第四幕 優しさとは。
帰ろう。そう思って踵を返した瞬間、私は腰を抜かしてその場にへたり込みそうになった。何故って、今まさに虚数次元へと放逐したばかりの優が、突っ立っていたからだ。
「言っておくけど、私を送り返したのは哀の方だから」
憮然とした調子で優が言う。でも、雰囲気は先程までとはどこか違っていた。敵意も悪意も今の優からは感じられない。ばつが悪そうに、視線を脇へと逸らすだけだった。
しばらくして、優は訥々とあちら側であった経緯を、かつて優が抱いていた胸の内を、洗いざらい語った。私はそれを、何だそれと思いながら聞いていた。ただ寂しかっただけ? 不安だっただけ? だからなんだって言うんだ。どんな事情があったにせよ、優が空を蔑ろにしたのは事実だ。私にこいつを許すことは、できそうもない。
――だけど。
「哀はさ、朝川空には優しいんだね」
最初、何を言われたのかわからなかった。私が唖然としていると、優は唇の端を微かに吊り上げて、唄うような調子で、こう続けた。
「だって哀は、空のために怒ってるんでしょ? 他人を思うその感情は、優しさ以外の何物でもないじゃない」
ずるいよ、と。ワンテンポ遅れて、夏の夜風にかき消えてしまいそうな細い声が、優の口からこぼれ出た。朧気な青白い光を放つ、恒星のような煌めきの粒が、彼女の頬をすぅと伝って、ぽとりと落ちて。
それで、ようやく思い知る。私は、優のことを傷つけていた。傷つくのを恐れるばかりに自分から傷ついて、私が傷つくよりもっと深く、酷く、貴方のことを傷つけた。
胸の奥底から、痛切な何かが勢いよくこみ上げる。だけどその感情が何らかの形を取るより早く、優が踵を返した。淡いブロンドの髪の毛が、ふわりと舞う。そして優は、やけに平然とした声色で、独り言のように、だけどかろうじて私の耳に入るくらいの声量で、言った。
「きっと、言葉にして伝えてればよかったんだ。幼い不安も、一方的な我儘も。古語でも造語でも、何でも使って」
一歩、二歩、と。優が私から遠ざかる。唐突に足を止め、思い出したかのように一度だけこちらを振り返って。
「貴方のことも自分のことも、もっと、信じてあげればよかった。他者のいる世界を生きるって、きっと、そういうことだから」
切なげな苦笑を最後に、優は再び前を向く。今度こそ、振り返ることも立ち止まることもなかった。
……心臓のあたりに、右手を当てる。手渡されたその言葉を、胸の底から怖々と取り出して、持て余したように掌で転がして、でも最終的には、ゆっくりと強く握りしめて、胸の中に大事にしまった。
そのとき、聞き慣れた足音が私の鼓膜に飛び込んだ。やっぱり来たか、と。もう幾度目かもわからない、お決まりの感慨を思い浮かべた。だけど私の心臓は、これまでにないくらい強く、大きく跳ねていた。
「っ、ねえ哀! さっき、ここにオーロラ落ちなかった⁉」
「うん、落ちた。二度も目の前で見られるなんて、私も運がいいね」
様子を仔細に訊ねてくる空を前にして、少し焦った。二回も偶然が続くとなると、流石に言い訳が苦しい気がしてくる。
だから私は、適当なところで質問の弾幕を遮った。
「ねえ、空。私、死ぬまで空と一緒にいたい」
ぽかん、としか言いようのない表情で、空が固まる。
「あ。えっと。だからその……就職した後とかも、空と一緒にいたいなって、思って」
「あ、ああ。そういうことか。急に芝居がかったこと言ってくるから、ビックリしちゃった」
「……それで、返事は」
「哀がそれでいいっていうんなら、私は構わないけど」
葛藤も逡巡もほとんどなしに、空はすんなりと頷いた。
「でも、流石にあの家は出たいかな。ボロいし。お金溜まったら、二人で一緒に引っ越そうよ。というか、いっそ同じ部屋に済む? 家賃浮くし。あ、いや待って。それだと私、家事の諸々を哀に頼り切りになっちゃう気が……」
深刻な表情で唸り声を上げ始める空を前に、私は拍子抜けしたような、肩透かしを食ったような気分になった。だけど数秒後には、無性に大笑いしそうになってた。
何千回も繰り返して手に入らなかった未来が、まさか、こんなにもあっさりと転がり込んでくるなんて。クツクツと忍び笑いを漏らしながら、ありがとう、と。心の中で、彼女の後ろ姿に呟いた。生まれて初めて貴方がくれた等身大の助言は、とんでもないほど的確に、不器用な私を助けてくれた。
明日、改めて貴方に会おう。今度は私の口から、色々な話をしよう。謝罪とか感謝とか文句とか暴露とか、あと、これからのこととか。話すべきことは、沢山あるから。
「でも、なんか嬉しいな。哀の方から、そういうこと言ってくれて」
問題は一旦保留したのか、空が話題を変えてきた。
「ちょっと、思ってたんだよね。なんか哀って、たまに白々しいっていうか、よそよそしいときあるよな、って。だけど今、初めて哀の素顔が見られた気がするっていうか、対等になれた気がするっていうか。自分でも変なこと言ってるって、わかってるけど」
「……ううん。変じゃないよ。少しも」
ゆっくりとかぶりをふりながら、考える。多分、空も同じだったんだ。私に見放されるのが怖くて、だから毎回、自分から私のことを遠ざけた。私は、私が味わったのと同じ辛さを、この子に押し付けてしまってたんだ。
「ごめんね、空」
「え? 今、何か言った?」
「暑いね、って言ったの。アイスでも買って帰ろうか」
コンビニを経由して家に着くまでの間、誰一人としてすれ違うことはなかった。ついさっきオーロラが落ちたというのに、世間は何事もなかったみたいに、寝静まったままだった。
それもそのはず。非日常の象徴だった東京上空のオーロラは、いつの間にか有り触れた日常の一部と化している。どんなに特別な光景も、見慣れてしまえば、どうということはないのだ。
朧気な空の光を眺めながら、ぼんやりと考える。私がこれから歩んでいく道のりも、多分、そんなものなのだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます