は行く気満々だったけど、世良先生はその約束を忘れて当直を代わっちゃったてことでしょ?」

「そ…っ」

「で、片倉が拗ねちゃったから世良先生は焦っている、と。」

「…焦ってなんかないですよ。」

ナーシングカートに載せてきた、使用済みの点滴バッグを専用のごみ入れに捨てる。

「面白がってる、だけです。」

「そう言うけど、あんたたち本当仲良いよねえ。」

消毒液に浸した綿球を作っていた元木さんが、僕の方を向いて苦笑する。

「まるで子犬がじゃれあってるみたいよ。結構歳も離れてるのに、よくあれだけ遠慮なしに絡めるわね。」

「ね、世良先生って結構近寄りがたいイメージあるのに。」

「え…世良先生って、近寄りがたいですか?」

意外に思って聞くと、そりゃあね、と先輩たちは頷いた。

「外科医だし、院長の息子だし。美形だけどクールで、口数もそんな多くないじゃない?」

「モテるんだろうけど、高嶺の花過ぎるのよね。」

「でも片倉と絡んでる時だけは、すごく楽しそう。」

「そう、ですか?」

ちょっと面映ゆくなりながら聞き返すと、でもね、と元木さんに指を突き付けられた。

「あんた、さっきのはちょっと可愛くなかったんじゃない?」

「う…。」

「最初から期待してなかった、なんて嘘ついて。しっかりシフトまで調べていたじゃないの。」

えーそうなの?と先輩たちに笑われ、顔が熱くなる。

「だって…!そりゃ、一応そういう話はしたんだから…っ。」

「期待してたんでしょ?」

「…はい。」

観念して頷くと、馬鹿ねえ、と呆れた様に笑われた。

「ちゃんと素直に言ってあげなさいよ。拗ねるんだったら、もっと可愛く拗ねてきなさい。」

「可愛くって…」

「意地っ張りは良くないよ。」

ほらほら、と何故かステーションの外に追い出される。

「ちょっと、仕事中なんですけど?!」

「いいからほら、行って来なさい。」

はいこれ、と何故か書類の山を手渡される。

「何ですかこれ。」

「今日中に世良先生に確認してもらう検査結果!あんたが世良先生と揉めてる間に技師から届いたの。呼び止める間もなく電話しながら先生行っちゃったし、あんたが責任持って届けてらっしゃい。」

「…はーい。」

都合よく押し付けられた大義名分の束を抱え直し、しぶしぶバックヤードへ出た。

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