場違いに重たい親近感

「何を、考えてんですかアンタはっ!」

 開口一番に叱咤を受け、悠はうん?と背後を振り返る。気配で誰かがいることは分かっていたし、わざわざこんなところまで足を運ぶのは颯くらいだろうという予想は見事に当たっていた。が、まさか叱られるとは思ってもなかった。そんな悠の考えに気づいたのか、颯は先よりも厳しい口調で繰り返す。

「アンタは、何を、してるんですか」

「見て分からない?」

「理解の範疇を超えてるから聞いてるんですよ」

 悠が腰を下ろしているのは足場の不安定な大きな木の上だ。颯の懸念はもっともで、ほんの少しでもバランスを崩せば良くて骨折、悪ければそのままお陀仏だ。

「んー、何だろね。考え事?」

「そんなとこでする考え事って何です? アンタの運動神経も身体能力も確かに凄いし理解してるつもりですけど、見てるこっちの心臓に悪いんですよ。分かったらさっさと降りてきてください」

「まったく、颯は心配性だな。……っと」

「猿も木から落ちるんですよ」

「誉め言葉として受け取っておこう」

「はいはい。で、こんなところでしなきゃいけないようなのっぴきならない考え事って?」

 差し支えなければ教えてください。口では殊勝なことを言っているが、目はきりきり吐けと訴えていた。相も変わらず表情豊かである。

「いやさ、何かずっと忘れものしてるような?」

「んなの言ってくれれば俺が探しますよ。何のためのバイトですか」

「や、そういう物理的なもんじゃなくてさ。……あー、言い方が悪かったかな。何かを忘れてる。気がする」

 たぶん、と添えられた言葉は自信のなさだろうか。不確かで要領を得ない、そんな風にしか伝えられないことに悠自身が戸惑っているようだ。

「……忘れもの、ですか。記憶喪失はどうにかできるものじゃないですからね。自然に、時の流れに身を任せるしかありません」

「そこまで重症じゃないっての」

「重症でしょう。……何を忘れてるかすら分からないのに、忘れてることだけは分かるなんて」

「あー、まあ、そう言われればそうかも……?」

「そうですよ。ところでその、忘れていることを思い出したきっかけとか、あるんですか」

「明確なものは何も。それが分かればもう少しなんとかなってたかな」

「…………無理でしょうけどね」

「うん? 何か言った?」

「いいえ何も。とにかく、考え事にしろ何にしろ、危ない場所は今後控えてくださいね。いくら馬鹿と煙は高いところが好きだからって、限度というものがあります」

「雇い主に向かって何たる暴言。つか煙じゃなくて偉い人とかじゃなかったっけ?」

「どっちでもいいですよ。アンタが偉いのも馬鹿なのも事実ですし」

「この野郎、二度も言いやがったな。あーあーあー、あの頃の可愛い颯くんはどこいっちゃったのかなー!」

「あの頃の愛らしい悠さんもどこにいったんでしょうね。俺は不思議でなりませんよ」

「愛らしいって普通あいつに使うもんじゃ、…………あいつって誰?」

「俺に聞かないでください」

「でも颯は知ってる」

「さあ、どうでしょう」

「……いいよ、よくないけどいいってことにしといたげる。で、そのあいつとやらに関する思い出話とかってある?」

「罵倒でも失望でもなく、一番に出てくるのがそれですか……。全く、アンタだけは変わらないですね」

「颯は知らないうちにずいぶん変わっちゃったみたいだね」

「そうですね。……ええ、変わりました。世界から色が消えたようなものですから、変わらない方がおかしいでしょう」

「戻らないの?」

「…………どう、でしょう。考えたこともありませんでした。いえ、考えないようにしていただけかもしれないですね」

「じゃあ戻す方法でも考えよっか」

「……………………は?」

「そのあいつとやらと、あいつ、面倒だから仮称アイちゃんでいっか。アイちゃんとの記憶」

「…………ちょっと、待ってください」

「いいよー」


「………………まず、確認させてください」

 おおよそきっちり十分、頭の中の考えが纏まったのか、はたまた多少なりとも整理ができたのか。颯は恐る恐る、という風に悠に問う。

「いいよ、なに?」

「アンタ、悠さん、本当に何も覚えてないんですか?」

「シンキングタイムから戻ってきたと思ったら開口一番がそれか。そもそも覚えてない、いや忘れてる?まあどっちでもいいや、だから颯曰くの"あんなとこ"で物思いに耽ってたんだけど?」

