2-音
『ごめん、でもお前とは友だちのままでいたいんだ』
彼女にそう伝えたのは何年前の話だっただろう。大昔なんて呼べてしまうくらい前だったことだけは覚えてる。今また隣に座っている彼女は、細かく身体を震わせて、小さな声ですすり泣いていた。
「ダメだよね、本当。こんなことあんたに言っても仕方ないのは分かってるの」
零れ落ちた涙はカウンターに置かれたコースターに灰色の滲みをつくる。メロンソーダが入っていたコップはもう何年も前の話で、今隣に座る彼女の手にはギムレットの入ったグラスがあった。
暗いバーカウンターには彼女のすすり泣く声とバーテンダーが軽快に鳴らすカクテルの音。夕陽を見ながら電車を見送っていたあの日々からは随分離れてしまっていた。
「でもこんなこと話せるの、あんたしかいないんだもん」
震える声の間から。微動する空気と涙の隙間から。嫌でも言いたくなかったのに、なんて言葉が聞こえそうだった。そのことを肯定するようにカウンターを向いていた彼女は、耳に掛けていた髪を下ろして、自分と俺の間にささやかなカーテンを隔てる。
「おまえ、友だちなんて腐るほどいただろ?」
いないなんて言わせない。小学校でも中学でも、2-3人の友人を常に連れていた。高校に入ってからも、互いの学校の話をする時には必ず誰か友人らしき人の名前が挙がる。大学でもそうだった。
「何でも話せる人数なんて、たかが知れてるでしょ」
ため息のように呟くとギムレットを口に含む。泣きながら酒を呑んでいて、頭が痛いとボヤく彼女にチェイサーを差し出した。
「そういうところ、変わらないよね」
ふっと微笑む彼女に対して、今度は俺がショットをあおった。
『お願いだからさ、私と付き合ってくれない?』
透明な声でそう言われたあの日。俺は嫌だと答えた。ほとんど即答だった。嫌いじゃなかった。好きだった。理由はそれだけ。
『バカ』なんて言われたけど。次に会った時、それまで通りに言葉を交わせて、変な空気にならずにいられたことが嬉しかったのは、今でも覚えてる。付き合って、喧嘩して。本当に好きなヤツのことを傷つけたくなかった。こんな風に泣かせたくなかった。
でもこうして知らないヤツに振り回されて傷つくこいつの姿を見るのは、もう何度目のことだろう。それすらも、もう嫌になってしまった。
「そんなにソイツといて傷つくくらいなら」
グラスを置いて、茶髪のカーテン越しに彼女を見る。
「付き合ってみる? 俺とおまえで。上手くいきそうになかったら、すぐ別れるっていう前提で」
カーテンの向こうに見えた少しだけ口の開いたシルエット。肩が大きく上下すると、グラスを置いた彼女が言う。
「そっちが振ったくせに」
「あの時はそれが正解だったから」
「今は違うって言うの?」
涙に潤んだ艶っぽい声で訊くと、彼女はサッと振り向いた。
「今更バカじゃない?」
酒と涙で赤らんだ頬をオレンジ色に染めて、涙を煌めかせながらも恋人は微笑を湛えた。
風/音 成瀬哀 @NaruseAi
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