しのぶ想いは夏夜にさざめく

叶けい

1.どうしても花火が見たいわけじゃない

瑠維るい

いつもだったら息するみたいに自然に押せるPHSの番号をプッシュするのに、こんなに指が震えると思わなかった。

「…ふー…。」

誰もいないロッカールームの片隅。汗ばんだ手のひらをTシャツの裾で拭ってから、再びPHSを持ち直す。

そうだ、わざわざ番号押そうとするから緊張するんだ。いつもかけてるんだから、履歴を見たらいい。

発信履歴の画面を呼び出す。

世良せら先生』

「…っ」

名前を見ただけで鼓動が逸る。ええい、何を馬鹿みたいに緊張しているんだ。勢いよく発信ボタンを押す。

耳元で何度も繰り返すコール音を聞いていたら、次第に鼓動も落ち着いてきた。そうだよ、世良先生だよ。電話に出るなんて、奇跡に近いんだから―。

『…はーい。』

「う、あっ?!」

びっくりして、思わず変な声が出てしまった。

「もしもし…?!」

『なーに、片倉かたくら?あんたまだ居たの。』

元木もときさん、どうして?」

先輩ナースの名前を呼んでから、まさか間違えたのかと、思わずPHSの画面を確かめてしまった。

『どうしてって、救外の当番日だからよ。』

「救外?え…?」

慢性的に人出不足なこの病院では、月に何度か夜間救急のヘルプが当番で回ってくる。今日は元木さんだったのか。

いや、そうじゃなくて、

「どうして、世良先生のPHSに?」

『世良先生なら、さっき緊急オペ入ったから話せないわよ。どうかしたの?』

「えっ。世良先生って今日、当番じゃないですよね?!」

思わずそう言うと、あんたよく知ってるわね、と元木さんの怪訝そうな声が聞こえてきた。

『明日当番の先生に、急に代わってほしいって頼まれたらしいよ。何でも、身内に不幸があったとかで。』

「そうなんですか…。」

『急用なら伝えに行ってみるけど、何?』

「あ、いいです大した用じゃないんで…お疲れ様です!」

元木さんが何か言うより早く、慌てて通話終了ボタンを押してしまった。思わず長いため息がこぼれる。

「…そっか、今日夜勤なんだ…。」


病院を出て、いつもの最寄り駅へ向かう道とは反対方向へ足を向けた。

しばらく歩くと、桜の名所として有名な並木道が見えてくる。川沿いを歩いて行くと、不意に空が明るくなった。遅れて、体の奥に響くような重い爆発音。

「始まっちゃった…。」

橋の欄干にもたれ、遠くの空を見上げる。会場になっている土手沿いはきっと、今年もすごい人だかりができているに違いない。ここからじゃ遠過ぎるから、僕の他に空を見上げて立ち止まる人はほとんどいなかった。

「あーあ…。」

また一発、大きな一輪の赤い花が空に咲く。綺麗だなあ、とは思う。だけど、本当は一緒に見たかった。

右手に握りしめたままの院内PHSを見つめる。どうしようこれ、持ってきちゃって。

何となく電源ボタンを押してみる。不在着信、なし。いやそもそも、病院から離れて繋がるはずもないんだけれど。


―1ヶ月くらい前。僕は、心臓外科医の世良貴之せらたかゆき先生に玉砕覚悟の告白をして、見事に振られてしまった。

傲岸不遜で、自信満々で、そのくせ色々と適当。だけど本当は、誰よりも優しい世良先生。

気持ちを受け入れてはもらえなかったけど、今日の花火を一緒に見に行く約束はしてくれた。

…いや。約束してくれたと、思っていた。

よく考えたら、先生は「考えといてやるよ。」って言っただけだ。

一人で浮かれて、何日も前から自分と世良先生の救外の当番が花火大会にかぶってない事を確認していたけれど、なんか馬鹿みたいに思えてきた。

先生、今日が花火大会だって覚えてたのかな。

それとも、すっかり忘れて何も考えずに当番代わっちゃったのかな。

手のひらサイズのPHSをポケットにしまい、元来た道を戻る。

帰る道すがら病院の傍を通ると、また一台、救急車が到着したところだった。

きっとまだまだ、先生達は手が離せないに違いない。

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