「いえ、あまりに理解の範疇を超えていて。……アンタだってことで無理やり自分を納得させることにします」

「謎の信頼、いやこれ失礼なこと言われてるな? もしかしなくともそうだな?」

「さ、ええと、アイちゃん、とやらのことについては俺の事情で、俺の都合なんですよ」

「アイちゃんもアイちゃん周りも巻き込まれた、と」

「話が早くて助かります。ええ、そうです。自分のことしか考えてなかった、俺の身勝手で独りよがりの結果です」

 自嘲と嫌悪を綯交ぜにした表情は颯には珍しい。だからこそ悠には分かるし、分からない。そんなにも大切な人を傷つけることが。守るためか、その方が幸せだと思ったからか。だけど颯の感情をここまで揺さぶる相手だ。その人が自分のために傷つく颯に傷つかないと、どうして思えるのだろう。きっと悠には一生分からない。分かりたくもない。

「ところでさ、颯の言い方からすると、もしかしなくともアイちゃんも颯や颯周りの物事全部忘れてたりとか?」

「お察しの通りです。……本当、人は見かけによらないものですね」

「いちいちディスらないと会話ができない病気にでも罹ってるのかな颯くんは」

「いえいえまさか。大恩人たる悠さんにそんな恐れ多い。ただ根が正直者なだけです」

「なお悪いわ。ま、いいや。それで? 思い出話はあった?」

「あったと言えばありますし、ないと言えばないですね」

「優柔不断な。もうここまで分かっちゃったんだから素直に話してもいいと悠さんは思うなー」

「本当に、些細な出来事ばかりなんですよ。……どう話せばいいかも分からない」

「その人と見る景色は綺麗だった?」

「……は、」

「一緒に過ごした時間は素敵なものだった? 何かを共有したとき、嬉しいとか楽しいとかは?」

 そういうものでいいんだよ。悠がやさしく語りかける。

「苦しいことは二人で半分こ、嬉しいことは二人で二倍。そういうもんでしょ。……あ、それとも完全一方通行、……ええと、その、ごめんね。今度からできる限り颯の心臓に悪くなるようなとこには登らないから」

「何から言えばいいか分かりませんが、きっぱりきっちり否定させて頂きます。それとできる限り、ではなく必要がない限りにしてください」

「善処します」

「……はあ。そうですね、悠さんとの思い出もありましたよ」

「え」

「たいていはアンタが中心になって、どっちかが見てるとかも多かったですね」

「お邪魔虫……?」

「じゃないです。それはありえません。……そうですね。確かに、綺麗でしたよ。ただ一緒にいるだけで、普段と何ら変わりない見慣れた景色に心を動かされるんです。愛しくて、かけがえのない時間で、……宝物です」

「それは」

 とても素敵だね。そう言いかけて、悠は口を噤んだ。どんなファンタジーかは分からないが、颯は今現在、その人との関わりがなくなっているのだ。俄かには信じがたいが、悠も含めて忘れているし、忘れられている人。突拍子もない話だ。だが悠に疑う気持ちはなかった。颯はこんな無意味なデタラメを言わない。それは信用でも信頼でもなく、単純に、颯ならもっと綺麗に嘘を吐く、という意味で。

「その宝物だけは、なくさないようにね」

 結局悠に言えたのはそんなありきたりなことだけだった。けれどそれは悠が思う以上に懇願めいた響きとなって零れ落ちる。切実な祈りであり、願いだ。

 遙もアイちゃんも、その周囲も覚えていないことを、きっとこの世界でただ一人覚えているだろう颯には酷なことを言っているのかもしれない。だが颯はその思い出を大事に仕舞っている。ならばこのくらいの、ほんのささやかな願いともつかないものくらいならば、いいだろう。誰に許しを得たいのか、内心で言い訳めいたことを考える。もしかしたらそれこそがアイちゃんと悠のかつてあっただろう関係だったのかもしれない。

「アイちゃんかー、会ってみたいな」

 当たり前に出てきた言葉に、颯よりも悠の方がよほど驚いた。予想以上に親しかったのだろうか。

「……アンタなら、会った瞬間すぐに仲良くなれますよ」

 会ってみたい。たったの一言からそこまで掬い上げてくれる颯に、悠はやるせなくなる。さみしくてかなしい。みんな幸せになれたらいいのにね。今度は口には出さず、ただそっと心の中の『アイちゃん』に語り掛けた。アイちゃんは肯定も否定もせず、静かに苦笑とも諦観とも取れぬ微笑みを浮かべるだけだ。きっとそれが、かつての悠と『アイちゃん』の関係だったのだろう。何も覚えてなくても、それだけ分かればもう十分だ。あったかもしれない三人での光景を浮かべて、悠はそっと笑みを浮かべた。いつか、その日がまたくればいいと願いながら。



2021.06.05

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嘘ひとつがあればいい 音原よこ @othryk

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